湯川秀樹は、1949年に日本で初めてノーベル賞を受賞した物理学者です。受賞のニュースは、敗戦で落ち込んでいた国内のムードを明るく照らしました。そして彼に触発された日本の若手学者たちは、素粒子論において世界をリードする存在となっていきます。
また、戦後はアインシュタインとともに核廃絶運動を推し進めました。科学者として核兵器という人類を滅亡させてしまうものを生み出してしまった責任を感じていた湯川秀樹は、世界の科学者とともに平和活動に最期まで尽力します。
この記事では、湯川秀樹の美しい日本語が詰まったエッセイが好きで、科学者としてだけではなく人間としての湯川秀樹に興味を持っている筆者が、その生涯や功績を紹介しながら魅力に迫っていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
湯川秀樹とはどんな人物か
名前 | 湯川秀樹 |
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誕生日 | 1907(明治40)年1月23日 |
没日 | 1981(昭和56)年9月8日 |
生地 | 東京都麻布市兵衛町(現在の港区六本木) |
没地 | 京都府京都市左京区 |
配偶者 | スミ |
埋葬場所 | 知恩院(京都府京都市東山区林下町400) |
湯川秀樹の生涯をハイライト
湯川秀樹は明治時代の終わりに生まれました。学問好きの一家に育ち、自分の夢中になれる分野を探す過程で量子力学に出会い、終生その研究に取り組む決意をします。
苦悩の末に中間子理論を生み出し、世界的な評価が高まりますが、日本は太平洋戦争に突入し、湯川もその波に巻き込まれます。しかし科学者として積極的な兵器開発には関わらず、あくまでも純粋に学問を続け、将来を担う科学者を育てようと講義を続けました。
1949年、湯川秀樹はその功績を認められ、日本人初のノーベル物理学賞を受賞します。そのニュースは敗戦後の日本に大きな勇気をもたらしました。また、平和活動にも積極的に携わります。アインシュタインら世界でも著名なノーベル賞受賞者と連名で出したラッセル=アインシュタイン宣言は、今日まで続く核廃絶運動の端緒となりました。
1981年、湯川秀樹は74歳でその生涯を終えますが、彼の学問に対する熱意は若い科学者たちに引き継がれ、日本のノーベル賞受賞者の中でも物理学賞受賞が最多となっています。素粒子物理学の元祖として、湯川秀樹の名前はこれからも語り継がれることでしょう。
日本人初のノーベル賞を受賞
湯川秀樹は1949年、核力に関する中間子理論においてノーベル物理学賞を受賞しました。この湯川の功績があったからこそ、この後に続く多くの日本人のノーベル物理学賞受賞者が生まれたと言って過言ではありません。
そしてノーベル賞受賞が1949年であったことも、日本には大きな出来事でした。敗戦から数年、講和条約締結前で国内では混乱が続き、国際社会への復帰の道も見えない頃のことです。湯川秀樹が、ほとんど独学で研究を続けて成果を出し、世界的に認められたことは日本人に大きな勇気をもたらしました。そういった意味で、湯川秀樹のノーベル賞受賞は特別なものだったのです。
学者ばかりの家系
湯川秀樹の実父・小川琢治は地質学者、長兄・小川芳樹は冶金学者、次兄・貝塚茂樹(旧姓・小川茂樹)は東洋史学者、弟・小川環樹は中国文学者と学者一家の家族でした。
湯川秀樹の両親は、子供たちを幼い頃から学者にするつもりだったようで、学校の席次のために勉強しなくていいから、好きなことや素質にあったことを深く追及するように教育していたようです。
この兄弟の中で、秀樹が一番出来が悪いのではないかと将来を心配されていたらしく、大学へ進ませるかどうかを両親が悩んだという話が残っています。
同期だった朝永振一郎
湯川秀樹にとって同期に朝永振一郎がいたことは、比較されるという意味で特に若い頃は苦しくもあったでしょう。しかし成長させてくれた偉大なライバルであり、晩年は同志でもあったように思います。
湯川秀樹と朝永振一郎は、中学時代に来日したアインシュタインに大きな影響を受けました。そこからは共に机を並べて学び、京大卒業後は湯川が大阪大学へ、朝永が理化学研究所へと場所を移すも、歩調を合わせて研究を続けていることがわかります。
湯川秀樹の中間子論は、朝永振一郎のアドバイスがあったからこそ理論がまとまったとも言われます。また、朝永は1965年にノーベル物理学賞を受賞しますが、それも湯川秀樹と素粒子論を議論する中で生まれてきたものでした。お互いが高めあったからこそ、同級生が揃ってノーベル賞受賞者になったのです。
湯川秀樹の功績
功績1「中間子論でノーベル賞受賞」
湯川秀樹の中間子論のきっかけとなったのは、原子核の中で、陽子と中性子がなぜバラバラにならずにいられるのか?という疑問でした。湯川秀樹は、中性子と中性子を結びつける中間子があるという理論を打ち立てます。この素粒子物理学は、現在も研究が続く宇宙論の基礎となっているものです。
功績2「アインシュタインと平和運動を推進」
アインシュタインは、ナチス・ドイツが先に原子爆弾を完成させてしまうことを恐れ、アメリカのルーズベルト大統領に原子爆弾の開発製造を提案しました。たとえ戦時下であったとはいえ、そのことはアインシュタイン自身を大きく苦しめていました。
アインシュタインは交流があった日本人である湯川秀樹に、アメリカの日本への原爆投下を食い止めることができなかったことに対して涙を流して謝罪したそうです。湯川秀樹自身も科学者として、自分にも責任があるはずだという思いに囚われていました。こうした思いが、のちにラッセル=アインシュタイン宣言として実を結んでいくのです。
湯川秀樹の名言
一日生きることは、一歩進むことでありたい。
湯川秀樹が座右の銘としていた言葉です。湯川秀樹はノーベル賞受賞という結果を残した素晴らしい学者ですが、その業績は日々の小さな努力の積み重ねで得たことを身をもって知っていました。当たり前のことかもしれませんが、これを湯川秀樹が言うことで言葉の重みが増す気がします。
湯川秀樹にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「夢の中で思いついた中間子論?!」
湯川秀樹がノーベル賞を受賞した中間子論は、夢の中で思いついたと言われています。
考えすぎて不眠症になっていた湯川秀樹は、寝床の中で思いついたことがあれば、忘れないように電灯をつけてノートに書き止める日々が続いていました。そんなことを続けていたある夜、中間子論の元になる着想を得たというのです。
夢の中でも考えるほど、湯川秀樹はこの世界に没頭していたということでしょうし、その執念があったからこそ閃いた理論だったとも思います。