コロンブスの航路をわかりやすく解説!開拓の経緯や与えた影響も紹介

「なぜコロンブスはアメリカに向かったの?」
「コロンブスの航路は他の航海者とはどう違うの?」
「コロンブスが航路を開拓できた理由が知りたい!」

この記事をご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。アメリカ大陸に至る航路を見つけた探検家コロンブス。彼の活躍は現代に影響を与えたのは間違いないでしょう。

そこで気になるのは、コロンブスがどうやって新たな航路を見つけたのかです。「もちろん西廻り航路を見つけたんだよ!」と多くの人が思っているでしょう。

では、なぜコロンブスは西に向う航路を選んだのか?新たな航路を開拓する旅は悪天候に見舞われない順風満帆なものだったのか?と問われてみれば、コロンブスが新たな航路を見つけられた理由について詳しく知らなかったりしますよね。また、新航路を開拓した経緯を詳しく知らない人もいるはず。

そこで今回は、コロンブスが見つけた航路について解説します。新たな航路を見つけた理由はもちろん、航海中の天候や新航路の開拓が与えた影響まで網羅的に解説します。

探検家コロンブスが生涯をかけた新航路開拓の航海に同行してみましょう。それでは参ります。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

コロンブスが見つけた航路とは?

コロンブスやバスコ・ダ・ガマ、ディアス、マゼランの航路地図

なぜ、コロンブスは西に向かったか?

コロンブスとは何した人?生涯・年表まとめ【航路の功績から性格や死因も紹介】

コロンブスは「地球球体説」にもとづき、西へ向かう航路を選びました。コロンブスが探検航海を計画していたころ、遠洋航海で最も先行していたのはポルトガルです。ポルトガルはバルトロメウ・ディアスやバスコ・ダ・ガマの活躍により、アフリカ廻りでインドに到達する航路を開拓しつつありました。

コロンブスはイタリア人地理学者のトスカネリが主張した「地球球体説」にもとづき、西廻りの方がアフリカを迂回する東回りよりも早くインドに到達できると主張します。コロンブスはこの計画をスペインに持ち込みました。

コロンブスに出資したイサベル女王

はじめ、スペインを支配していたイサベル女王やフェルナンド王はコロンブスの計画に乗り気ではありませんでした。しかし、イスラム教徒とのレコンキスタが一段落したのもあり、イサベル女王はコロンブスの計画に出資。こうして、コロンブスは大西洋を突っ切る新しい航路の開拓に乗り出します。

コロンブスが率いた艦隊は、アフリカ大陸西端から島影一つない大西洋を横断。何日も陸を見ない日が続くと、船乗りたちは世界の果てに転落してしまうのではと恐れ、コロンブスに対し反乱を企てます。間一髪のところで反乱を鎮圧したコロンブスは、タイムリミットぎりぎりで西インド諸島に到達。ここを西インド諸島と名付けました。これにより新航路が開拓されます。

※レコンキスタ:レコンキスタとは、イベリア半島で行われていたキリスト教国(カスティーリャとアラゴン)とイスラム教国(ナスル朝グラナダ王国)の戦いのことです。

他の航海者が見つけた航路とは?

大航海時代の主な航路

バルトロメウ・ディアスの喜望峰到達

喜望峰に到達したバルトロメウ・ディアス

アフリカ最南端の喜望峰に到達したのは、ポルトガルの航海者であるバルトロメウ・ディアスでした。レコンキスタに勝利し、国内統一にいち早く成功したポルトガルはエンリケ航海王子の指導でアフリカ探検に力を入れます。その結果、ディアスの探検以前に、ポルトガルは西アフリカから赤道直下のコンゴ付近まで到達していました。

1486年、ポルトガル王ジョアン2世はディアスにアフリカ大陸最南端の発見を命じます。ディアスは、キャラベル船2隻と補給艦1隻の艦隊を率いて、アフリカ大陸の西部沿岸をひたすら南下。1488年5月、嵐によって流されたディアスの艦隊は南端の喜望峰に到達しました。

バスコ・ダ・ガマのインド到達

インドに到達したヴァスコ・ダ・ガマ

ヴァスコダガマとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、開拓した新航路も紹介】

ヴァスコ・ダ・ガマは、ヨーロッパ人としてはじめてインドに到達した人物です。ディアスによる喜望峰発見により、アフリカ大陸南端をまわりインドに到達する可能性が高くなりました。そこで、ポルトガル王マヌエル1世はディアスにインド航路開拓を命じます。

ヴァスコ・ダ・ガマの出航

インド航路発見までのガマの経歴は不明な点が多いです。しかし、国王から大任を任されていることから、既に航海者として実績を積み重ねていた人物だと考えられます。1497年、ガマはサン・ガブリエル号を旗艦とする4隻の艦隊でリスボンを出港。一路、インドを目指します。

彼は沿岸航海を行わず、大西洋を一気に南下するという大胆な航路を選択します。これで喜望峰到達までの期間を短縮しました。その後、東アフリカの沿岸で補給しつつインドに向かいます。そして、ついに1498年5月20日にインドのカリカット(現在のコーリコード)に到達しました。

マゼランの世界周航

世界周航を成し遂げたマゼラン
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