太平洋戦争が起きた3つの原因とは?真相や関連人物も分かりやすく解説

「太平洋戦争の原因って何?」
「日本はどうしてアメリカと戦争始めたんだろう?」

太平洋戦争は第二次世界大戦の局面の一つで、日本が中心の枢軸国と、アメリカ合衆国・イギリスなどの連合国との太平洋を中心に起こった戦争です。枢軸国・連合国共に多くの犠牲者を出し、日本も本土空襲や沖縄戦・原爆投下により多くの人が命を落としています。

日本史上最悪の犠牲者を出した太平洋戦争

日本の敗戦という結果で終わった戦争は、終戦後日本に残ったものは焼け野原と深刻な食料不足だったといいます。どうして日本は世界大国に戦争を仕掛けたのでしょうか?この記事では太平洋戦争の原因を詳しく解説します。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

そもそも太平洋戦争とは?

日本海軍の攻撃で沈没するアメリカ軍艦

太平洋戦争は第二次世界大戦時に起こった戦争でした。1939年から始まった第二次世界大戦において、1941年に日本が英領マレー半島の上陸作戦と真珠湾攻撃をもって宣戦布告し開戦。戦況は当初、日本が快進撃を見せたものの、ミッドウェー海戦の敗戦を境に守戦に転じます。

そして1945年にサイパン島と硫黄島の戦いに敗れアメリカが占拠してから、アメリカ軍の日本全国への空襲が本格化します。その後4月に連合国は沖縄本土に上陸を開始。6月に沖縄を占領後、連合国は7月に日本の降伏を求めるポツダム宣言を発表します。日本はこれを黙殺しました。

東京大空襲後の焦土となった東京

8月にはアメリカは広島・長崎に原子爆弾を投下します。結果日本はポツダム宣言を受諾し、日本の敗戦で太平洋戦争は終結したのです。

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太平洋戦争が起きた3つの原因

なぜ太平洋戦争が起こったのか?気になるところだ

太平洋戦争がなぜ起こったのか?原因は色々考えられていますが、代表的な原因として以下の原因が挙げられています。今からその3つの説をご紹介します。

1.日中戦争の泥沼化

日中戦争の中国兵

太平洋戦争開戦時の1941年は、日中戦争が泥沼化している状態でした。そのため日本は南進し、中国国民党の物資の補給路を断ちたいという思惑がありました。

日中戦争は1937年盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)をきっかけに全面戦争に突入しました。そして蒋介石総統率いる中国の国民政府軍が徹底抗戦を続け、徐々に日本軍は押され気味となっていました。中国軍はアメリカ・イギリス・ソ連から軍需物資や人員援助を受け、ゲリラ戦法などの戦術を用い日本軍が苦戦を強いられます。

蒋介石総統、中国国民政府軍を指揮した

こうして軍事的解決に失敗し戦争が長期化してしまった日本は、中国軍を支援する援蒋ルート(アメリカ等が中国を援助するための輸送路)を断つことで、中国軍の力を削ごうとしたのです。

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2.ABCD包囲網による石油資源の不足

ルーズベルト大統領は日本への経済制裁を先導した

太平洋戦争が起こった原因の一つに、日本が東南アジアの石油や天然資源が欲しかった事が挙げられます。当時日独伊三国同盟を結び、主に石油を目的にインドネシアやインドシナ半島を占領して資源を確保しようとしたのです。手始めにドイツに降伏したフランス領だった仏領インドシナを占領し、支配下に置いています。

日本にとって石油が出る東南アジアは欲しい場所だった

このことに、東南アジアに植民地を持つアメリカ・イギリス・オランダが猛反発し、日本にABCD包囲網と呼ばれるアメリカ・イギリス・中国・オランダの石油を輸出しない経済制裁をしました。日本は後半年で石油の貯蔵が切れるというところまで追い詰められたのです。

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3.強硬な姿勢のアメリカへの反発

コーデル・ハル国務長官の名前を取って″ハル・ノート”と呼ばれている

石油が輸出してもらえないのは日本にとって死活問題であり、当時内閣だった近衛文麿内閣はアメリカのルーズベルト大統領と昭和天皇の会談を実現しようとしましたが失敗します。更にアメリカは日本の経済制裁を解く条件として″ハル・ノート”と呼ばれる、

  • 四原則の無条件承認
  • 支那及仏印よりの全面撤兵
  • 国民政府(汪兆銘政権)の否認
  • 三国同盟の空文化

という事実上の最後通牒を突きつけます。内容は、東南アジアと中国の兵の撤退・日独伊三国同盟の破棄を条件としていました。この内容は日本にとって到底受け入れられる内容ではなく、日本側はアメリカからの宣戦布告だと受け取ったのです。1941年12月1日の御前会議で東條英機内閣は、

御前会議の様子

「米国は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、更に米英蘭支聯合の下に、支那より無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の死文化を要求する等、新なる条件を追加し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。若し帝国にして之に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果と相成る」

と発言しています。そして太平洋戦争を開戦することが決定し、12月8日にアメリカの真珠湾への奇襲攻撃が決まったのでした。

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