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大隈重信とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績を交えて解説】

大隈重信の生涯年表

1838年「誕生」

2月16日(陽暦3月22日)、佐賀城下の会所小路で、佐賀藩の石火矢頭人(砲術長)をしていた大隈与一左衛門信保と佐賀藩士・杉本牧太の次女である三井子のあいだに長男として誕生しました。

佐賀城本丸

重信の幼名は、佐賀藩の産土神である竜造寺八幡宮から縁起のよい「八」の字をとって八太郎と名付けられました。

大隈家は、筑後国久留米郡大隈村に定着した菅原道真の子孫の流れを汲むとされる、佐賀藩の上級武士の家柄です。重信の兄弟には姉の妙子・志那子と弟の克敏がいました。

1853年「藩校・弘道館の内生寮に入学」

佐賀市松原の弘道館記念碑

1844年(6歳)から重信は、佐賀藩の藩校である弘道館の外生寮(蒙養舎)で学んでいました。さらに1853年からは、選抜された佐賀藩のエリートが通う内生寮に進み、優秀な成績をおさめました。

しかし、重信は弘道館の教育方針に徐々に疑問を感じはじめます。当時の弘道館には、主流派である朱子学派の「経学派」と国学を重んじる非主流派の「史学派」がいました。重信はそのうち、非主流派の史学派に属していました。

当時の弘道館について、重信は「頑固窮屈なる朱子学を奉ぜしめ、痛く他の学派を擯斥し」ていたと批判的に記しています(『大隈伯昔日譚』)。

1855年「弘道館での退学処分と義祭同盟への参加」

学びの場を去ることになった重信

弘道館の方針に疑問を感じていた重信は、弘道館内部の対立に関わり、退学処分となります。

その後、重信は義祭同盟に関わります。義祭同盟というのは、南北朝時代に活躍した楠木正成父子の尊皇精神を顕彰する集団です。重信はこの義祭同盟に、副島種臣や江藤新平らのちに明治政府の担い手となる佐賀藩士とともに参加していました。

義祭同盟で重信は、当時はまだ最新の学説であった尊王論や国体論の影響を受けます。

ちなみに、佐賀藩の尊王論は他の藩とは違って、排外的な攘夷論とは結合していませんでした。佐賀藩には、近接する長崎を通じて西洋の情報が入ってきていたため、佐賀藩の尊王論では世界から知識を入れることで国を強くすることこそが尊王である、という考えがあったのです。

そのため、佐賀藩の尊王論は重信が西洋の文物に触れることを妨げず、むしろ積極的に西洋の文物を受容させる方向にはたらきました。

1856年「蘭学寮に入る」

蘭学寮で教育を受けた重信

重信は、尊王派の義祭同盟に関わりつつも、同時に佐賀藩が設置した蘭学寮で蘭学教育を受けます。佐賀藩は福岡藩と交代で長崎の防備を担当していて、西洋の情報に接しやすい環境にありました。重信の父・大隈与一左衛門信保が長崎の砲台長をしていたこともあり、重信にとって蘭学は身近な存在でした。

蘭学寮では、ハンデンブルグ『ナチュールキュンデ(物理学)』を原書で読み、産業革命後の西洋の最新技術を学びました。さらに、西洋の政治・歴史も学び、オランダの憲法に触れます。

重信は、「これこそ実に余が立憲的思想を起こしたる濫觴(らんしょう)」であったとのちに述べています。やがて重信は、蘭学寮の教官となります。1861年には佐賀藩主・鍋島斉正にオランダ憲法を講義しました。

1864年「佐賀藩代品方の役人として勤務、貿易業務を行う」

佐賀藩は、外国の物資を含む物流の活発化によって藩の財政を維持しようとしていました。このような中で、蘭学を学び外国の事情に通じた重信は、佐賀藩にとって外国との交渉や取引の出来る貴重な人材でした。

肥前藩士時代の大隈重信

佐賀藩代品方の役人となった重信は、長崎や大坂などを行き来しながら西洋に関する知識を活かして貿易業務を行い、藩の財政に貢献します。

この時のキャリアが、明治維新以降の重信が財政と外交の分野で活躍する基礎となりました。

1867年「長崎で蕃書稽古所(のちの致遠館)が設立、教頭格となる」

西洋からの知識導入を積極的に進めていた佐賀藩は、英米の知識を扱う英学を学ぶ機関「蕃書稽古所」を設立し、しばらくして「致遠館」と改称します。1865年から長崎で英学を学んでいた重信は、教頭格としてここに勤務します。

さらに、致遠館の校長に就任したオランダ系アメリカ人宣教師であるフルベッキから英学を学びます。

アメリカ人宣教師のフルベッキ

この時、重信はフルベッキから渡されたアメリカ独立宣言を読んで感銘を受けます。アメリカ独立宣言に書かれた自由や権利の概念に出会った重信は、日本に「之を移植せんとの志願を懐」いたと言います。

大隈重信の立憲主義者としての信念が、すでに幕末期から形作られていたというのは驚きですね。

1868年「明治新政府で徴士参与・外国事務官判事に就任する」

明治維新の様子

1867年に大政奉還で江戸幕府が終焉を迎え、明治新政府が誕生しました。これまでのスキルと経歴を買われて、大隈重信は中央政界で財政と外交の分野において頭角をあらわします。まず就任したのが、外国事務官判事でした。

幕末に学んだ蘭学や英学、さらには佐賀藩で貿易業務に関わった経験によって、重信は新時代の担い手としての役割を果たすことの出来る人材に成長しつつありました。

1869年「新貨幣鋳造を建議する、会計官副知事を兼任する」

新貨幣ができたのは重信のおかげだった

明治新政府が誕生すると、大隈重信は中央政界で財政と外交の分野において頭角をあらわします。重信は1869(明治2)年、財政担当官として当時外国とのあいだで懸案となっていた贋金問題に関する交渉を担わされました。初期の業績としては、

  • 贋金問題で贋貨の回収や近代的貨幣制度の導入を欧米諸国に約束した高輪談判の処理
  • 現代につながる「円・銭・厘」を単位とする近代的貨幣制度を定めた新貨条例の制定をいち早く提言したこと

などがあります。

重信は、久世治作とともに近代的な貨幣の鋳造を政府に建議しました。江戸時代以来の金貨・銀貨・銅貨による貨幣制度は計算も複雑でした。特に外国との取引では非常に不便で通商の障害にもなるため、諸外国からも貨幣制度の近代化が要求されていました。

重信らの建議は、1871年5月、「円・銭・厘」を単位とする貨幣制度を定めた新貨条例として結実しました。

一方、重信は財政担当官として懸案となっていた贋金問題に関する外国との交渉を担います。英学者としての知識や交渉力ならびにイギリス公使パークスとの人脈が評価され、これ以降、新政府内で財政と外交の分野でのキャリアを積むことになります。同年12月には外国官副知事にも就任しています。

1869年「東京の築地に転居する」

東京で暮らすことになった重信に、築地本願寺に隣接した約5,000坪もの広大な敷地が政府から譲渡されます。和洋折衷の豪華な邸宅を建設してここに移りました。

築地

重信の社交的な性格もあって、この邸宅には若手政治家が集まり常に5〜60人もの人たちが寝食をともにしていました。

また近所に住んでいた伊藤博文・井上馨・五代友厚・山県有朋などが出入りしました。かつて母親が自分の友達をもてなしたように、重信は彼らを大いに歓待します。そして重信は彼らとともに、内政・外交などについてこの邸宅で議論を交わしました。

そのため、この邸宅はいつしか「築地梁山泊」と呼ばれるようになりました。

1869年「大蔵大輔に就任する」

この頃になると新政府の官制が次第に整い、重信は大蔵大輔に就任します。これにより、重信は本格的に新政府財政の中心的担い手となりました。その後、政府の財政部門である大蔵省(現在の財務省)を基盤として、政府内での地位を確立していきます。

明示六年政変

一方で、西郷隆盛ら征韓論派が失脚した明治六年政変では、西郷とともに下野した同じ佐賀藩出身の江藤新平や副島種臣とは行動をともにせず、政府内に留まりました。

1870年「参議に就任する」

木戸孝允の推挙により、重信を大蔵大輔から参議に就任させることが決定されました。これはいわば昇進の人事であったのですが、大蔵省を権力基盤としていた重信にとって、大蔵大輔の地位を失うことは政治的リスクを伴うものでした。

木戸孝允(桂小五郎)

また、藩がいまだに残存していた当時の日本を近代的な統一国家へと改革しようと、大蔵官僚として尽力していた重信にとって、その改革への取り組みが中断してしまうという懸念もありました。

そこで、重信は参議の三条実美・岩倉具視・大久保利通らに就任の条件として、廃藩の断行などを提示し、認めさせました。この時は1871年6月までの任期でしたが、重信が主張していた廃藩置県の実施に際して、再び翌7月に参議に就任しました。

この時の、自己の昇進に甘んじない大隈重信の確固たる意志がなければ、廃藩置県による中央集権化、ひいては日本の近代改革そのものが遅れていたかも知れません。

1873年「参議兼大蔵卿となる」

初代の大蔵省庁舎

官制改革により、重信はすでに1873年5月から大蔵省事務総裁に就任していました。この頃から、重信は大蔵卿の大久保利通との関係を深めていました。

岩倉使節団の一員として西洋を視察した大久保は、重信が主張する急速な近代化の必要性に共感するようになっていたのです。そして、自ら大蔵卿を辞して、その後任に重信を推薦しました。

こうして、重信は参議であると同時に、大蔵省のトップである大蔵卿の地位を得て、近代化事業を力強く推し進めようとしました。重信は1873年の地租改正や富岡製糸場設置など殖産興業政策の推進において、手腕を発揮してゆきました。

1880年「大蔵卿を解任される」

大蔵卿を解任された重信

政府で参議と省卿の兼任を禁じる参議省卿分離が決定されました。これによって、参議と大蔵卿とを兼任していた重信は、大蔵卿を解任されました。大蔵省を基盤として権力を維持してきた大隈重信にとって、大蔵卿解任は政府内での存立基盤を揺るがしかねない事態でした。

その後も大蔵省で影響力を行使しようとした重信は、打開策を考えました。そこで思いついたのは、佐賀藩出身の佐野常民を大蔵卿にすることでした。佐賀藩出身の後輩である佐野であれば、自分のコントロールがきくと考えたのです。

重信の思惑通り、佐野は大蔵卿となりました。ところが、重信が主張した外債募集案に何と佐野が大蔵卿として反対したのでした。こうして重信は、政府内における国家財政分野での発言力を急速に失います。

1881年「立憲政体に関する意見書を政府に提出する」

この頃、各地で自由民権運動が活発化し、憲法制定要求が高まっていました。このような社会情勢にあって、大隈重信も立憲政体の意見書を有栖川宮熾仁親王に提出しました。

立憲政体に関する意見書

その内容は1年後に選挙を実施し、2年以内に国会開設、そしてイギリス式の政党内閣の実現を主張するというものでした。

政府内からの提案としてはあまりに急進的であったため、伊藤博文らは激しく反発しました。予想以上の反発に直面した重信は、伊藤らに謝罪することになります。重信が謝罪したことによって、とりあえず意見書に起因する重信への反発は収まります。

しかしながら、すでに大蔵省という権力基盤を失っていた重信は、これ以降、政府内でさらに疎外されるようになっていきました。

1881年「参議を罷免、政府から追放される(明治14年の政変)」

開拓使官有物払下げ事件で重信への不信が強まる

次第に政府内での影響力が低下していた重信に、疑惑が持ち上がります。

北海道開拓使が五代友厚に格安で官有物の払い下げをしていたことが新聞で報じられ、政府を批判する世論が広まった、開拓使官有物払下げ事件がきっかけでした。重信が提出した立憲政体に関する意見書をめぐって、重信に不信感を持っていた伊藤博文らは、重信が記者にリークして問題が露呈したのではないかと疑ったのです。

こうして政府内部では、重信を排除しようとする動きが加速化しました。そしてついに、1881年10月、大隈重信は参議を罷免され、政府から去ることとなりました。

1882年「立憲改進党結党、同党の総理(党首)となる」

盛り上がる結党(自由民主党)

下野した大隈重信は、政党結成を準備します。そして、非自由党系の民権派団体関係者などを集め、立憲改進党を結成しその総理(党首)になります。

立憲改進党の立場は、藩閥政府とも自由党とも異なるものでした。党の趣意書には「政治ノ改良前進」が謳われていて、明らかに藩閥政府の保守的なあり方に対抗するものでした。しかし、その一方で「急激ノ改革ハ我党ノ望ム所」ではないとして、自由党流の急進的改革とも一線を画していました。

また、立憲改進党には政党政治・議院内閣制の実現という明確なビジョンがありました。そして、政党は抽象的な理念でなく、具体的な政策を国民に提示すべきであり、その提示された政策によって政党間で争うべきだという施政主義を主張していました。

つまり、政党政治の実現を目指している以上は、政権担当能力を持った政党でなければならないという考え方でした。これは、政権獲得よりも、まず政府に対抗する勢力を作ることを重視した自由党とは大きく異なる点です。

1882年「東京専門学校(のちの早稲田大学)開校式を行う」

早稲田大学

大隈重信の代表的な功績の一つが早稲田大学の前身である東京専門学校の設立です。重信のビジョンとして、政党を結成すると同時に、その政党による政党政治の担い手となる人材の育成が必要であると考えていました。

当時、法律を教授する私立学校は専修学校(のちの専修大学)や東京法学社(のちの法政大学)、明治法律学校(のちの明治大学)など東京にも複数存在していました。

しかし、政党政治・議会政治の担い手育成を考えていた重信は、当時は東京大学にしかなかった政治学の教授を東京専門学校の看板として掲げました。

重信の尽力で学校は成長し、1902年9月には現在の早稲田大学への改称が認められて、同年10月に早稲田大学としての開校式が挙行されました。

1887年「伯爵の爵位を授与され、華族に列せられる」

華族会館の内部

明治14年の政変で政府を追われた大隈重信でしたが、この頃から政府側の重信に対する態度が軟化していきます。

帝国議会開設を前にして、在野で立憲改進党の総理(党首)として政治力を蓄え、早稲田大学の前身である東京専門学校を創設するなど社会的影響力を拡大してゆく重信を藩閥政府も無視できなくなったのです。

そのような政府の対応の表れの一つがこの重信への爵位授与でした。重信に与えられた伯爵の爵位は、制定当初、徳川御三卿や石高が10万石ほどの中程度の大名、伊藤博文ら政府内にいた維新の功労者などに与えられたものでした。

この時期になって、政府を追放された重信にも、その伯爵の爵位が授与されたのです。これにより、重信は華族の一員となりました。

1888年「第一次伊藤博文内閣で外務大臣に就任する」

この頃、欧米に妥協的すぎるとして批判されていた井上馨外務大臣は辞職へと追い込まれていきます。その後継者候補として浮上したのが大隈重信でした。

帝国議会開設を控えて、政治的基盤を政党にもつ重信は、来るべき議会への対応を考慮して、政府に取り込んでおきたかったのです。幕末期から欧米諸国との交渉経験があるという点でも、重信は適任者と考えられました。

こうして井上外相は後継者として重信を指名しました。黒田清隆や伊藤博文らが粘り強く交渉した結果、重信は党内で協議した上でこれを受け入れます。こうして、第一次伊藤博文内閣の外務大臣として、重信は政府に復帰することになりました。さらに、同年4月に黒田清隆内閣が成立したのちも引き続き外務大臣として政府に留まりました。

伊藤博文

政党政治・議院内閣制を目指す立憲改進党側としては、政府に重信がいることで、憲法制定過程に関与できるかもしれないという期待がありました。実際、重信らの運動によって、大日本帝国憲法に議会の法案提出権と天皇への上奏権などを明記させることに成功しています。

重信は、外務大臣として欧米諸国との条約改正交渉を進めました。当時、欧米人が日本で犯罪を犯してもその裁判権は日本になく、日本に駐在する自国の領事が裁判権を行使することになっていました(領事裁判権)。

この領事裁判権の廃止は、関税自主権の確立とならんで明治維新以来の外交政策における課題でした。領事裁判権を廃止する条件として、重信は大審院(現在の最高裁判所に相当)の判事に外国人を採用すると言う密約を交わします。

ところが、これがイギリスの「タイムズ」に掲載され、さらに邦訳されて日本国内にも知られるところとなりました。

1889年「右翼青年による爆弾テロで右脚を失う(大隈重信遭難事件)」

領事裁判権の廃止の条件として大審院に外国人判事を任用するという、重信が交わした密約が明らかになると、日本国内で重信を非難する声があがりました。これを外国人判事任用問題といいます。

さらに、これまで限られた居留地だけで許されていた外国人の土地所有を国内全体で認めるという内地雑居問題も世論の反発を招きました。そのような中で、1889年10月、右翼団体・玄洋社に所属する29歳の青年、来島恒喜が霞が関の外務省前で重信に対する爆弾テロを実行しました。

大隈重信の義足

爆弾によって左脚を大きく負傷した重信は、緊急手術を受けますが、やむなく左脚を切断することとなりました。以降は義足での生活となりました。

1889年「山県有朋内閣成立に伴い外務大臣を免官となる」

山県有朋

重信が負傷したために、政府は条約改正交渉を継続することが困難となります。

遭難事件から1週間後、黒田首相はじめ各大臣は条約改正交渉が失敗した責任をとって辞表を提出しました。しかし、入院中の重信は辞表を出すことができませんでした。議会開設1年前のこの時期、政府与党として日本初の総選挙を戦いたいとの思惑を持つ立憲改進党は、後継内閣でも重信が外相として留任することを望みました。

しかし12月、政党に警戒心を持つ山県有朋が首相に就任すると重信は依願免官とされ、政府から再び去ることになりました。これに代わって、重信は枢密顧問官に任命されました。

1896年「立憲改進党と立憲革新党などが結集して進歩党を結成する」

1890年の第1回衆議院議員総選挙では自由党系が128名当選したのに対し、重信の立憲改進党の当選者は46名にとどまりました。

当時の投票の様子

少数派となった立憲改進党ですが、重信の外相免官の経緯から政府と手を組むという選択肢はありませんでした。もう一つの選択肢として自由党との協力も模索し、合同も議論されましたが、両者の立場の違いが埋まらずに頓挫しました。

その後、1895年12月〜翌96年1月にかけての第9議会で立憲改進党は、日清戦争後に獲得した遼東半島の返還や三浦梧楼在京城公使らによる閔妃殺害事件など、政府の外交政策に対する責任追及をしようとしました。

ところが、立場は違っても、これまで藩閥政府に批判的な「民党」の立場で必要に応じて立憲改進党と協力してきた自由党が政府を支持して、政府弾劾上奏案を否決してしまいました。

さらに、1896年4月には自由党の板垣退助が第二次伊藤博文内閣の内務大臣として入閣しました。

このような議会の情勢に危機感を覚えたのが政府の外交政策を批判し、欧米諸国に対して強硬な姿勢を主張する対外硬派でした。政府と議会最大勢力の自由党が組んだことで、政府に批判的な諸勢力は、力を合わせて対抗する必要性を感じていました。

こうして立憲改進党と立憲革新党などが合流して、進歩党という新党を旗揚げします。

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