「ヒトラーってどんな人?」
「独裁者ってイメージだけで、どんな政治をしたのかな?」
アドルフ・ヒトラーはドイツの政治家、及び国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者です。1933年で首相となると、一極独裁指導体制を築いたために「独裁者」の典型といわれています。
全世界を第二次世界大戦に導き、虐殺した人々はユダヤ人600万人、ソ連軍捕虜は300万人、何十万のロマ・同性愛者・障がい者を抹殺してきました。どうしてそのような虐殺が起きたのか、なぜ「独裁者」が出てしまったのか、人類は目を背けるのではなく、人物を見て反省することも必要だと感じます。
この記事ではどうして「独裁者」が生まれたのか、ヒトラーの人生を辿ることで、学生時代「アンネの日記」を読んでからずっと「人はどうして同じ人間に酷いことができるのか」を考え続けている筆者が迫っていきたいと思います。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
アドルフ・ヒトラーとは?生涯をダイジェスト
名前 | アドルフ・ヒトラー |
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誕生日 | 1889年4月20日 |
没日 | 1945年4月30日 |
生地 | オーストリア・ハンガリー帝国 ・オーバーエイターライヒ州 |
没地 | ドイツ・ベルリン |
配偶者 | エヴァ・ブラウン |
政党 | 国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチ党) |
ヒトラーの人生を簡単にダイジェストします。
- 1889年:オーストリア・ハンガリー帝国のオーバーエイターライヒ州で税務官のアイロス・ヒトラーと母クララ・ヒトラーの間の次男として生まれる
- 1903年:14歳の時に父アイロス死去
- 1907年:18歳でウィーン美術アカデミーを受験するも不合格となる、同年母クララが死去
- 1908年:生活拠点をウィーンに移し、再度ウィーン美術アカデミーを受験するも不合格となる
- 1913年:ドイツのミュンヘンに移住する
- 1914年:第一次世界大戦のバイエルン国の義勇軍として、西部戦線に参加する
- 1919年:ドイツ敗戦後、ワイマール共和国軍に所属するが、次第に政治活動に傾倒していく
- 1923年:ミュンヘン一揆を起こし逮捕される、刑務所に収監時に「我が闘争」を執筆
- 1925年:ナチ党を再結成する
- 1933年:ヒトラー内閣発足
- 1939年:ドイツ軍、ポーランドに侵攻開始、第二次世界大戦が始まる
- 1945年:ドイツの敗戦が間近に迫りエヴァ・ブラウンと結婚後、自決。享年56歳。
ヒトラーの性格や夢、死因
内気だったヒトラーの性格と侵された病
ヒトラーの性格は、非常に内気で禁欲的な人物だったといわれています。当時のドイツ人には珍しくビールやワインなどの酒を飲まず、煙草も吸いませんでした。そして、食事にも人一倍気を使い、菜食主義者だったといいます。また、恋人のエヴァ・ブラウンに「あの人の内気さは異常だ」と日記に書かれています。
生活面に気を使っていたヒトラーですが、深夜徘徊をするなど青年の頃から不眠症気味で、独裁者になってからも深夜に会議が行われ、明け方近くまでティーパーティーを行ったそうです。精神面でも、1928年頃に強迫観念にかられて精神科医の治療を受けています。
また総統についた1933年頃から、消化器官の不調に悩まされ1936年頃には、胃痙攣・不眠・とめどもない放屁になどが起きていたそうです。1942年頃にはヒトラーの左手が震えはじめ、記録フィルムに移らないように徹底されていましたが、残された画像の解析から「パーキンソン病」と断定されています。当時は治療法が無く確実に体を蝕んでいき、戦局の悪化に伴い症状は加速し、数十メートルも自分自身で歩くことができなくなっていたといいます。
アドルフ・ヒトラーはどんな性格・人柄だった?女体化計画についても紹介
実は最初は画家を目指していた
実はヒトラーは、画家になることを夢見ていました。そして美術アカデミーの受験は失敗しているものの、自身の絵を売って生活をしている時期もありました。そういった意味で、職業は「画家」といえるのかもしれません。
ヒトラーは画家を志し、18歳の時にウィーン美術アカデミーを受験しています。しかし受験結果は不合格でした。不合格理由は、「頭部デッサン未提出、成績が不十分」というのが理由でした。翌年再度受験していますが、2回目も不合格になりました。この出来事はヒトラーのコンプレックスとして刻み込まれることとなりました。
ヒトラーは受験に失敗した後は、住居を転々とし、絵ハガキや版画を模写して生計を得ていました。画風の評価としては、丹念な描写に情熱を注ぐものの独創性に乏しいというもので、既存作品の模写が多かったといいます。
ヒトラー自身は自分の作風を「古典的手法」と自負しており、世紀末芸術、ダダイズム・キュビズムなどに嫌悪感すら抱いていたといいます。そのため総統になってからは、彼らの作品を「退廃芸術」と徹底的に弾圧するようになったといいます。
ヒトラーがナチ党に入党した経緯は?
1914年にヒトラーは第一次世界大戦の兵士として志願し、西部戦線に参戦しています。そして戦闘中敵のマスタードガスに巻き込まれて一時的に視力を失い、野戦病院に入院しました。失明の治療中に自分の使命は「ドイツを救うこと」だと確信したと後に語っています。
その後第一次世界大戦がドイツの敗北で終わり、その事実に激しく動揺し、国粋主義者の中で流行していた「敗北主義者や反乱者による背後の策動で前線での勝利が阻害された」とする「背後の一突き論」を強く信じるようになっていきました。
「ワイマール共和国」が建国されてからは、ヒトラーは帰還兵への政治教育を行う啓発教育部隊に入っています。この時に、ミュンヘン大学の予備教育を受けることができ、この際に講習を受けていた兵士に反ユダヤ主義を交えた演説を行い感動させたといいます。この時の演説にヒトラーも好感触を覚えて「私は演説することができた」と回想しています。
1919年にヒトラーは正式に国軍の情報提供者(Verbindungsmann)の名簿に軍属情報員(Aufklärungskommando)として登録され、諜報組織の末端となっています。その活動の一環としてドイツ労働者党(DAP)の調査に入り、そこで党員と討議を行いました。
ドイツ労働者党の創始者アントン・ドレクスラーはヒトラーの演説に感銘を受け、弁士として来るように依頼し入党を要請しています。それを受けてヒトラーも上官に「この人々は前線の兵士の主張しているため、許可頂きたい」と報告書を提出し、55人目の党員となりました。
牢獄内で「我が闘争」を執筆する
1923年に「ミュンヘン一揆」を起こしますが半日で鎮圧され、ヒトラーは首謀者として逮捕されました。収監後ヒトラーはしばらく虚脱状態だったといいますが、裁判の時には自信を取り戻して一揆の責任を全て負うと証言しています。
1924年の禁錮5年の判決を受け、ランツベルク要塞刑務所に収容されます。ヒトラーは刑期が終わるまでは一切の政治活動を行わないと発表し、この際にルドルフ・ヘスの口述筆記で執筆されたのが「我が闘争」です。
我が闘争は全二巻でヒトラーの自伝的要素と、政治的世界観が書かれていました。この本には、ヒトラーの思想に代表する「反ユダヤ主義」の主張が重要な位置を占めています。
その他にも、フランス共和国に敵意を持ち、ソビエト社会主義連邦との同盟を「滅亡に陥る」と批判し「モスクワ政権はとうにユダヤ人」と記し、現時点はイギリスとイタリアと手を結ぶべきだと説いていました。またソビエトを征服して東方の領土をえる「東方生存圏」を主張しているのも特徴です。この本は第二次世界大戦が終結し、ナチ党が崩壊するまでにドイツだけで約1000万部を売りあげ、聖書並みの売り上げを記録したといわれています。
死因は自殺という壮絶な最期
ヒトラーは4月30日に、拳銃と青酸カリを複合して自ら命を断ちました。ベルリンの周りを赤軍(ソ連軍)に囲まれ、最期を悟ったヒトラーは4月28日に恋人だったエヴァ・ブラウンと総統地下壕の地下室でささやかな結婚式を挙げています。そしこの二人が夫婦として過ごした時間は40時間にも満たずに、ヒトラー夫妻は自殺をしました。
4月30日朝遅くには、赤軍は総統地下壕から500メートル離れていない距離まで迫り、24時間以内にはベルリンの戦闘行為を中止せざるえないという報告を部下から受け、ヒトラー夫妻は昼食をとった後に、地下壕のスタッフや将校たちに最期の別れを告げています。その後夫婦がいた部屋から大きな銃声を側近が聞きつけ駆けつけると、夫妻は死亡していました。
その後二人の遺体は遺言により、遺体を2時間半にかけてガソリンをかけて燃やし続けたといわれています。しかし屋外で燃やしたために二人は完全に焼却はできず、後に赤軍に発見され回収されています。その後ヒトラーの死体は秘密裏に埋められましたが、1970年に掘り起こされ完全に焼却された後にエルベ川に散骨されたことが、1992年にロシアの情報機関の記録で明かとなっています。
ヒトラーの死因は?自殺の経緯から最後の様子まで解説【生存説も紹介】
ヒトラーの偏った思想とは?
アドルフ・ヒトラーは非常に偏った思想を持っており、当初は身近の人に、ナチ党に入党してからは次第に演説を行い、自らの思想をドイツ国民に訴えかけていきました。当初は嘲笑しながら聞いていた民衆も、次第にヒトラーの思想に共鳴し、熱狂するようになったといいます。ヒトラーの思想とはどういったものだったのかを見ていきます。
アーリア人至上主義だった
ヒトラーは著書の「我が闘争」で、ドイツ民族であるアーリア人が最も優れた民族だと主張しました。主張は人種は大まかに3つに別れており、最上位はアーリア人種であり、中でも雑種化していない純粋民族であるゲルマン人が最上位としたのです。
「アーリア人種」「ゲルマン民族」は唯一文化を想像する力を有し、「文化創造者」と呼びました。そしてゲルマン民族の純潔を保ち、存続させるために国家があると説いています。そしてアーリア人以外の民族を奴隷化し、ドイツ人がその上で王侯貴族のような暮らしをするべきだと主張していました。
ナチスドイツはユダヤ人を絶滅させるための「強制収容所」を作っていますが、それとは逆にアーリア人を増やすためにレーベンスボルンという収容所を設けました。ここではドイツの未婚女性の出産が奨励・保護され、同時に優良民族の身体的特徴を持つ子供たちが占領地から拉致され、集められて教育させたりしていたのです。
反ユダヤ主義を掲げていた
ヒトラーは徹底した「反ユダヤ主義」でした。具体的には「ヴェルサイユ条約の締結の責任はユダヤ人であり、敗戦はユダヤ人の責任である」と主張していました。ヒトラーは「ドイツ革命」を国際ユダヤ陰謀による「国家と民族への犯罪」を行ったとし、「戦争開始時に、また戦争中に1万2千~1万5千のドイツ国民を腐敗させるヘブライ人に毒ガスを浴びせていたら、前線の100万人のドイツ兵は救われた」などと演説を行っていました。
そして著書「我が闘争」では「私はユダヤ人を防ぎ、主の御業のために戦う」と宣言しています。ヒトラーによれば、「寄生虫的存在のユダヤ人は有害なバチルス菌のようにどこまでも広がっていき、定着した先で民族を滅亡させる。ユダヤ人の目的は全世界の奴隷化である」という価値観でした。
この思想は、第一次世界大戦の敗戦で多額の賠償金と世界恐慌の影響でぼろぼろになったドイツ国に熱狂的に受け入れられ、「現在の苦しい、弱ったドイツの原因はユダヤ人のせいだ」と思うようになっていったのです。そして「ドイツ国に住むユダヤ人に職を奪われている」と感じている人も多かったことなどもあり、ヒトラーの思想はドイツ人の心の隙間に入り込むように侵食していったのです。
「ホロコースト」を実行した
ヒトラーは、「ホロコースト」といわれるユダヤ人の大量虐殺を指示し、ユダヤ人を絶滅させようとしました。当初はユダヤ人の絶滅ではなく、ドイツ支配下の土地から追放する計画でした。しかし戦況が悪化し、移送が困難となったために側近の勧めもあり絶滅計画を指示したといわれています。
1942年に正式に、ドイツ国内や支配下の国のユダヤ人を強制収容所での大量虐殺などの方針を決める「ヴァンゼー会議」が行われ、「労働による絶滅」を決定させています。そのためドイツ占領下のユダヤ人は強制収容所に移送され、死ぬまで働かされることとなりました。ドイツ敗戦時までのユダヤ人の犠牲者は600万人以上といわれています。
フルスピードで走るのが俺の人生だった
だから俺とお前は兄弟だった。
byルフィ
ヤッホーーーーーーーーーーー
アドルフ・ヒトラーどうしてそんな思想になったんだろう。人間の脳はなかなか怖い風に変わっていくからこれからの未来が不安だ
よく分かりました!
連投すみませんでした!(投稿されてないかと思ってしまいました)
近代史に興味があるので、ムッソリーニとかもぜひお願いします!
いつも素晴らしい記事をありがとうございます!
> 匿名さん
コメントありがとうございます。
ムッソリーニですね!承知しました。編集部にて検討したいと思います。
今後とも宜しくお願い致します。
ぜひ毛沢東もお願いします!
> 匿名さん
ご要望ありがとうございます!
毛沢東ですね。編集部で確認で検討させていただきます!
今後ともよろしくお願いします。
Me tooooooo.
こんばんは、ヒトラーの記事を読みたかったので早速読ませていただきました!
次は毛沢東をぜひお願いします!
リクエストがある場合はツイッターのDMでよろしいでしょうか?