夢野久作は日本探偵小説三大奇書として数えられる「ドグラマグラ」を執筆した小説家です。この作品は「読破したものは、必ず一度は精神に異常を来たす」とまで言われ、当時の文学界をアッと言わせた小説でもあります。
このような奇書を書き上げる夢野久作という人物はどんな人物なのでしょうか。幼少期から学問を叩き込まれ、晴れて慶應大学に進学するも、中退して出家、農園経営や陸軍少尉など様々な肩書きを有しながら、最終的には小説家として活動するようになったという異色の人生を送った人物のようです。
小説家となってからは「ドグラマグラ」をはじめとして、「瓶詰地獄」、「少女地獄」、「いなか、の、じけん」など数多くの作品を世に送り出しました。しかし、「ドグラマグラ」を発表して1年後には脳溢血で急死してしまうのです。
今回は「ドグラマグラ」のような奇書を書き上げた小説家・夢野久作がどのような人物なのか興味が湧いた筆者が数ある文献を読み漁って得た知識を元に、夢野久作の生涯・代表作品・意外なエピソードまでを幅広くご紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
夢野久作とはどんな人物か
名前 | 杉山直樹(杉山泰道・杉山萠圓・夢野久作・海若藍平・香具土三鳥) |
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誕生日 | 1889年1月4日 |
没日 | 1936年3月11日 |
生地 | 福岡県福岡市小姓町(現在の福岡県福岡市中央区大名) |
没地 | 東京都渋谷区南平台町 |
配偶者 | 鎌田クラ |
埋葬場所 | 福岡県福岡市 一行寺 |
夢野久作の生涯をハイライト
夢野久作の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 福岡県福岡市小姓町に誕生
- 両親が離婚したため、祖父母に引き取られ、熱心な教育を受ける
- 1911年、22歳の時に慶應義塾大学へ
- 家に戻ってきた父の反対を受け、慶應大学を中退
- 農園経営、出家を経て新聞記者として就職
- 1918年に鎌田クラと結婚
- 1926年「あやかしの鼓」で小説家としてデビュー、この時から「ドグラマグラ」の元となる作品を執筆開始
- 「押絵の奇蹟」を江戸川乱歩から褒められる
- 1935年に大作「ドグラマグラ」完成
- 1936年、突然脳溢血を引き起こし、帰らぬ人に
小説家の他に4つの肩書きをもつ男
夢野久作は童話作家、小説家として生きていく道を選ぶまでに様々な経験しました。
その経験において得た肩書きとは以下の6つです。
- 陸軍少尉
- 農園経営者
- 禅僧
- 新聞記者
- 歌謡喜多流教授
- 郵便局長
慶應大学在学中には、同時に見習士官として将校教育を受け、最終的に陸軍少尉の肩書きを得ることになりました。また、父の反対を受けて慶應大学を中退した後は、農園経営、出家、再度農園経営と目まぐるしい環境の変化を経験していったのです。
その後は父からの斡旋により九州新聞の新聞記者として務めることになりましたが、1918年の29歳の時には喜多流という歌謡の教授としても職務を行うことになります。さらには1930年、小説家として精力的に活動している中で、故郷の福岡市にある郵便局の郵便局長の座を拝命することにもなるのでした。こうして夢野久作は生涯において多数の肩書きを所有することになったのです。
「夢野久作」というペンネームになった背景
夢野久作の本名は杉山直樹と言いますが、なぜペンネームが「夢野久作」になったのでしょうか?このペンネームの背景には新聞社や出版社の社主を務めたこともある父親の影響があったのです。
夢野久作が小説を発表し始めた当初に彼の作品を読んだ父親がその内容について「夢の久作の書いたごたる小説じゃね」との感想を述べたことから、その言葉を気に入った夢野が「夢野久作」というペンネームを使うようになったということです。ちなみに「夢の久作」というのは福岡の方言で、「夢想家、夢をみてばかりいる人」という意味を表します。
夢野久作の代表作品や有名作品
夢野久作の代表作といえばやはり「ドグラマグラ」でしょう。「ドグラマグラ」は構想から刊行に至るまで約10年の歳月をかけた大作で、小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」と中井英夫の「虚無への供物」と並んで日本探偵小説三大奇書として認識されています。「この本を読破したものは、必ず一度は精神に異常を来たす」と評され、当時も話題となりましたが、現在に至っても依然として多くの人々に読み継がれるような小説となりました。
また、そのほかにも「少女地獄」や「瓶詰地獄」、江戸川乱歩に賞賛された「押絵の奇蹟」などが代表作品として挙げられます。「押絵の奇蹟」を読んだ江戸川乱歩は「2、3ページ読むと、グッと惹きつけられてしまった。探偵小説壇においては珍しい名文ということが出来る」と評しました。
探偵小説?怪奇小説?一括りにできない夢野小説のジャンル
夢野久作は探偵小説の懸賞に応募して当選したことをきっかけに小説家としての道を進むことになりましたが、彼の小説のジャンルはひとくくりに探偵小説とまとめられるものではないようです。また、「ドグラマグラ」や「少女地獄」に代表されるように、怪奇小説家としても名を挙げているため、ある時には奇書のジャンルに分類されることもあります。
小説家は何かと「〇〇作家」などどひとくくりにされがちですが、内容が読みやすく、シンプルな構成となっている作家ほどジャンルを絞ることが容易となります。
その一方で、夢野久作の小説は深読みが必要なことから、読む人によって捉える印象が変わってくるので、ある特定のジャンルに当てはめることが難しく、「夢野久作はこのジャンルの作家だ!」と断定するのは容易ではなくなっているのです。
「ドグラマグラ」を発表した一年後に急死。死因は「脳溢血」
夢野久作の死因は「脳溢血」でした。1935年に大作「ドグラマグラ」を発表してからわずか1年後に急死してしまうのです。1935年には多額の借金を抱えた父・茂丸が亡くなっており、その資金集めに奔走している矢先での訃報でした。
資金繰りに協力していたアサヒビールの重役が夢野の元を訪れている際に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。