ジャン=ポール・サルトルは、20世紀に活躍した哲学者です。「実存主義」という思想を唱えたことで知られ、その思想に基づいた小説作品「嘔吐」を著した小説家としても知られています。
「実存は本質に先立つ」という、彼の現実に根ざした思想解釈は、絶対的な存在による不確かなものよりも、現実的な視点を伴った思想として、現代社会においては割合マジョリティ寄りの考え方だと言えそうです。”神の不在”を唱えた思想家としてはニーチェがとりわけ有名ですが、サルトルもまた”神の不在”を唱えた思想家だと言えるでしょう。
また、思想家としての側面だけでなく、一人物としても多くのエピソードを残しているのがサルトルの面白い所。特にボーヴォワールとの関係や、ノーベル文学賞とのかかわりなどは、サルトルの人間性や考え方を色濃く表す部分となっています。
ということでこの記事では、サルトルの思想哲学分野の業績だけでなく、一人物としての面白さに関しても解説していきましょう。
この記事を書いた人
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
サルトルとはどんな人物か
名前 | ジャン=ポール・サルトル |
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誕生日 | 1905年6月21日 |
没日 | 1980年4月15日(享年74) |
生地 | フランス共和国(第三共和政下)・パリ |
没地 | フランス・パリ |
配偶者 | なし(内縁上はシモーヌ・ド・ボーヴォワール) |
埋葬場所 | フランス・パリ・モンパルナス墓地 |
代表的な著作 | 『実存主義とは何か』、『存在と無』、『嘔吐』など |
サルトルの生涯をハイライト
1905年、パリに生まれたサルトルは、生後15か月で父を亡くし、母方の祖父に引き取られるという形で人生の幕を開けました。
祖父であるシャルル・シュヴァイツァーはドイツ語の教授であり、幼いサルトルは非常に高い水準の教育を受けられたようですが、一方でサルトルは3歳の頃に右目の視力をほぼ失い、以降の人生を極度の斜視として過ごすことにもなってしまいます。
そのまま、多くの挫折を味わいつつも知識人階級として学問に高い適性を発揮したサルトルは、1929年に哲学教員になり、同時期にシモーヌ・ド・ボーヴォワールと契約結婚の関係を結ぶことになります。この関係は幾度かの波乱はありつつも、サルトルがこの世を去るまで続きました。
その後は教鞭をとる傍ら、1938年に小説作品『嘔吐』を発表して名声を得るなど、精力的に活動。1945年には雑誌『レ・タン・モデルヌ』を発行して、自身の実存主義についての論説を展開。フランスにおける思想家として大きな影響力を持つこととなりました。
その後もカミュ=サルトル論争や、戦争体験に基づく左派としての活動、ノーベル文学賞の拒否などの多くのエピソードを残したサルトルですが、1973年ごろには両眼を完全に失明し、ほとんどの活動を制限。
そして1980年、肺水腫によってサルトルは74年の生涯を閉じました。彼の葬儀にはおよそ5万人が訪れ、さながら国葬のようだったという記録が伝わっています。
サルトルの主張した「実存主義」とは?
サルトルが唱えた思想と言えば、やはり「実存は本質に先立つ」という言葉に代表される”実存主義”と呼ばれる思想です。
これは平たく言えば、「存在はただ”そこに存在する”からこそ存在している」という主張だと言え、それまでの「神による本質に基づいて、あらゆるものは存在している」という主張とは真っ向から反する主張になっています。文字にするとこんがらがりますが、サルトルは「神のような超越視点を否定している」と考えれば、少しは理解しやすいかもしれません。
とはいえ、サルトルは自身の事を「実存主義者」だとは言っておらず、”サルトル=実存主義”という観念は、実は正確ではありません。
サルトルは実存主義という主張を「キリスト教的実存主義」と「無神論的実存主義」という二種類に大別し、自身の主張を「無神論的実存主義の主張」として主張を行っていました。そのため、サルトルの主張を正確に表す場合は「無神論的実存主義」と呼ぶべきでしょう。
2020年現在、サルトルの主張は構造主義に基づく主張に反論を受け、ほとんど主張としての力を失っています。しかし”神”という概念を否定し、現実に基づいた哲学を大衆に披露し評価されたことは、間違いなくサルトル個人の明確な功績だと言える部分でしょう。
「逃げ恥」を先取りした!?ボーヴォワールとの契約結婚
一口に「契約結婚」と言えば、現代日本においては人気ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を思い浮かべる方も多いと思います。そのように、割合最近になって取りざたされるようになった「契約結婚」という関係性ですが、サルトルは20世紀前半頃から逝去まで、そのような関係で内縁の妻であるボーヴォワールと連れ添うことになりました。
サルトルは自身の主張する思想から、個人の選択を最重要視し、ボーヴォワールとは婚姻関係を結ぶことも子供を持つことも拒否。互いに恋人を作ったり、愛人とセックスをしたりという性的な自由を見止めつつ、しかし生涯の伴侶として50年以上を連れ添うことになりました。
サルトルはボーヴォワールとの関係を「必然の愛」、その他の女性との関係を「偶然の愛」と表現し、数多くの女性と生涯浮名を流したことが記録されています。ボーヴォワールもまた、多くの男性と浮名を流したことが記録されていますが、結局二人とも元のさやに納まっているだけに、確かにサルトルの表現通り、彼らの関係は「必然の愛」だったのかもしれません。
「筋の通った偏屈者」という哲学者らしい性格
アルベール・カミュと断行するまでに至ったカミュ=サルトル論争や、自身の主張に基づいたノーベル文学賞の拒否など、サルトルについて残るエピソードを見ていくと、どうにも彼は「筋の通った偏屈もの」と呼べる性格だったようです。
このサイトで記事にされている哲学者や文学者も、その大半が「偏屈で頑固な人物」だと言えそうですが、サルトルもまたその例に漏れず、自分の主張に対しての筋に自信を持っていた人物だったと言えそうです。
また、かなりエキセントリックで自分勝手な部分もエピソードとして残っています。実験のために医師に頼んで、自分に幻覚剤を投与させたエピソードはその最たるものであり、以降のサルトルはその時の幻覚に見たカニやエビなど甲殻類への恐怖と、慢性的な幻覚症状に悩まされたという記録が残されています。
何にせよ、サルトルという人物が病的なまでに筋が通っており、ただし偏屈な頑固者であったことは、エピソードを見れば明らかです。それらエピソードについて、詳しくは後のトピックや年表で語らせていただきます。