太平洋戦争の真の黒幕は?
一般的な原因として考えられているのは、上記の理由です。しかし太平洋戦争はそれよりももっと根深い理由が存在します。建前とは別の開戦の理由を解説します。
一番利を得たのはアメリカ
太平洋戦争して一番利を得たのはアメリカです。モンロー主義を掲げていたアメリカですが、実は第二次世界大戦でドイツにフランスが降伏、イギリスも絶体絶命の危機に直面し、イギリスから参戦を望まれていました。しかしアメリカでは大多数の国民が戦争に乗り気ではなかったのです。
そのためアメリカはドイツなどの枢軸国を刺激し、戦争に参戦することを思いつきます。アメリカは最初にドイツを挑発し、イギリスの商船を護衛しドイツのUボートに威嚇射撃までしているのです。これにはドイツも大激怒しますが、ヒトラーは攻撃しないように支持しています。恐らくヒトラーにはアメリカの思惑を見抜いていたからといわれています。
そしてアメリカはやり方を変え、日本を威嚇するようになりました。日中戦争に介入し、経済政策して日本が戦争をしなければいけないように仕向けていったのです。最終的に日本は挑発にのってしまい、太平洋戦争は開戦しました。そして三国同盟のためにドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したために、イギリスの援助をする口実もでき、日本の奇襲攻撃による怒りからアメリカ国民の戦意も上がっていったのでした。
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日本軍部の暴走
もちろんアメリカだけではなく、日本側にも大きく問題がありました。日本は当時世界から見ても非常に凶暴な国で、軍隊が手あたり次第戦争している状況でした。その好戦的で無軌道ぶりは“ナチスよりも惨い”といわれる程です。
日本の軍部の暴走は惨く、省益目的のために戦争をすぐに仕掛けていました。戦争することにより、予算が貰え権益が上がるために、国益や国民生活を大幅に犠牲にしても戦争しています。当然政治家は軍部に注意します。しかし暴走を止めようとした政治家は、5・15事件や2・26事件で暗殺されてしまいます。そのため命が惜しい政治家は、軍部に逆らえなくなったのです。
また昭和天皇も実は危なかったという話もあります。軍部の中には、文人肌の昭和天皇よりも性格的に活発な秩父宮を天皇に擁立しようという動きがあったといいます。そのように天皇は不可侵な存在として扱われてはいたものの、それでも自分たちに都合の良い天皇を即位してもらおうという意見が出るほど、軍部は凶暴になっていたのです。
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軍部の暴走を罰しない事なかれ主義
軍部は1931年に満州事変を中央政府に許可なく事件を起こし、満州を占領してしまいました。中央政府の許可もなく独断で行ったにもかかわらず、政府は事件に関わった将校を処罰していません。結局結果満州を占領できたからと、責任を追及することはありませんでした。
その裏には、首謀者だった石原莞爾を罰すると、登用した自分たちにも責任が及ぶのが嫌だったために、責任自体を無かったことにしてしまったという事実があります。このことは後にも悪影響を及ぼし、自分の勝手な判断で侵略行為した石原莞爾は英雄に祭り上げられました。
そしてあの人が罰せられなかったからと、第二の石原莞爾を目指すような風潮まで起こってくるようになったといわれています。そして責任隠ぺいはその後あらゆる方面でも続き、後のノモンハン事件等も日本国民が知ったのは戦後だったといいます。ノモンハン事件で生きていた将兵は口封じのために最前線に送られ、全員戦死してしまったからでした。このような体制も、太平洋戦争へと突き進んだ遠因の1つといえるのではないでしょうか。
太平洋戦争開戦に関係の深い人物
太平洋戦争に大きな影響を与えた人物を4名紹介します。どのように太平洋戦争に関わったかを解説します。
昭和天皇
いわずと知れた、太平洋戦争時の天皇です。昭和天皇は当初太平洋戦争に乗り気ではなかったといいます。しかし最初の日本の快進撃を聞き、非常に喜んでいたそうです。1942年の4月に東京が初空襲されても中々信じず、すぐに避難しようとしなかったといいます。しかし日本の活躍に陰りが出てき、追い詰められていた1945年の7月31日には、
「先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」
と側近に語ったといいます。三種の神器を自身の近くに置いておき、いざというときは運命を共にする覚悟だったそうです。結局8月9日の天皇の聖断により降伏が決まり、ポツダム宣言を受諾。戦争は終結しました。
近衛文麿
1940年から内閣総理大臣となった公家出身の政治家です。日独伊三国同盟や日ソ不可侵条約を結んだ内閣でした。しかしアメリカと和平しようとしますが、失敗。軍部の強い意見により戦争をせざるえない状況になると、政権を投げ出すように総辞職しています。
近衛は初めから戦争に乗り気ではなかったといいます。そして戦争中も和平運動を起こし“反東條派”として行動しています。早期和平を天皇に上奏していますが、結局功を成しませんでした。そして終戦後は軍部のみに責任があると主張しますが、責任が免れられないと悟ると自宅で服毒自殺しています。
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東條英機
近衛内閣の後に内閣となったのが東條英機でした。軍の強硬派ではありましたが、就任すぐ昭和天皇にアメリカと和平を進めるようにという指示があったといいます。そのため粘り強く交渉しますが、決裂し戦争に至ってしまいました。
当初は優勢だった日本軍もサイパンを占領され守戦に転じた頃から、反東條派が増え辞職しています。終戦後は拳銃自殺を図りますが未遂となり、東京裁判で死刑に処されました。裁判中「天皇は内閣と私たちに意見されしぶしぶ開戦に同意しただけだ」と主張。これが天皇の免訴の最終的な決定に繋がったといわれています。評価はわかれますが、非常に判断力や頭脳は優れていたものの、残念なことに世界の動向に疎かったと当時の外相重光葵は語っています。
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石原莞爾
“世界最終戦論”という軍事思想を唱え、中央政府の許可なく満州事変を起こした人物です。直接太平洋戦争に関与はしていませんが、当時の軍人の思想に大きな影響を及ぼしたといわれています。
世界最終戦論とは、「大闘争が起こり世界が統一される、キリスト教国を仏外の外道国として悪国指定」などと記され白人を白鬼といい、世界から抹殺せねばならないと説きました。太平洋戦争時は、東条英機と仲が悪かったために左遷されていたので直接的な関与はしていないのですが、石井の行動と思想は、日本人に影響を与え戦争の遠因になったと考えられるでしょう。
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太平洋戦争の原因に関するまとめ
いかがでしたでしょうか?今回は太平洋戦争の原因に焦点をおいて執筆しましたが、筆者は戦争というものに善も悪もないものだなと感じています。それぞれの国が自国ファーストを掲げて侵略し、なんとかその行為を正当化させようとしている姿を感じてしまいました。
しかし結局は暴力に訴える野蛮な行為であり、戦争で残るものは焼け野原と悲しみだけだという事実を再確認した次第です。二度とこのような過ちを繰り返さないように自分たちも選挙に必ず参加するなど政治に関心を持ち続ける事が大事であることを再認識しています。この記事を読んで“ああそうだったのか”と感じてくれた人がいたら非常に嬉しく思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。
ABCDEFGHIJK・・・ 以下省略
戦争はやめたほうがいいと思う((´∀`))
なぜ世界は平和にならないのですか?