今川義元とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因、愛刀も紹介】

この記事にたどり着いたあなたは今川義元にどんなイメージをお持ちでしょうか?

「織田信長に桶狭間の戦いで負けた人だよね?」
「公家かぶれだったって聞いたよ。」
「馬に乗れなくて御輿に乗っていたんでしょ?」

このようなイメージが先行するのではないでしょうか。今川義元は戦国時代の戦国武将ですが、どうしても織田信長の人気の影響で、あまり良い描写がされない事が多い武将です。

今川義元

そんなイメージが先行する今川義元ですが、実は領地の駿河を豊かにしたり、領土拡大にも成功している人物でした。実は「海道一の弓取り」と呼ばれた人物だったのです。

本当のところ今川義元とはどんな人物だったのか?そんな疑問を、趣味が人間観察の筆者が検証したいと思います。この記事では、イメージに惑わされずに客観的に記事を書くことを心がけて執筆していきたいと思います。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

今川義元とはどんな人物か

名前今川義元
誕生日1519年
没日1560年6月12日
生地駿河国(静岡県)
没地尾張国知多郡桶狭間(愛知県)
配偶者定恵院(武田信虎の娘)・井伊直平の娘
埋葬場所愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地・愛知県豊明市の高徳院・静岡県静岡市葵区大岩町の臨済寺・東京都杉並区の観泉寺など

今川義元の生涯をハイライト

置眉に烏帽子や束帯の姿で描かれることも多い、今川義元ですがどんな人生を送ったのか?まずは今川義元の人生をダイジェストしていきたいと思います。

今川義元は、1519年に今川氏親の三男として生まれました。母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)です。生まれた時に、長兄と次兄がいたので4歳で仏門に入りました。当初は駿河国の善得寺に入門しましたが、後に京の妙心寺に入り大休宗休の元で学問を学んだといいます。

妙心寺で修行を積んだといいます

その後兄、今川氏輝に呼ばれ駿河に帰りますが1536年に兄氏輝が亡くなります。その時点で次兄の今川彦五郎がいたのですが、なんと彦五郎も同日に亡くなります。そのことから二人の兄と同じ、正室所生の今川義元が当主となることとなったのです。僧侶から還俗した時に、主君である足利義晴から諱を賜り義元と名乗ることになりました。

戦のあった花倉城跡

しかしスムーズには当主になれず、家臣の福島氏が今川義元の異母兄を掲げて反旗を翻した「花倉の乱」が起きました。義元は北条氏の支援を得ることに成功し花倉の乱で勝利をおさめ、晴れて今川家の当主になったのでした。そして1537年に武田信虎の娘を正室に迎え、武田氏と甲駿同盟を結びます。しかし、甲駿同盟を面白く思わない北条氏や、領土拡大を狙う織田信秀軍に攻められて、なかなか落ち着かず戦いを繰り広げていました。そんな中、1549年に岡崎城に入り込み松平家の領地を領有することに成功しています。

織田信長の奇襲により打ち取られた

領土拡張の傍ら1549年に、「今川仮名目録」を追記し、今川氏と室町幕府に残っていた繋がりを完全に断ち、守護大名から戦国大名へと進化していったのです。この後に武田氏と北条氏と三家で「甲相駿三国同盟」を結ぶことにより、統治の基盤を揺ぎ無いものにしました。そして1560年に、2万余りの軍勢を集めて尾張に進軍していきました。その時に、桶狭間山で休憩を取っていたところを織田軍の奇襲にあい、首級を取られ生涯を閉じたのです。享年42歳でした。

今川義元は武術に疎かったのか?

4歳から今川義元は仏門に入っていた

今川義元は武術に疎かったのか?そういう疑問が出てきますが、結論から言うと確かに武術の腕が秀でて優れているという訳ではありませんでした。何故武術に疎かったかというと、幼少期を仏門に入っていた為武術とは縁遠い場所にいたということがあげられます。

しかし、武芸の素養が全く無いわけではありませんでした。桶狭間の戦いでは信長の家臣・服部春安が斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退し、さらに毛利良勝が斬りつけようとした時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした良勝の指を食い千切って絶命したと伝えられています。剣術を駆使して戦っており、決して武術が出来ないわけではなかったのです。

今川義元は馬に乗っていた記述もあり決して乗れないわけではありませんでした。

また「馬に乗れなかったから御輿に乗っていた」「太っていたから馬に乗れなかった」というイメージが流布していますが、近年の研究では敢えて馬に乗らずに御輿に乗っていたのだろうと考えられています。今川義元は将軍家から御輿に乗って良いという許可をもらっていたといいます。中々許可をもらえるものではないため、権力を固辞するためのパフォーマンスだったという見方が有力です。

御輿で移動する様子

武術への取り掛かりが遅かっただけで、戦術においても北条氏や織田氏と互角に戦っているために、決して武道を疎かにしていたわけではありませんでした。後年の創作で公家風の趣味だけを強調したエピソードの印象が強く、あまり今川義元の武術の事は知られていませんが、失敗ばかり誇張されている印象が強く出ています。

今川義元の愛刀

義元左文字
出典:刀剣ワールド

今川義元は、戦の時に必ず「義元左文字」という名刀を携えていたといいます。「左文字」とは、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて筑前国博多で活躍した刀工であり、「左衛門三郎」の略と伝わる「左」の一文字にて銘に切ったことから左文字と称されるようになったといいます。

この刀は最初は阿波の「三好宗三」から甲斐の「武田信虎」に移り、そして駿河の「今川義元」に渡ったものでした。また桶狭間で討ち取られた今川義元の「左文字」は、その後、信長・秀吉・家康と「天下人の証し」として受け継がれて行ったといいます。このことから3人がどれだけ今川義元の「武勇」を認めていたかが分かるといわれています。3人とも桶狭間の戦いに参戦しており、天下人としての出発点として意識していたといわれているのです。

今川義元は「公家かぶれ」だったのか?

今川義元のイラストは大体置眉に蹴鞠のイメージが多い

今川義元は結論から言うと、公家に憧れていた感は否ません。しかし、誇張も多々あり後世に植え付けられたイメージがほとんどです。今川義元は非常に文化人であり、京都の公家や僧侶と交流し文化サロンを築いたといいます。そんな今川義元の「公家かぶれ」と言われる理由は以下であげられます。

公家風の化粧を施していた

典型的な公家風のメイク(置眉・薄化粧)

今川義元は公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたと言われています。ただし、最近は公家のような化粧をしていた説は後世の創作であるともいわれています。また例え化粧をしていたとしても、武家では守護大名以上の家格の高さを示すものであり、実は戦の嗜みであったとも言われています。

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