大隈重信にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「日本で初めてメロンを栽培した?」
大隈重信はメロンが大好物で、メロンを海外から持ち帰り、日本で初めて栽培したといわれています。
その後も自分の屋敷でメロンの品評会を開くほか、教育者である成瀬仁蔵のお見舞いにはメロンを持っていくなど、メロンに対する愛情が非常に深かったそうです。
というのも大隈重信は、当時高級品だったメロンを一般家庭にも普及させたいと考えており、品種改良にいそしんだそうです。今現在メロンがこのように普及しているのは、大隈重信のおかげかもしれませんね。
都市伝説・武勇伝2「字をほとんど書かなかった?」
大隈重信は字をほとんど書かなかったといわれています。大隈重信は子供の頃、友達よりも字が下手で、負けず嫌いだった大隈重信は悔しがっていたそうです。
そこで大隈重信は「字を書かなければ負けることはない」と考えて子供の頃から字を書かずに勉強も暗記して覚えるようになりました。それ以降、大人になってからも字を書くことはほとんどなかったそうです。
現在自筆と確認されている物は公文書の署名の以外で、17歳の時に先輩に宛てた寄せ書きと、伊藤博文あての受書の2点のみで、他の大隈重信の文書は全て代筆だと言われています。
都市伝説・武勇伝3「大隈重信の左脚は義足だった」
大隈重信の左脚が義足だったことをご存知でしょうか?
1889年10月、51歳の時に玄洋社という右翼団体のメンバーである来島恒喜が、重信に対する爆弾テロに及びました。その結果、重信は手術で左脚を切断されることになりました。いわゆる大隈重信遭難事件です。これにより重信は、義足で生活することになりました。
ちなみに、左脚はホルマリン漬けにされ、現在は大隈家の菩提寺である龍泰寺に保管されています。生前には重信が切断された左脚を来訪者に見せていた、という話もあります。
さらには、テロの犯人である来島について、外務大臣に爆弾テロまでする勇気を賞賛していたそうで、来島の命日には墓参りを欠かさなかったというエピソードも残っています。
大隈重信の簡易年表
大隈重信は3月11日現在の佐賀県にあたる肥前藩の藩士の家に長男として生まれます。
肥前藩が設立した藩校である「弘道館」に入学します。ここで儒教教育を受けますが、後に反発し藩校の改革を訴えます。
弘道館を退学になった後は蘭学寮に入り、西洋の歴史、文化、技術を学びました。ここで学んだ事が、後の人生でも大きく役立っていくことになります。
蘭学寮で学んだことを活かして肥前藩の貿易業務を行い、藩の財政に貢献します。
肥前藩での経験を活かし、新政府では大蔵省で実力を発揮し実権を握ることに成功します。
伊藤博文によって政府内部で大隈重信を排除する動きが強まります。これによって大隈重信は参議を罷免され政府から去ります。
現在の早稲田大学に当たる東京専門学校を設立します。後に早稲田大学の総長にも就任しました。
東京専門学校設立などによって社会的影響力を増してきた大隈重信は、肥前藩にて貿易業務を行っていたことも買われ、外務大臣として再び政府に復帰します。
1898年6月30日に大隈重信は内閣総理大臣に就任します。ですが内部対立が起こり、同年11月8日に辞任します
4月16日に再び内閣総理大臣に就任します。大隈重信は国民に人気で2年半の間、内閣総理大臣として務めあげます。
大隈重信は1月10日に癌で亡くなります。国民からの人気が大きかったため、1月17日に行われた「国民葬」では30万人が集まりました。