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大隈重信とはどんな人物?生涯・年表まとめ【性格や人物像、功績についても紹介】

この記事では、大隈重信について、歴史年表にまとめつつ、その生涯で残した功績や人物像についてとことん掘り下げて紹介していきます。

大隈重信といえば、幕末維新期に活躍した志士、立憲改進党の党首で首相経験者、あるいは早稲田大学の創設者として知られています。近代日本を代表する人物の1人で、これまでも、いくつかの大河ドラマに登場してきました。しかし、これらの功績以外にもあまり知られていないさまざまな功績があります。

洋装姿の大隈(早稲田大学図書館蔵)

この記事では、よく知られた大隈重信の功績はもちろん、あまり知られていない功績やエピソードにもスポットライトを当てます。この記事を通して、あなたも近代日本に大きな足跡を残した大隈重信という人物により近づくことができるのではないかと思います。

それではどうぞ。

目次

大隈重信ってどんな人?

大隈重信の生まれは?

佐賀城跡

1838(天保9)年2月16日(陽暦では3月22日)、佐賀城下の会所小路で大隈重信は生まれました。

大隈家は筑後国久留米郡大隈村に定着した菅原道真の子孫と伝わり、佐賀藩の上級武士の家柄でした。重信の父は佐賀藩で石火矢頭人(いしびやがしら=砲術長)をしていた大隈与一左衛門信保(のぶやす)、母は佐賀藩士である杉本牧太の次女・三井子(みいこ)で、兄弟には姉の妙子・志那子と弟の克敏がいました。

大隈重信の幼少期は?

幼少期の大隈重信は、5歳になっても母親の乳にしゃぶりつくような、発育の遅い子供でした。また、「ハシクリ」と呼ばれて毎日のように喧嘩をし、いつも生傷があるような、いわば「問題児」でした。

そのような重信を心配した母の三井子は、幼い重信に対して熱心に教育を試みました。喧嘩ばかりする重信に、「腹が立ってもすぐ手を出さず、『南無阿弥陀仏』と10回となえなさい。それでも腹が立つようだったら好きなようにしなさい」と言い聞かせました。その結果、喧嘩の数はめっきり減りました。さらに、三井子は重信に、友達を大切にすることを教えます。重信が友達を連れて来ると、手料理や牡丹餅でもてなしました。その結果、重信の家はいつも友達が集まる場所となりました。

このような母親の教育が、のちの進取的で、社交的な政治家・文化人としての大隈重信を作り上げたと言えるでしょう。

大隈重信の青年時代は?

弘道館で使われた教科書

15歳で元服を済ませるまでには優秀な青年に育ちます。そして、選抜された佐賀藩のエリートが通う弘道館の内生寮に満14歳で入学し、優秀な成績をおさめました。

しかし、重信はその教育方針に徐々に疑問を感じるようになります。当時の弘道館には、主流派である朱子学派の「経学派」と国学を重んじる非主流派の「史学派」がいて、重信は非主流派の史学派に属していたのです。重信は、枝吉神陽から国学を学んでいました。結局、弘道館内部の対立に関わり、重信は退学となりました。

弘道館を去った重信は、蘭学と尊王論をともに学び、「開国進取」の先進を身につけたのでした。

大隈重信の幕末期の活動は?

フルベッキ

佐賀藩の蘭学寮でオランダの憲法に触れた重信は、衝撃を受けます。そして、「これこそ実に余が立憲的思想を起こしたる濫觴(らんしょう)」であったと、のちに回想しています。能力が認められた重信は、蘭学寮の教官となりました。さらに、佐賀藩校として英学塾「致遠館」が設立されると、教頭格として勤務するとともに、校長でアメリカ人宣教師のフルベッキに英学を学びました。

一方で重信は学問のみならず、藩政改革にも尽力し、貿易事業を推進しました。他方、薩長同盟締結の情報に早くから接していた重信は、大政奉還を徳川慶喜に説こうと考えましたが、失敗しました。ところがその後、土佐藩の後藤象二郎が慶喜に大政奉還を説いて実現させました。結果、佐賀藩は薩長や土佐よりも明治維新に出遅れてしまいます。

大隈重信の明治新政府での活動は?

明治新政府が誕生すると、大隈重信は中央政界で財政と外交の分野において頭角をあらわします。重信は1869(明治2)年、財政担当官として当時外国とのあいだで懸案となっていた贋金問題に関する交渉を担わされました。初期の業績としては、

  • 贋金問題で贋貨の回収や近代的貨幣制度の導入を欧米諸国に約束した高輪談判の処理
  • 現代につながる「円・銭・厘」を単位とする近代的貨幣制度を定めた新貨条例の制定をいち早く提言したこと

などがあります。

大蔵大輔に任じられた重信は、1873(明治6)年の地租改正や殖産興業政策の推進で、重信は手腕を発揮してゆきました。西郷隆盛ら征韓論派が失脚した明治六年政変では、下野した佐賀藩出身の江藤新平や副島種臣とは行動をともにせず、政府に残りました。政変ののちには大蔵卿に就任しました。

明治十四年の政変で大隈重信が下野した背景は?

1880(明治13)年に参議の各省卿兼任ができなくなると、参議であった大隈重信は大蔵卿を解任されました。その後も大蔵省で影響力を行使しようとして、重信は佐賀藩出身の佐野常民を大蔵卿にすることに成功します。ところが、重信が主張した外債募集案に何と頼みの佐野が反対するという事態となり、政府内における発言力を急速に失います。

一方、この頃、各地で自由民権運動が高まり、大隈重信も立憲政体の意見書を政府に提出しました。イギリス式の政党内閣を主張するもので、その急進ぶりに伊藤博文らの激しい反発を買います。結局、重信が謝罪しましたが、以降、政府内での重信外しが加速していきます。北海道開拓使による五代友厚への格安での払い下げに対する、政府批判の新聞報道でした。以前から重信に不信感を持っていた伊藤らは、重信によるリークがあったと疑い1881(明治14)年10月、大隈重信は参議を罷免され、野に下ることとなりました。

下野した大隈重信のあゆみは?

大隈重信の銅像

下野した大隈は、藩閥政府に対抗し、立憲主義を実現するために、1882年4月、立憲改進党を結成してその総理(党首)に就任します。その後、政党政治家として藩閥政府と対峙し、時には妥協・交渉しながら、外務大臣などを歴任します。そして、諸勢力を統合しながら進歩党と名乗って党勢を拡大しました。

さらに、自由党と合同し憲政党を結成します。これによって議会で多数を占め、ついに1897年には総理大臣に就任し、日本初の政党内閣を実現しました。政権内部で自由党系と進歩党系の対立もあり、結果的には1年持たない短命の内閣でした。しかし、政党が初めて主導的に政権運営をしたという点において日本の憲政史上、非常に意義深い政権でした。

一方で、東京専門学校(のちの早稲田大学)を設立します。立憲主義を真に実現するには、これを支える国民を育てることが急務であると考えたからでした。幕末から教育事業に関わってきたことも、重信が教育者として活動しようとした背景にはあるのでしょう。

大隈重信の左脚は義足だった?

大隈重信の左脚が義足だったことをご存知でしょうか?1889年10月、51歳の時に玄洋社という右翼団体のメンバーである来島恒喜が、重信に対する爆弾テロに及びました。その結果、重信は手術で左脚を切断されることになりました。いわゆる大隈重信遭難事件です。これにより重信は、義足で生活することになりました。

ちなみに、左脚はホルマリン漬けにされ、現在は大隈家の菩提寺である龍泰寺に保管されています。生前には重信が切断された左脚を来訪者に見せていた、という話もあります。さらには、テロの犯人である来島について、外務大臣に爆弾テロまでする勇気を賞賛していたそうで、来島の命日には墓参りを欠かさなかったというエピソードも残っています。

大隈重信と野球の関係は?

なぜ始球式で空振りするの?→大隈重信が偉すぎたから

日本初の始球式で投球したのは大隈重信でした。1908年12月、アメリカからプロの大リーガーを含む米国選抜チームが来日し、早稲田大学野球部と試合をすることになりました。羽織袴にソフト帽をかぶってマウンドに立った早稲田大学総長の重信。重信の投げた球は、明らかにボールになってしまう位置に飛んで行ってしまいました。バッター・ボックスには早稲田大学の選手が立っています。このままではまずいと考えたバッターは、大きく空振りをして重信の面目を保とうとしました。

このバッターの気遣いが伝統となって、始球式ではバッターが必ず空振りをするというのが暗黙のルールになったそうです。

大隈重信の年表をまとめると?

1838年「誕生」

佐賀城本丸

2月16日(陽暦3月22日)、佐賀城下の会所小路で、佐賀藩の石火矢頭人(砲術長)をしていた大隈与一左衛門信保と佐賀藩士・杉本牧太の次女である三井子のあいだに長男として誕生しました。

重信の幼名は、佐賀藩の産土神である竜造寺八幡宮から縁起のよい「八」の字をとって八太郎と名付けられました。大隈家は、筑後国久留米郡大隈村に定着した菅原道真の子孫の流れを汲むとされる、佐賀藩の上級武士の家柄です。重信の兄弟には姉の妙子・志那子と弟の克敏がいました。

1853年「藩校・弘道館の内生寮に入学する」

1844年(6歳)から重信は、佐賀藩の藩校である弘道館の外生寮(蒙養舎)で学んでいました。さらに1853年からは、選抜された佐賀藩のエリートが通う内生寮に進み、優秀な成績をおさめました。

しかし、重信は弘道館の教育方針に徐々に疑問を感じはじめます。当時の弘道館には、主流派である朱子学派の「経学派」と国学を重んじる非主流派の「史学派」がいました。重信はそのうち、非主流派の史学派に属していました。

当時の弘道館について、重信は「頑固窮屈なる朱子学を奉ぜしめ、痛く他の学派を擯斥し」ていたと批判的に記しています(『大隈伯昔日譚』)。

1855年「弘道館で退学処分、義祭同盟に参加する」

弘道館の方針に疑問を感じていた重信は、弘道館内部の対立に関わり、退学処分となります。

その後、重信は義祭同盟に関わります。義祭同盟というのは、南北朝時代に活躍した楠木正成父子の尊皇精神を顕彰する集団です。重信はこの義祭同盟に、副島種臣や江藤新平らのちに明治政府の担い手となる佐賀藩士とともに参加していました。義祭同盟で重信は、当時はまだ最新の学説であった尊王論や国体論の影響を受けます。

ちなみに、佐賀藩の尊王論は他の藩とは違って、排外的な攘夷論とは結合していませんでした。佐賀藩には、近接する長崎を通じて西洋の情報が入ってきていたため、佐賀藩の尊王論では世界から知識を入れることで国を強くすることこそが尊王である、という考えがあったのです。そのため、佐賀藩の尊王論は重信が西洋の文物に触れることを妨げず、むしろ積極的に西洋の文物を受容させる方向にはたらきました。

1856年「蘭学寮に入る」

産業革命のイメージ

重信は、尊王派の義祭同盟に関わりつつも、同時に佐賀藩が設置した蘭学寮で蘭学教育を受けます。佐賀藩は福岡藩と交代で長崎の防備を担当していて、西洋の情報に接しやすい環境にありました。重信の父・大隈与一左衛門信保が長崎の砲台長をしていたこともあり、重信にとって蘭学は身近な存在でした。

蘭学寮では、ハンデンブルグ『ナチュールキュンデ(物理学)』を原書で読み、産業革命後の西洋の最新技術を学びました。さらに、西洋の政治・歴史も学び、オランダの憲法に触れます。重信は、「これこそ実に余が立憲的思想を起こしたる濫觴(らんしょう)」であったとのちに述べています。やがて重信は、蘭学寮の教官となります。1861年には佐賀藩主・鍋島斉正にオランダ憲法を講義しました。

1864年「佐賀藩代品方の役人として勤務、貿易業務を行う」

佐賀藩は、外国の物資を含む物流の活発化によって藩の財政を維持しようとしていました。このような中で、蘭学を学び外国の事情に通じた重信は、佐賀藩にとって外国との交渉や取引の出来る貴重な人材でした。

佐賀藩代品方の役人となった重信は、長崎や大坂などを行き来しながら西洋に関する知識を活かして貿易業務を行い、藩の財政に貢献します。この時のキャリアが、明治維新以降の重信が財政と外交の分野で活躍する基礎となりました。

1867年「長崎で蕃書稽古所(のちの致遠館)が設立、教頭格となる」

西洋からの知識導入を積極的に進めていた佐賀藩は、英米の知識を扱う英学を学ぶ機関「蕃書稽古所」を設立し、しばらくして「致遠館」と改称します。1865年から長崎で英学を学んでいた重信は、教頭格としてここに勤務します。さらに、致遠館の校長に就任したオランダ系アメリカ人宣教師であるフルベッキから英学を学びます。

この時、重信はフルベッキから渡されたアメリカ独立宣言を読んで感銘を受けます。アメリカ独立宣言に書かれた自由や権利の概念に出会った重信は、日本に「之を移植せんとの志願を懐」いたと言います。

大隈重信の立憲主義者としての信念が、すでに幕末期から形作られていたというのは驚きですね。

1868年「明治新政府で徴士参与・外国事務官判事に就任する」

1867年に大政奉還で江戸幕府が終焉を迎え、明治新政府が誕生しました。これまでのスキルと経歴を買われて、大隈重信は中央政界で財政と外交の分野において頭角をあらわします。まず就任したのが、外国事務官判事でした。

幕末に学んだ蘭学や英学、さらには佐賀藩で貿易業務に関わった経験によって、重信は新時代の担い手としての役割を果たすことの出来る人材に成長しつつありました。

1869年「新貨幣鋳造を建議する、会計官副知事を兼任する」

重信は、久世治作とともに近代的な貨幣の鋳造を政府に建議しました。江戸時代以来の金貨・銀貨・銅貨による貨幣制度は計算も複雑でした。特に外国との取引では非常に不便で通商の障害にもなるため、諸外国からも貨幣制度の近代化が要求されていました。重信らの建議は、1871年5月、「円・銭・厘」を単位とする貨幣制度を定めた新貨条例として結実しました。

一方、重信は財政担当官として懸案となっていた贋金問題に関する外国との交渉を担います。英学者としての知識や交渉力ならびにイギリス公使パークスとの人脈が評価され、これ以降、新政府内で財政と外交の分野でのキャリアを積むことになります。同年12月には外国官副知事にも就任しています。

1869年「東京の築地に転居する」

築地

東京で暮らすことになった重信に、築地本願寺に隣接した約5,000坪もの広大な敷地が政府から譲渡されます。和洋折衷の豪華な邸宅を建設してここに移りました。重信の社交的な性格もあって、この邸宅には若手政治家が集まり常に5〜60人もの人たちが寝食をともにしていました。

また近所に住んでいた伊藤博文・井上馨・五代友厚・山県有朋などが出入りしました。かつて母親が自分の友達をもてなしたように、重信は彼らを大いに歓待します。そして重信は彼らとともに、内政・外交などについてこの邸宅で議論を交わしました。

そのため、この邸宅はいつしか「築地梁山泊」と呼ばれるようになりました。

1869年「大蔵大輔に就任する」

この頃になると新政府の官制が次第に整い、重信は大蔵大輔に就任します。これにより、重信は本格的に新政府財政の中心的担い手となりました。その後、政府の財政部門である大蔵省(現在の財務省)を基盤として、政府内での地位を確立していきます。

一方で、西郷隆盛ら征韓論派が失脚した明治六年政変では、西郷とともに下野した同じ佐賀藩出身の江藤新平や副島種臣とは行動をともにせず、政府内に留まりました。

1870年「参議に就任する」

木戸孝允(桂小五郎)

木戸孝允の推挙により、重信を大蔵大輔から参議に就任させることが決定されました。これはいわば昇進の人事であったのですが、大蔵省を権力基盤としていた重信にとって、大蔵大輔の地位を失うことは政治的リスクを伴うものでした。また、藩がいまだに残存していた当時の日本を近代的な統一国家へと改革しようと、大蔵官僚として尽力していた重信にとって、その改革への取り組みが中断してしまうという懸念もありました。

そこで、重信は参議の三条実美・岩倉具視・大久保利通らに就任の条件として、廃藩の断行などを提示し、認めさせました。この時は1871年6月までの任期でしたが、重信が主張していた廃藩置県の実施に際して、再び翌7月に参議に就任しました。

この時の、自己の昇進に甘んじない大隈重信の確固たる意志がなければ、廃藩置県による中央集権化、ひいては日本の近代改革そのものが遅れていたかも知れません。

1873年「参議兼大蔵卿となる」

官制改革により、重信はすでに1873年5月から大蔵省事務総裁に就任していました。この頃から、重信は大蔵卿の大久保利通との関係を深めていました。岩倉使節団の一員として西洋を視察した大久保は、重信が主張する急速な近代化の必要性に共感するようになっていたのです。そして、自ら大蔵卿を辞して、その後任に重信を推薦しました。

こうして、重信は参議であると同時に、大蔵省のトップである大蔵卿の地位を得て、近代化事業を力強く推し進めようとしました。重信は1873年の地租改正や富岡製糸場設置など殖産興業政策の推進において、手腕を発揮してゆきました。

1880年「大蔵卿を解任される」

政府で参議と省卿の兼任を禁じる参議省卿分離が決定されました。これによって、参議と大蔵卿とを兼任していた重信は、大蔵卿を解任されました。大蔵省を基盤として権力を維持してきた大隈重信にとって、大蔵卿解任は政府内での存立基盤を揺るがしかねない事態でした。

その後も大蔵省で影響力を行使しようとした重信は、打開策を考えました。そこで思いついたのは、佐賀藩出身の佐野常民を大蔵卿にすることでした。佐賀藩出身の後輩である佐野であれば、自分のコントロールがきくと考えたのでした。重信の思惑通り、佐野は大蔵卿となりました。ところが、重信が主張した外債募集案に何と佐野が大蔵卿として反対したのでした。こうして重信は、政府内における国家財政分野での発言力を急速に失います。

1881年「立憲政体に関する意見書を政府に提出する」

立憲政体に関する意見書

この頃、各地で自由民権運動が活発化し、憲法制定要求が高まっていました。このような社会情勢にあって、大隈重信も立憲政体の意見書を有栖川宮熾仁親王に提出しました。

その内容は1年後に選挙を実施し、2年以内に国会開設、そしてイギリス式の政党内閣の実現を主張するというものでした。政府内からの提案としてはあまりに急進的であったため、伊藤博文らは激しく反発しました。予想以上の反発に直面した重信は、伊藤らに謝罪することになります。重信が謝罪したことによって、とりあえず意見書に起因する重信への反発は収まります。

しかしながら、すでに大蔵省という権力基盤を失っていた重信は、これ以降、政府内でさらに疎外されるようになっていきました。

1881年「参議を罷免、政府から追放される(明治14年の政変)」

次第に政府内での影響力が低下していた重信に、疑惑が持ち上がります。北海道開拓使が五代友厚に格安で官有物の払い下げをしていたことが新聞で報じられ、政府を批判する世論が広まった、開拓使官有物払下げ事件がきっかけでした。重信が提出した立憲政体に関する意見書をめぐって、重信に不信感を持っていた伊藤博文らは、重信が記者にリークして問題が露呈したのではないかと疑ったのです。

こうして政府内部では、重信を排除しようとする動きが加速化しました。そしてついに、1881年10月、大隈重信は参議を罷免され、政府から去ることとなりました。

1882年「立憲改進党結党、同党の総理(党首)となる」

下野した大隈重信は、政党結成を準備します。そして、非自由党系の民権派団体関係者などを集め、立憲改進党を結成しその総理(党首)になります。立憲改進党の立場は、藩閥政府とも自由党とも異なるものでした。党の趣意書には「政治ノ改良前進」が謳われていて、明らかに藩閥政府の保守的なあり方に対抗するものでした。しかし、その一方で「急激ノ改革ハ我党ノ望ム所」ではないとして、自由党流の急進的改革とも一線を画していました。

また、立憲改進党には政党政治・議院内閣制の実現という明確なビジョンがありました。そして、政党は抽象的な理念でなく、具体的な政策を国民に提示すべきであり、その提示された政策によって政党間で争うべきだという施政主義を主張していました。つまり、政党政治の実現を目指している以上は、政権担当能力を持った政党でなければならないという考え方でした。これは、政権獲得よりも、まず政府に対抗する勢力を作ることを重視した自由党とは大きく異なる点です。

1882年「東京専門学校(のちの早稲田大学)開校式を行う」

早稲田大学

大隈重信の代表的な功績の一つが早稲田大学の前身である東京専門学校の設立です。重信のビジョンとして、政党を結成すると同時に、その政党による政党政治の担い手となる人材の育成が必要であると考えていました。当時、法律を教授する私立学校は専修学校(のちの専修大学)や東京法学社(のちの法政大学)、明治法律学校(のちの明治大学)など東京にも複数存在していました。しかし、政党政治・議会政治の担い手育成を考えていた重信は、当時は東京大学にしかなかった政治学の教授を東京専門学校の看板として掲げました。

重信の尽力で学校は成長し、1902年9月には現在の早稲田大学への改称が認められて、同年10月に早稲田大学としての開校式が挙行されました。

1887年「伯爵の爵位を授与され、華族に列せられる」

明治14年の政変で政府を追われた大隈重信でしたが、この頃から政府側の重信に対する態度が軟化していきます。帝国議会開設を前にして、在野で立憲改進党の総理(党首)として政治力を蓄え、早稲田大学の前身である東京専門学校を創設するなど社会的影響力を拡大してゆく重信を藩閥政府も無視できなくなったのです。

そのような政府の対応の表れの一つがこの重信への爵位授与でした。重信に与えられた伯爵の爵位は、制定当初、徳川御三卿や石高が10万石ほどの中程度の大名、伊藤博文ら政府内にいた維新の功労者などに与えられたものでした。この時期になって、政府を追放された重信にも、その伯爵の爵位が授与されたのです。これにより、重信は華族の一員となりました。

1888年「第一次伊藤博文内閣で外務大臣に就任する」

伊藤博文

この頃、欧米に妥協的すぎるとして批判されていた井上馨外務大臣は辞職へと追い込まれていきます。その後継者候補として浮上したのが大隈重信でした。帝国議会開設を控えて、政治的基盤を政党にもつ重信は、来るべき議会への対応を考慮して、政府に取り込んでおきたかったのです。幕末期から欧米諸国との交渉経験があるという点でも、重信は適任者と考えられました。こうして井上外相は後継者として重信を指名しました。黒田清隆や伊藤博文らが粘り強く交渉した結果、重信は党内で協議した上でこれを受け入れます。こうして、第一次伊藤博文内閣の外務大臣として、重信は政府に復帰することになりました。さらに、同年4月に黒田清隆内閣が成立したのちも引き続き外務大臣として政府に留まりました。

政党政治・議院内閣制を目指す立憲改進党側としては、政府に重信がいることで、憲法制定過程に関与できるかもしれないという期待がありました。実際、重信らの運動によって、大日本帝国憲法に議会の法案提出権と天皇への上奏権などを明記させることに成功しています。

重信は、外務大臣として欧米諸国との条約改正交渉を進めました。当時、欧米人が日本で犯罪を犯してもその裁判権は日本になく、日本に駐在する自国の領事が裁判権を行使することになっていました(領事裁判権)。この領事裁判権の廃止は、関税自主権の確立とならんで明治維新以来の外交政策における課題でした。領事裁判権を廃止する条件として、重信は大審院(現在の最高裁判所に相当)の判事に外国人を採用すると言う密約を交わします。ところが、これがイギリスの「タイムズ」に掲載され、さらに邦訳されて日本国内にも知られるところとなりました。

1889年「右翼青年による爆弾テロで右脚を失う(大隈重信遭難事件)」

 大隈重信の義足

領事裁判権の廃止の条件として大審院に外国人判事を任用するという、重信が交わした密約が明らかになると、日本国内で重信を非難する声があがりました。これを外国人判事任用問題といいます。さらに、これまで限られた居留地だけで許されていた外国人の土地所有を国内全体で認めるという内地雑居問題も世論の反発を招きました。そのような中で、1889年10月、右翼団体・玄洋社に所属する29歳の青年、来島恒喜が霞が関の外務省前で重信に対する爆弾テロを実行しました。

爆弾によって左脚を大きく負傷した重信は、緊急手術を受けますが、やむなく左脚を切断することとなりました。以降は義足での生活となりました。

1889年「山県有朋内閣成立に伴い外務大臣を免官となる」

重信が負傷したために、政府は条約改正交渉を継続することが困難となります。遭難事件から1週間後、黒田首相はじめ各大臣は条約改正交渉が失敗した責任をとって辞表を提出しました。しかし、入院中の重信は辞表を出すことができませんでした。議会開設1年前のこの時期、政府与党として日本初の総選挙を戦いたいとの思惑を持つ立憲改進党は、後継内閣でも重信が外相として留任することを望みました。

しかし12月、政党に警戒心を持つ山県有朋が首相に就任すると重信は依願免官とされ、政府から再び去ることになりました。これに代わって、重信は枢密顧問官に任命されました。

1896年「立憲改進党と立憲革新党などが結集して進歩党を結成する」

1890年の第1回衆議院議員総選挙では自由党系が128名当選したのに対し、重信の立憲改進党の当選者は46名にとどまりました。少数派となった立憲改進党ですが、重信の外相免官の経緯から政府と手を組むという選択肢はありませんでした。もう一つの選択肢として自由党との協力も模索し、合同も議論されましたが、両者の立場の違いが埋まらずに頓挫しました。

その後、1895年12月〜翌96年1月にかけての第9議会で立憲改進党は、日清戦争後に獲得した遼東半島の返還や三浦梧楼在京城公使らによる閔妃殺害事件など、政府の外交政策に対する責任追及をしようとしました。ところが、立場は違っても、これまで藩閥政府に批判的な「民党」の立場で必要に応じて立憲改進党と協力してきた自由党が政府を支持して、政府弾劾上奏案を否決してしまいました。さらに、1896年4月には自由党の板垣退助が第二次伊藤博文内閣の内務大臣として入閣しました。

このような議会の情勢に危機感を覚えたのが政府の外交政策を批判し、欧米諸国に対して強硬な姿勢を主張する対外硬派でした。政府と議会最大勢力の自由党が組んだことで、政府に批判的な諸勢力は、力を合わせて対抗する必要性を感じていました。こうして立憲改進党と立憲革新党などが合流して、進歩党という新党を旗揚げします。

1896年「第二次松方正義内閣に外務大臣として入閣する(松隈内閣)」

松方正義

日清戦争終結時に大蔵大臣を務めていた松方正義が戦後経営の必要性を主張し、そのための増税と財政整理をすべきだという立場に大隈重信は共感していました。しかし、当時の伊藤博文首相はこれに反対し、松方正義蔵相を解任してしまいました。一方、松方正義の主張する積極政策は経済界で支持を得ます。そして、三菱財閥の岩崎弥之助が、松方正義と大隈重信を京都の自邸で会談させ、提携を約束させました。こうして、松方が属する薩摩閥と重信の進歩党とのつながりが強化されていきます。

このような連携を背景として、松方正義が首相に就任することになると、重信は第二次松方正義内閣に外務大臣として入閣します。この時、重信と進歩党は言論・出版・集会の自由を認めることを入閣の条件として提示し、松方がこれを受け入れました。松方と大隈の連携による内閣ということで、第二次松方内閣は松隈内閣と呼ばれます。さらに重信は、足尾鉱毒事件への対応を批判され引責辞任した榎本武揚の後任として、農商務大臣も兼任し、汚染水対策など鉱毒問題の解決に尽力しました。

財政政策において、松方首相は地租引き上げを主張します。しかし、進歩党は支持者である地主層の利害に関わることから、これに反対します。そのため、政府の薩摩閥と重信及び進歩党とのあいだで対立が深まります。そしてついに、重信は1997年11月に外務大臣を辞任することになりました。一方、進歩党との提携が崩れた松方内閣は、議会で進歩党を含むすべての主要政党の抵抗にあい、12月に松方首相は辞表を提出しました。

1898年「立憲改進党が自由党と合同し、憲政党を結成する」

第二次松方内閣崩壊後に誕生した第三次伊藤博文内閣は、議会対策の観点から進歩・自由両党との連携を模索しましたが、交渉に失敗します。その後、伊藤内閣に対抗するため進歩党は自由党と協力しました。こうして、議会運営に失敗した伊藤首相は、議会を解散しました。

このような伊藤内閣の動きに対して、進歩党と自由党は協力を加速し、ついに合同して憲政党を結成したのでした。二大政党が合流したことで、議会に藩閥政府に対抗する協力な勢力が誕生することになったのです。

一方の伊藤は憲政党に対抗する議会勢力を形成するために政党結成を目論みます。しかし、藩閥勢力はそもそも政党自体に拒絶感があり、協力者を得ることができませんでした。結局、伊藤の目論みは失敗してしまい辞任に追い込まれました。

1898年「首相兼外相に就任、日本初の政党内閣を組織する(隈板内閣)」

伊藤首相の後任をめぐり元老会議が開かれましたが、憲政党という巨大政党の登場を前に、元老たちは誰も手をあげることがありませんでした。その結果、大隈重信を内閣総理大臣にしようということになり、内務大臣として板垣退助を加えて日本初の政党内閣が誕生しました。この第一次大隈重信内閣を隈板(わいはん)内閣と呼びます。

しかし、藩閥政府という共通の敵に対抗するために異質な二者が合同した憲政党は、すぐにそのほころびが露呈します。党内対立のため憲政党は分裂し、10月には旧進歩党系の人々によって憲政本党が結成されました。このような内部対立から、ついに11月8日、大隈重信は内閣総理大臣と外務大臣を辞任し、日本初の政党内閣である第一次大隈重信内閣は短命のうちに終焉を迎えました。その後、大正時代まで、政党内閣が誕生することはありませんでした。

下野した重信は、1900年12月、憲政本党の総理(党首)に就任し、1907年1月に総理を辞任するまで同党を率いました。

1904年「同仁会会長に就任する」

平壌

第一次大隈重信内閣が崩壊したのち、とくに日露戦争の頃から大隈重信は様々な社会的活動に積極的に支援・参加するようになりました。その1つが同仁会です。同仁会は1904年、中国・朝鮮に医学を普及させることを目的として設立された団体です。初代会長は長岡護美子爵でしたが、1904年8月に重信が会長職を長岡から引き継いでから、急速に発展しました。当初は国内に2ヶ所しかなかった支部も、重信の時代には国内に30カ所以上に増加したほか、中国の上海と朝鮮の平壌(ピョンヤン)にも支部が設置されています。アジア各地に医師を派遣したほか、朝鮮や満洲地域に病院を設立しました。

しかし、資金難が続き、財政状況は決して良好ではありませんでした。1914年に第二次大隈重信内閣が成立したのちには、重信は首相として同仁会への国庫補助を働きかけ、1918年度から政府による国庫援助を受けることになりました。これにより、さらに中国に病院を設立するなど同仁会は発展しました。

このほか、1906年10月の日印協会会長就任、1910年1月の大日本平和協会での会長就任など、外務大臣としての経験を活かして、重信は海外との交流・友好関係構築に関する活動をリードしました。

1905年「『日本百科辞典』編修総裁に就任する」

日本百科大辞典 大冊見本

『日本百科辞典』は三省堂から出版された日本で初めての本格的な百科事典です。この時期にはまだ「事典」という用語は用いられていませんでしたので、「辞典」という漢字が使われていました。この百科事典は1893年にすでに編纂が始まっていましたが、よりよいものを作りたいという関係者の熱意で重信が編修総裁として編纂を取り仕切ることになりました。

重信は多数の学者をこの事典のために集めて、期待に応えようとします。1908年に第1巻が出版された際には、大隈邸で刊行披露の園遊会が行われましたが、それを新聞が報じたため、三省堂には予約が相次ぎました。そして、第6巻まで刊行されました。ところが、順調にことが進んでいるように見えた矢先、なんと三省堂が倒産するという自体が発生します。『日本百科辞典』にコストをかけすぎたことが原因でした。この事業に思い入れのあった重信は、政財界に呼びかけて三省堂を再建し、全10巻刊行まで事業を成し遂げました。

このほか重信は、1905年7月に国書刊行会の創設に関わり初代総裁に就任、また1906年2月には、文芸協会の初代会長に就任するなど、出版・文芸の振興に尽力しました。さらに、1908年4月には「東西文明の調和」を理念とする大日本文明協会を設立して会長となっていますが、最新の西洋書籍を翻訳した「大日本文明協会叢書」シリーズの刊行により日本の学術の発展と知識の普及に大きく寄与しました。

1907年「早稲田大学総長に就任する」

早稲田大学の前身である東京専門学校では、1882年に大隈重信が開校して以来、学校を代表する役職として校長職が置かれていました。1902年に早稲田大学と改称した後には、大学としての体制を整備してゆきます。その一環として、校長とその補佐役としての学監が廃止されました。そして、校長・学監制に代わって登場したのが総長・学長制でした。

その初代総長として1907年4月に就任したのが、早稲田大学の創設者である大隈重信でした。重信は、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」という建学の理念を掲げつつ、終身(1922年まで)、総長として早稲田大学の発展はもちろん、学術振興・人材育成のために尽くしました。

なお、重信死去の翌年である1923年、早稲田大学では総長・学長制が廃止され、現在のような総長制のみの体制となりました。

1908年「早稲田大学野球部と米国選抜チームとの試合の始球式で投球する」

アメリカからプロ選手を含む米国選抜チームが来日し、早稲田大学野球部と試合をすることになりました。その始球式でマウンドに立ったのが当時、早稲田大学の総長だった大隈重信でした。

これは日本初の始球式でした。すでに高齢である上に左脚が義足であった重信にとって、ストライクになるような投球をするのはほぼ不可能でした。重信の投げた球が正面から大きく外れたので、気を遣ったバッターが空振りをして、重信に恥をかかせまいとしました。この出来事が前例になって、今でも始球式では必ずバッターが空振りをすることになっています。

このように、今や日本の国民的スポーツとなった野球の世界にも、重信の影響があるのです。

1909年「帝国軍人後援会会長に就任する」

帝国軍人後援会は、日清戦争の軍人遺族への援護を目的として発足した軍人遺族救護会を前身とする団体で、遺族に対する援護のほか、出征中の軍人家族や傷痍軍人の家族、生困難に陥った軍人を扶助する団体です。

大隈重信は、会長であった榎本武揚の死を承けて会長に就任しました。戦後日本のイメージでは、軍国主義団体とみなされるかも知れませんが、重信が会長として軍人に対して行った講演では、戦争は敵を滅ぼすとともに自国をも滅ぼしてしまう可能性であることに言及しながら、「此故に軍国主義の教育ばかりでは、決して真正の強兵を期することは出来ませぬ」と語っています。重信にとって、帝国軍人後援会は、軍国主義を鼓舞する団体ではなく、あくまで戦争によって亡くなり、あるいは傷ついた軍人やその家族を助けるための団体であったのでした。

1910年「南極探検後援会会長に就任する」

南極

白瀬矗中尉による南極探検の背景には、大隈重信の後援がありました。白瀬矗中尉が支援を依頼すると、重信はすぐさま応じたといいます。その理由が先取の精神をもつ重信らしいのですが、白瀬中尉らの前人未到の地に乗り込もうという壮大な計画と心意気が、国民の精神によい影響を与えるから、というものでした。

さらに重信らしいのが、白瀬中尉らが南極探検に出発する際に、全国の有名な花火師たちに協力を依頼して、壮行のための花火大会を行ったことです。幼少期に母親から学んだもてなしの精神を大いに発揮して、これから過酷な事業に臨もうとする南極探検隊員たちを元気づけたのです。

1914年「首相に就任する(第二次大隈重信内閣)」

シーメンス事件で辞職に追い込まれた山本権兵衛首相の後任として、大隈重信が再び首相となる機会が巡ってきました。しかし、最初から重信が首相となることに決まっていたわけではありませんでした。それ以前に、第1次山本内閣の後継内閣として、徳川家達と清浦奎吾がそれぞれ、大正天皇からの命を受けて組閣を試みました。ところが、閣僚人事の調整がうまくいかず、両者とも組閣に失敗してしまいました。こうして、元老会議は徳川・清浦に代わる山本首相の後任を至急、奏請しなくてはならない状況となります。

そこで、白羽の矢が立ったのが重信だったのです。当時、重信は、1907年に発生した憲政本党の内紛を契機として政界から引退していましたが、首相として再び政界に舞い戻ることになりました。

1914年4月13日、内閣総理大臣として組閣を命じられた重信は、かつて憲政本党に属していた議員が所属する立憲同志会・中正会から閣僚を入れて組閣しました。そして当時、立憲同志会における指導者であり、大隈とも深い関係のあった三菱財閥と血縁のある加藤高明が外務大臣として入閣して、重信を補佐する役割を果たしました。この内閣で加藤外相は、1915年1月に中華民国に対して「二十一箇条要求」を提示しました。また、「憲政の神様」と呼ばれた中正会の尾崎行雄を交渉の末、司法大臣として入閣させるのに成功しました。当初、内務大臣には山県有朋系の大浦兼武の就任が計画されていましたが、尾崎が大浦を内相にしないことを条件にしたため、重信が内相を兼任することになりました。

この内閣は政党員が多く入閣していましたが、衆議院議員は2名のみで、政党内閣ではありませんでした。しかし、吉野作造が『中央公論』への寄稿で「新内閣を以て、政党内閣の端緒として之を迎ふることは決して不当ではないと思ふ」と述べるなど、ジャーナリズム界から、政党内閣の時代のさきがけとして歓迎されました。このような世論の重信人気を背景として、1915年3月に行われた第25回衆議院議員総選挙で与党が大勝しました。1916年7月、重信は侯爵となり、大勲位に叙されています。

1916年「第二次大隈内閣総辞職する」

衆議院選挙で与党が大勝したことで、第二次大隈内閣の衆議院における議会運営は比較的順調に進みました。しかし、一方の貴族院はそうはいきません。なかでも紛糾したのが、減債基金還元問題でした。減債基金還元問題とは、貴族院で若槻礼次郎大蔵大臣が、将来の借金返済に充てるための減債基金5000万円から鉄道改修費として2000万円を支出することを認める代わりに、経済状況が好転して国債募集ができるようになった場合には、減債基金を5000万円に戻すことを約束したことが発端でした。

当時、大戦景気であったため、貴族院が内閣に約束どおり減債基金を還元するよう要求したのです。これに対して、重信は大戦景気は一時的なものだとしてこの要求を斥けます。第二次大隈内閣の財政政策の看板は国債を発行しないことであったため、貴族院の圧力によってこれを簡単に変えることはできませんでした。減債基金還元問題をめぐる貴族院との攻防で、次第に内閣は追い詰められていきます。

やがて、予算案通過が危ぶまれる状況にまでいたり、首相辞任を条件にして、重信は山県有朋に貴族院との調停を依頼しました。山県の調停により予算案を無事に貴族院を通過・成立させることができたので、1916年10月に第二次大隈内閣は総辞職しました。

1922年「死去」

龍泰寺

首相辞任後も大隈重信は、高齢ながら精力的な活動を続けました。その結果、無理が祟って体調不良となり、1921年夏から病床についていました。そしてついに、1922年1月10日午前4時38分に死亡します。

葬儀は1月17日に、東京の日比谷公園で「国民葬」として挙行されました。参列者は30万人であったとされています。この人数から、重信が国民的な人気を得た人物であったことがうかがえます。葬儀ののち、重信の遺骨は、東京の護国寺と故郷佐賀にある大隈家菩提寺の龍泰寺に埋葬されました。

重信死去の翌月には、幕末維新期に活躍し、大隈と良くも悪くも関係が深かった山県有朋が死亡します。大正デモクラシーの時代を迎えた1922年。この年は一つの時代の終わりを告げる年となりました。

まとめ

これまで大隈重信の生涯をみてきました。

重信の歩んできた道をごく簡単にまとめると「信念を曲げずに妥協し、妥協することによって信念を実現しようとする」ものであったと言えるでしょう。重信は藩閥政府を批判しながら、松方内閣に入閣して、少しでも信念を実現するために薩摩閥と連携しました。その一方で、日清戦争後には伊藤博文による藩閥政府に対抗するために、これまでライバル関係にあった自由党と連携して政党内閣を実現させるなど、生涯あらゆる連携を試みました。このように、重信は対立に終始せず、状況に応じて大胆に妥協しながら、それによって信念を実現しようとした政治家でした。

ともすれば私たちは、オールオアナッシングの極端な選択をしなければ信念は守れないと考えがちです。信念を捨てて妥協するか、それとも信念を守るために一切の妥協を拒絶するか。前者であれ、後者であれ、いずれの選択でも現実世界に自分の信念を実現するのは困難でしょう。大隈重信は、信念を「守る」ものであると考えず、「実現する」ものと考えていたのではないでしょうか?そして、限られた選択肢の中で、信念を最大限実現できるのはどの選択かを常に模索していたようにみえます。信念と現実とのはざまで苦悩する私たちにとって、大隈重信の人生から学ぶことは多いのではないでしょうか。

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