大隈重信は、幕末維新期に志士として活躍し立憲改進党の党首ならびに早稲田大学の創設者です。
近代日本を代表する人物の一人として大河ドラマに登場したこともあり、名前を知っている人も多いのではないでしょうか。しかし、大隈重信の知名度とは裏腹に、人柄や彼にまつわる逸話を知らなかったりしますよね。
そこでこの記事では、大隈重信の生涯について解説します。彼の生涯を年表にまとめつつ、あまり知られていない人柄や逸話にもスポットライトを当てていきますよ。
近代日本に大きな足跡を残した大隈重信の生涯をのぞきに行きましょう。それではどうぞ。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
大隈重信ってどんな人?
名前 | 大隈重信 |
---|---|
誕生日 | 1838年3月11日 |
没日 | 1922年1月10日(83歳) |
生地 | 肥前国佐賀城下会所小路(現・佐賀県佐賀市水ヶ江) |
没地 | 東京府東京市牛込区早稲田 |
配偶者 | 大隈美登 大隈綾子 |
子ども | 大隈熊子(長女) |
大隈重信の生涯をハイライト
大隈重信は1838年3月11日に、現在の佐賀県である肥前藩の藩士の家に生まれました。大隈家は筑後国久留米郡大隈村に定着した菅原道真の子孫と伝わり、佐賀藩の上級武士の家柄でした。
重信の父は佐賀藩で石火矢頭人(いしびやがしら=砲術長)をしていた大隈与一左衛門信保(のぶやす)、母は佐賀藩士である杉本牧太の次女・三井子(みいこ)で、兄弟には姉の妙子・志那子と弟の克敏がいました。
子供の頃から蘭学を学び、世界の政治や文化にも通じていた大隈重信は、肥前藩にて貿易業務を行い、藩の財政に貢献します。
新政府では、藩での経験を活かして大久保利通のもと、財政の分野で活躍します。そして、現在の財務省である大蔵省の重役となった大隈重信は産業を発展させる政策をとり、日本の文化発展に貢献しました。
1881年に大隈重信は伊藤博文と対立し、新政府を去りますが、立憲改進党を結成した後は現在の早稲田大学である東京専門学校を創立します。その後は不平等条約の改正を進めるため、再び政府に招かれることになり、外務大臣として尽力します。
1898年には憲政党を作り、日本初の政党内閣を組織します。憲政党が解散となった後も歴代総理大臣中最高齢である78歳6か月まで総理大臣として勤めあげます。
そんな高齢になってからも活躍した大隈重信ですが、1922年1月10日に癌によって83歳という年齢で亡くなりました。
幼少期はおてんばで喧嘩早い気性の持ち主
幼少期の大隈重信は、5歳になっても母親の乳にしゃぶりつくような、発育の遅い子供でした。また、「ハシクリ」と呼ばれて毎日のように喧嘩をし、いつも生傷があるような、いわば「問題児」でした。
そのような重信を心配した母の三井子は、幼い重信に対して熱心に教育を試みました。喧嘩ばかりする重信に、「腹が立ってもすぐ手を出さず、『南無阿弥陀仏』と10回となえなさい。それでも腹が立つようだったら好きなようにしなさい」と言い聞かせました。
すると、喧嘩の数はめっきり減りました。さらに三井子は重信に、友達を大切にすることを教えます。重信が友達を連れて来ると、手料理や牡丹餅でもてなしました。その結果、重信の家はいつも友達が集まる場所となりました。
このような母親の教育が、のちの進取的で、社交的な政治家・文化人としての大隈重信を作り上げたと言えるでしょう。
大隈重信は聡明な青年に育つ
重信は、15歳で元服を済ませるまでには優秀な青年に育ちます。そして、選抜された佐賀藩のエリートが通う弘道館の内生寮に満14歳で入学し、優秀な成績をおさめました。
しかし、重信はその教育方針に徐々に疑問を感じるようになります。当時の弘道館には、主流派である朱子学派の「経学派」と国学を重んじる非主流派の「史学派」がいて、重信は非主流派の史学派に属していたのです。
重信は、枝吉神陽から国学を学んでいました。結局、弘道館内部の対立に関わり、重信は退学となりました。
弘道館を去った重信は、蘭学と尊王論をともに学び、「開国進取」の先進を身につけたのでした。
饒舌で話し上手だった大隈重信
大隈重信は饒舌でトークがうまかったといわれています。
同じ時代のジャーナリストである伊藤痴遊や池辺三山から、弁舌がうまいと評されており、トークのうまさでは他の誰にも負けないと言われるほどでした。
こういったこともあり、様々な講演に招かれてトークする機会が非常に多くありました。時には相反する存在である、禁酒団体と酒造業組合を1日のうちに、はしごして講演をしたこともあったようです。
真面目で責任感の強かった大隈重信
大隈重信と40年以上の長い付き合いのある尾崎行雄は「一度も大隈重信の怒った顔を見たことが無い」と発言しています。
大隈重信自身も、怒らないことを心がけていたようで「イライラした時は風呂に入る。体をゴシゴシ洗っていれば自然とイライラは収まる」と言っています。
またジャーナリストである関直彦によると、大隈重信は物事を記憶する力が高く、人から貰った恩はどれだけたっても忘れず覚えていた、と言われています。これは、幼少時代に受けた母親の教育のおかげかもしれませんね。
こういった事から、人々に非常に愛されるような性格であったことが良く分かります。
人生125歳説を唱える
大隈重信は、「人間は適正な食事をし適正な生活を送っていれば125歳まで生きられる」と考えて「人生125歳説」を唱えていました。これには、全ての動物は成熟期の5倍の生存力を持っている事から、人間の成熟期は25歳と考えて5倍の125歳まで生きられる、という根拠から提唱しています。
大隈重信により設立された早稲田大学も、それにあやかって125という数字を特別視するようになりました。
例えば早稲田大学のキャンパス「大隈講堂」の塔の高さは125尺であったり、1963年には大隈重信の生誕125年を祝した記念行事を挙げたりしています。早稲田大学創立125周年にあたる2007年にも記念式典を実施しています。
大隈重信自身は1922年1月10日に83歳で癌によって亡くなっています。大隈重信は亡くなる少し前に「人生125歳説をもっと早く思い立つことが出来れば」と後悔していたそうです。ただ大隈重信の亡くなった歳である83歳は、当時の日本人の平均寿命としては長寿にあたります。
始球式での空振りは大隈重信が始まり!?
日本初の始球式で投球したのは大隈重信でした。
1908年12月、アメリカからプロの大リーガーを含む米国選抜チームが来日し、早稲田大学野球部と試合をすることになりました。羽織袴にソフト帽をかぶってマウンドに立った早稲田大学総長の重信。
重信の投げた球は、明らかにボールになってしまう位置に飛んで行ってしまいました。バッター・ボックスには早稲田大学の選手が立っています。このままではまずいと考えたバッターは、大きく空振りをして重信の面目を保とうとしました。
このバッターの気遣いが伝統となって、始球式ではバッターが必ず空振りをするというのが暗黙のルールになったそうです。
大隈重信の功績
功績1「早稲田大学の創立」
大隈重信は1882年に現在の早稲田大学にあたる東京専門学校を創立します。
「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念として、日本の学問の発展に大きく貢献してました。知っての通り、現在に至っても私立大学の名門として名をはせており、数多くの有名人も輩出しています。
ちなみに早稲田大学の、初代校長は大隈重信の養嗣子である大隈英麿が、初代総長は大隈重信自身が務めています。
功績2「不平等条約の改正に尽力」
大隈重信は前述のように、早稲田大学を創立するなど教育者として優れていましたが、政治家としても活躍します。2度内閣総理大臣として務め、第一次世界大戦への参戦したり、対華21カ条要求に関与したりしました。
また、外務大臣として不平等条約の改正交渉にあたります。その結果、メキシコとの間で平等条約を締結し、米国等とも改正条約に調印します。しかし条件として大審院に外国人判事を任用するという物があり、これに反発した右翼活動家である来島恒喜の襲撃を受けて、大隈重信は右足を失いました。
この襲撃を受けて大隈重信は外務大臣を辞め、結果として条約改正案は白紙になりますが、日本の発展の為に様々な手を尽くしました。