「硫黄島の戦いってどんな戦いだったのかな?」
「“硫黄島からの手紙”を見てどんな戦闘か詳しく知りたくなった!」
硫黄島の戦いは、太平洋戦争末期に小笠原諸島の硫黄島での日本軍と米軍の戦闘です。太平洋戦争の戦闘の中でも、日米共に多くの犠牲者を出し非常に激しい戦闘となりました。日本の死傷者よりもアメリカ軍の死傷者が上回った稀有な戦いでもあり、アメリカは敬意を評して硫黄島の戦いを「勝利なき戦い」と現在も呼んでいます。
このように日米に注目されている硫黄島の戦いですが、実際どのような戦闘が行われたのか知らない人がほとんどだと思います。この記事では以前硫黄島の戦いに興味を持ち、戦争を知る世代に聞いたりして調べた筆者が、少しでも戦闘の激しさと戦争の惨さを伝えれたらと考えています。
※この記事では事実を正確に伝えるために、残酷な表現や写真が登場します。苦手な方は次のトピックを読む等の自衛をお願いいたします。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
硫黄島の戦いとは?
交戦勢力 | 大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
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年月日 | 1945年2月19日から3月26日まで (ただし終戦まで抵抗戦力あり) |
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指揮官 | 栗林忠道 | リチャード・K ・ターナー |
戦力 | 22786名 | 約111,000 |
死傷者数 | 戦死17,845名 ~18,375名 (軍属含む) 捕虜1,022名 | 戦死6,821名 戦傷19,217名 |
結果 | アメリカ軍の勝利、硫黄島陥落する |
硫黄島の戦いは激戦となり、戦傷者が日本軍よりも米軍が上回る稀有な戦いでした。両軍共に多くの被害者を出した“硫黄島の戦い”の詳しい状況や、目的・戦闘などを見ていきます。
太平洋戦争での日米の戦いだった
硫黄島の戦いは太平洋戦争で、1945年の2月から3月にかけて硫黄島を舞台に日本軍とアメリカ軍の戦いです。上陸するアメリカ軍を日本軍が迎え撃つことになったこの戦いは、第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の激戦地となりました。
硫黄島の戦いが始まる頃は、日本の敗戦色が強まっている時期でした。1944年には、日本軍がグアムの戦いで米軍に敗退。その後グアム島を制圧したアメリカは、次の日本領土のターゲットとしたのが、戦いの舞台となる“硫黄島”でした。
硫黄島は東京の南約1080㎞、グアムの北約1130kmに位置している火山島です。島の表面が硫黄の蓄積物で覆われているからこの名前が付けられています。直径は北東から南西にかけて8km未満、幅は北部で4km、南部で800mという小さな島です。最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山でした。
硫黄島は火山灰のために保水性がなく、飲用水は塩辛い井戸水か雨水に頼ったといいます。飲用水も満足にない、そういった過酷な場所で日本軍は戦わざるえなかったのです。
硫黄島の戦いの目的は?
米軍が硫黄島を占領目的にした目的は以下の理由などからでした。
Wikipedia
- 被弾による損傷、故障、燃料不足によりマリアナまで帰着できない
- 爆撃機の中間着陸場の確保
- 爆撃機を護衛する戦闘機の基地の確保日本軍航空機の攻撃基地の撃滅
- 本軍の早期警報システムの破壊硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消
要するに本土爆撃のための、中間地点の確保のためでした。硫黄島を占領することにより、硫黄島を利用することにより、戦闘機の長距離飛行によって起こるリスクを軽減することを目的としたのです。
いいと思います