大隈重信とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績を交えて解説】

1896年「第二次松方正義内閣に外務大臣として入閣する(松隈内閣)」

日清戦争終結時に大蔵大臣を務めていた松方正義が戦後経営の必要性を主張し、そのための増税と財政整理をすべきだという立場に大隈重信は共感していました。

松方正義

しかし、当時の伊藤博文首相はこれに反対し、松方正義蔵相を解任してしまいました。一方、松方正義の主張する積極政策は経済界で支持を得ます。そして、三菱財閥の岩崎弥之助が、松方正義と大隈重信を京都の自邸で会談させ、提携を約束させました。

こうして、松方が属する薩摩閥と重信の進歩党とのつながりが強化されていきます。

このような連携を背景として、松方正義が首相に就任することになると、重信は第二次松方正義内閣に外務大臣として入閣します。この時、重信と進歩党は言論・出版・集会の自由を認めることを入閣の条件として提示し、松方がこれを受け入れました。

汚染水対策にも尽力した重信

松方と大隈の連携による内閣ということで、第二次松方内閣は松隈内閣と呼ばれます。さらに重信は、足尾鉱毒事件への対応を批判され引責辞任した榎本武揚の後任として、農商務大臣も兼任し、汚染水対策など鉱毒問題の解決に尽力しました。

財政政策において、松方首相は地租引き上げを主張します。しかし、進歩党は支持者である地主層の利害に関わることから、これに反対します。そのため、政府の薩摩閥と重信及び進歩党とのあいだで対立が深まります。そしてついに、重信は1997年11月に外務大臣を辞任することになりました。

一方、進歩党との提携が崩れた松方内閣は、議会で進歩党を含むすべての主要政党の抵抗にあい、12月に松方首相は辞表を提出しました。

1898年「立憲改進党が自由党と合同し、憲政党を結成する」

三度目の内閣組閣した伊藤博文

第二次松方内閣崩壊後に誕生した第三次伊藤博文内閣は、議会対策の観点から進歩・自由両党との連携を模索しましたが、交渉に失敗します。その後、伊藤内閣に対抗するため進歩党は自由党と協力しました。こうして、議会運営に失敗した伊藤首相は、議会を解散しました。

このような伊藤内閣の動きに対して、進歩党と自由党は協力を加速し、ついに合同して憲政党を結成したのでした。二大政党が合流したことで、議会に藩閥政府に対抗する協力な勢力が誕生することになったのです。

一方の伊藤は憲政党に対抗する議会勢力を形成するために政党結成を目論みます。しかし、藩閥勢力はそもそも政党自体に拒絶感があり、協力者を得ることができませんでした。結局、伊藤の目論みは失敗してしまい辞任に追い込まれました。

1898年「首相兼外相に就任、日本初の政党内閣を組織する(隈板内閣)」

現在の首相官邸

伊藤首相の後任をめぐり元老会議が開かれましたが、憲政党という巨大政党の登場を前に、元老たちは誰も手をあげることがありませんでした。

その結果、大隈重信を内閣総理大臣にしようということになり、内務大臣として板垣退助を加えて日本初の政党内閣が誕生しました。この第一次大隈重信内閣を隈板(わいはん)内閣と呼びます。

しかし、藩閥政府という共通の敵に対抗するために異質な二者が合同した憲政党は、すぐにそのほころびが露呈します。党内対立のため憲政党は分裂し、10月には旧進歩党系の人々によって憲政本党が結成されました。

このような内部対立から、ついに11月8日、大隈重信は内閣総理大臣と外務大臣を辞任し、日本初の政党内閣である第一次大隈重信内閣は短命のうちに終焉を迎えました。その後、大正時代まで、政党内閣が誕生することはありませんでした。

下野した重信は、1900年12月、憲政本党の総理(党首)に就任し、1907年1月に総理を辞任するまで同党を率いました。

1904年「同仁会会長に就任する」

第一次大隈重信内閣が崩壊したのち、とくに日露戦争の頃から大隈重信は様々な社会的活動に積極的に支援・参加するようになりました。その1つが同仁会です。

同仁会は1904年、中国・朝鮮に医学を普及させることを目的として設立された団体です。初代会長は長岡護美子爵でしたが、1904年8月に重信が会長職を長岡から引き継いでから、急速に発展しました。

当初は国内に2ヶ所しかなかった支部も、重信の時代には国内に30カ所以上に増加したほか、中国の上海と朝鮮の平壌(ピョンヤン)にも支部が設置されています。アジア各地に医師を派遣したほか、朝鮮や満洲地域に病院を設立しました。

平壌

しかし、資金難が続き、財政状況は決して良好ではありませんでした。1914年に第二次大隈重信内閣が成立したのちには、重信は首相として同仁会への国庫補助を働きかけ、1918年度から政府による国庫援助を受けることになりました。これにより、さらに中国に病院を設立するなど同仁会は発展しました。

このほか、1906年10月の日印協会会長就任、1910年1月の大日本平和協会での会長就任など、外務大臣としての経験を活かして、重信は海外との交流・友好関係構築に関する活動をリードしました。

1905年「『日本百科辞典』編修総裁に就任する」

日本百科大辞典 大冊見本

『日本百科辞典』は三省堂から出版された日本で初めての本格的な百科事典です。

この時期にはまだ「事典」という用語は用いられていませんでしたので、「辞典」という漢字が使われていました。この百科事典は1893年にすでに編纂が始まっていましたが、よりよいものを作りたいという関係者の熱意で重信が編修総裁として編纂を取り仕切ることになりました。

重信は多数の学者をこの事典のために集めて、期待に応えようとします。1908年に第1巻が出版された際には、大隈邸で刊行披露の園遊会が行われましたが、それを新聞が報じたため、三省堂には予約が相次ぎました。そして、第6巻まで刊行されました。

ところが、順調にことが進んでいるように見えた矢先、なんと三省堂が倒産するという自体が発生します。『日本百科辞典』にコストをかけすぎたことが原因でした。この事業に思い入れのあった重信は、政財界に呼びかけて三省堂を再建し、全10巻刊行まで事業を成し遂げました。

このほか重信は、1905年7月に国書刊行会の創設に関わり初代総裁に就任、また1906年2月には、文芸協会の初代会長に就任するなど、出版・文芸の振興に尽力しました。

さらに、1908年4月には「東西文明の調和」を理念とする大日本文明協会を設立して会長となっていますが、最新の西洋書籍を翻訳した「大日本文明協会叢書」シリーズの刊行により日本の学術の発展と知識の普及に大きく寄与しました。

1907年「早稲田大学総長に就任する」

早稲田大学にある大隈重信の銅像

早稲田大学の前身である東京専門学校では、1882年に大隈重信が開校して以来、学校を代表する役職として校長職が置かれていました。1902年に早稲田大学と改称した後には、大学としての体制を整備してゆきます。

その一環として、校長とその補佐役としての学監が廃止されました。そして、校長・学監制に代わって登場したのが総長・学長制でした。

その初代総長として1907年4月に就任したのが、早稲田大学の創設者である大隈重信でした。重信は、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」という建学の理念を掲げつつ、終身(1922年まで)、総長として早稲田大学の発展はもちろん、学術振興・人材育成のために尽くしました。

なお、重信死去の翌年である1923年、早稲田大学では総長・学長制が廃止され、現在のような総長制のみの体制となりました。

1908年「早稲田大学野球部と米国選抜チームとの試合の始球式で投球する」

アメリカからプロ選手を含む米国選抜チームが来日し、早稲田大学野球部と試合をすることになりました。その始球式でマウンドに立ったのが当時、早稲田大学の総長だった大隈重信でした。

これは日本初の始球式でした。すでに高齢である上に左脚が義足であった重信にとって、ストライクになるような投球をするのはほぼ不可能でした。重信の投げた球が正面から大きく外れたので、気を遣ったバッターが空振りをして、重信に恥をかかせまいとしました。

この出来事が前例になって、今でも始球式では必ずバッターが空振りをすることになっています。

このように、今や日本の国民的スポーツとなった野球の世界にも、重信の影響があるのです。

1909年「帝国軍人後援会会長に就任する」

帝国軍人後援会 有功会員徽章

帝国軍人後援会は、日清戦争の軍人遺族への援護を目的として発足した軍人遺族救護会を前身とする団体で、遺族に対する援護のほか、出征中の軍人家族や傷痍軍人の家族、生困難に陥った軍人を扶助する団体です。

大隈重信は、会長であった榎本武揚の死を承けて会長に就任しました。戦後日本のイメージでは、軍国主義団体とみなされるかも知れませんが、重信が会長として軍人に対して行った講演では、戦争は敵を滅ぼすとともに自国をも滅ぼしてしまう可能性であることに言及しながら、「此故に軍国主義の教育ばかりでは、決して真正の強兵を期することは出来ませぬ」と語っています。

重信にとって、帝国軍人後援会は、軍国主義を鼓舞する団体ではなく、あくまで戦争によって亡くなり、あるいは傷ついた軍人やその家族を助けるための団体であったのでした。

1910年「南極探検後援会会長に就任する」

白瀬矗中尉による南極探検の背景には、大隈重信の後援がありました。白瀬矗中尉が支援を依頼すると、重信はすぐさま応じたといいます。

その理由が先取の精神をもつ重信らしいのですが、白瀬中尉らの前人未到の地に乗り込もうという壮大な計画と心意気が、国民の精神によい影響を与えるから、というものでした。

さらに重信らしいのが、白瀬中尉らが南極探検に出発する際に、全国の有名な花火師たちに協力を依頼して、壮行のための花火大会を行ったことです。

南極

幼少期に母親から学んだもてなしの精神を大いに発揮して、これから過酷な事業に臨もうとする南極探検隊員たちを元気づけたのです。

1914年「首相に就任する(第二次大隈重信内閣)」

シーメンス事件で辞職に追い込まれた山本権兵衛首相の後任として、大隈重信が再び首相となる機会が巡ってきました。しかし、最初から重信が首相となることに決まっていたわけではありませんでした。それ以前に、第1次山本内閣の後継内閣として、徳川家達と清浦奎吾がそれぞれ、大正天皇からの命を受けて組閣を試みました。

ところが、閣僚人事の調整がうまくいかず、両者とも組閣に失敗してしまいました。こうして、元老会議は徳川・清浦に代わる山本首相の後任を至急、奏請しなくてはならない状況となります。

そこで、白羽の矢が立ったのが重信だったのです。当時、重信は、1907年に発生した憲政本党の内紛を契機として政界から引退していましたが、首相として再び政界に舞い戻ることになりました。

現在の国会議事堂内

1914年4月13日、内閣総理大臣として組閣を命じられた重信は、かつて憲政本党に属していた議員が所属する立憲同志会・中正会から閣僚を入れて組閣しました。そして当時、立憲同志会における指導者であり、大隈とも深い関係のあった三菱財閥と血縁のある加藤高明が外務大臣として入閣して、重信を補佐する役割を果たしました。

この内閣で加藤外相は、1915年1月に中華民国に対して「二十一箇条要求」を提示しました。また、「憲政の神様」と呼ばれた中正会の尾崎行雄を交渉の末、司法大臣として入閣させるのに成功しました。

当初、内務大臣には山県有朋系の大浦兼武の就任が計画されていましたが、尾崎が大浦を内相にしないことを条件にしたため、重信が内相を兼任することになりました。

この内閣は政党員が多く入閣していましたが、衆議院議員は2名のみで、政党内閣ではありませんでした。しかし、吉野作造が『中央公論』への寄稿で「新内閣を以て、政党内閣の端緒として之を迎ふることは決して不当ではないと思ふ」と述べるなど、ジャーナリズム界から、政党内閣の時代のさきがけとして歓迎されました。

このような世論の重信人気を背景として、1915年3月に行われた第25回衆議院議員総選挙で与党が大勝しました。1916年7月、重信は侯爵となり、大勲位に叙されています。

1916年「第二次大隈内閣総辞職する」

現代の国会も紛糾することが

衆議院選挙で与党が大勝したことで、第二次大隈内閣の衆議院における議会運営は比較的順調に進みました。しかし、一方の貴族院はそうはいきません。

なかでも紛糾したのが、減債基金還元問題でした。減債基金還元問題とは、貴族院で若槻礼次郎大蔵大臣が、将来の借金返済に充てるための減債基金5000万円から鉄道改修費として2000万円を支出することを認める代わりに、経済状況が好転して国債募集ができるようになった場合には、減債基金を5000万円に戻すことを約束したことが発端でした。

当時、大戦景気であったため、貴族院が内閣に約束どおり減債基金を還元するよう要求したのです。これに対して、重信は大戦景気は一時的なものだとしてこの要求を斥けます。

第二次大隈内閣の財政政策の看板は国債を発行しないことであったため、貴族院の圧力によってこれを簡単に変えることはできませんでした。減債基金還元問題をめぐる貴族院との攻防で、次第に内閣は追い詰められていきます。

やがて、予算案通過が危ぶまれる状況にまでいたり、首相辞任を条件にして、重信は山県有朋に貴族院との調停を依頼しました。山県の調停により予算案を無事に貴族院を通過・成立させることができたので、1916年10月に第二次大隈内閣は総辞職しました。

1922年「死去」

龍泰寺

首相辞任後も大隈重信は、高齢ながら精力的な活動を続けました。その結果、無理が祟って体調不良となり、1921年夏から病床についていました。そしてついに、1922年1月10日午前4時38分に死亡します。

葬儀は1月17日に、東京の日比谷公園で「国民葬」として挙行されました。参列者は30万人であったとされています。この人数から、重信が国民的な人気を得た人物であったことがうかがえます。葬儀ののち、重信の遺骨は、東京の護国寺と故郷佐賀にある大隈家菩提寺の龍泰寺に埋葬されました。

重信死去の翌月には、幕末維新期に活躍し、大隈と良くも悪くも関係が深かった山県有朋が死亡します。大正デモクラシーの時代を迎えた1922年。この年は一つの時代の終わりを告げる年となりました。

まとめ

いかがでしたか?この記事では、大隈重信の生涯を年表にまとめて解説しました。

重信は状況に応じて大胆に妥協しながら、信念を実現しようとした政治家でした。ともすれば私たちは、オールオアナッシングの極端な選択をしなければ信念は守れないと考えがちです。信念を捨てて妥協するか、それとも信念を守るために一切の妥協を拒絶するか。前者であれ、後者であれ、いずれの選択でも現実世界に自分の信念を実現するのは困難でしょう。

大隈重信は、信念を「守る」ものであると考えず、「実現する」ものと考えていたのではないでしょうか?そして、限られた選択肢の中で、信念を最大限実現できるのはどの選択かを常に模索していたようにみえます。

この記事を通して、人生の教訓を得ていただければ幸いです。

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