織田信秀は戦国時代の尾張国の戦国大名です。NHK大河ドラマ「麒麟が来る」で知名度は上がってきましたが、ある程度歴史に興味がある人でも、
「織田信長の大河ドラマに少しでてたっけ」
「織田信長だったら知っているけど…」
という方が多いのではないでしょうか。彼は織田信長の父であることが先行している武将です。
キャラが濃くて下剋上を築いた息子の陰に隠れがちの人物ですが、実は織田家を一代で大きくした、凄い人物なのです。彼の戦術や方針は息子の信長にも多大な影響を与えています。
この記事ではそんな織田信秀について、人物像や功績、生涯などを、幼少期から戦国時代の本を読み漁ってきた筆者が掘り下げていきたいと思います。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
織田信秀とはどんな人物か
名前 | 織田信秀 |
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誕生日 | 1511年 |
没日 | 1552年3月27日 |
生地 | 尾張国(愛知県) |
没地 | 尾張国(愛知県) |
配偶者 | 織田達勝の娘・土田御前・織田敏信の娘・養徳院殿 |
埋葬場所 | 愛知県の亀岳林萬松寺 |
織田信秀の生涯をハイライト
織田信秀は1511年、尾張国の勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として生まれました。織田信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」という本家の庶流の家でした。勝幡城に居を構え、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配している一族だったのです。
1526年または1527年に父信定より家督を譲られ当主となっています。1532年に主家の織田達勝と清州三奉行の一人織田藤左衛門と争いますが、和議をしています。この時自らの権威を示すために、京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱や公家の山科言継を招いて勝幡城で、蹴鞠の会を開いています。この会には沢山の聴衆も集まったといい、翌月には主家のある清洲城に移して、連日開催されたといいます。
1534年に息子の織田信長が生まれています。その後1538年今川氏豊の居城那古野城を奪い取り、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市)に勢力を拡大しました。1539年には古ノ城も制圧して、熱田も勢力下に置いています。1546年に息子信長に那古野城を譲り、1548年に末森城(名古屋市千種区)に城を築いてそこに移り住んでいます。当時戦国大名は居城を動かさない者が多く、とても特異な戦略でした。
1535年に松平清康が家臣に暗殺された隙をついて三河を攻め、1540年に安祥城を攻略して庶子の織田信広に任せています。そして1542年の第一次生豆坂の戦いで勝利を収め、この年に京に上洛し12代将軍足利義輝に謁見しています。また事あるごとに朝廷に献金をし、朝廷重視の姿勢を示したといいます。
1542年に、美濃国で斎藤道山に国を追い出された守護の土岐頼芸・頼純親子を庇護し、斎藤道山と戦闘を重ねていました。こうして信秀はその頂点で、主家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていきました。
1544年斎藤道山の居城、稲葉山城を城下まで攻め込むも大敗し、同じ年に尾張国内の織田信清と織田廣貞が謀反を起こし鎮圧します。そして斎藤道山が尾張に攻め込まれ、岡垣城を取り戻されています。しかし1547年には、三河の松平広忠を攻め岡垣城を降伏させ、嫡男の竹千代(後の徳川家康)を人質に取っています。
しかし同年に再度今川氏との第二次小豆坂の戦いで、敗北しています。次第に今川・斎藤に両家に推され気味となり、1549年に斎藤氏と和睦しその条件として息子の織田信長と、道山の娘濃姫の婚姻が成立しました。しかし今川家との戦は続き、西三河の織田の拠点であった安祥城を陥落され、息子の織田信広を人質に取られてしまいます。その時に竹千代と織田信広の人質交換が行われ、織田氏は三河の勢力を失くしてしまうことになりました。
1550年頃から病気がちになり、息子の信長が代行して業務を行うようになってきました。その後も今川氏の攻撃により、領地を攻撃され勢力が削られていくという困難の中、1552年に死去しました。享年42歳でした。家督は嫡男の信長が継ぎました。
独特な戦略で勢力を拡大した
織田信秀が勢力拡大のためにに行った方法が、拠点を移動しながら領地を拡大していくという独特の戦略でした。10年の間に
- 1538年 那古野城を今川氏から城を奪い、居城とする
- 1539年 古渡城に拠点を移動し、熱田を経済的基盤とする
- 1548年 末森城を築城し、拠点とする
3回居城を変えて、その土地の経済基盤を作っていきました。多くの戦国武将は居城を動くことはなく、織田信秀独特の方法でした。この方法は息子の織田信長にも受け継がれることとなりました。
信長の才能を見抜き後継とする
織田信秀には、男子12名に女子10名以上の子供がいましたが、3男の信長に後を継がせています。これは信長が正妻の子供では嫡男であったことと、信秀が信長に跡を継ぐ器量が十分備わっていることを見抜いていたことが影響していたといいます。
信長は品行方正とは到底言い難く、信長を嫡男とすることに反対し、4男の信勝を嫡男にしようという動きもありました。そこで信秀は4人の家老を付けて「元服の儀」を盛大に行い、自身が居住していた那古野城を譲渡して、信長が後継ぎであることを示しています。
ここまでして信長を後押しすると同時に、京から学問の師を呼び寄せて英才教育も受けさせています。結果信秀の見込み通り、後世の信長が飛躍的に活躍をしているところを見ると信秀の目利きは間違えなかったといえるでしょう。