「島原の乱ってどんな一揆だったの?」
「天草四郎が参加した一揆よね?」
島原の乱は江戸時代に起きた肥前島原(現:長崎県)と天草島(現:熊本県)でキリシタンを中心に農民が起こした一揆です。この事件は日本史上最大規模の一揆でもあり、幕末以前の最後の内乱でもありました。
島原の乱ではキリシタンや農民などが結束し約37000人もの人が一揆に参加していますが、何故乱は起こったのか?どういった経緯があったのかなどこの記事では島原の乱を出来るだけわかりやすく解説していきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
島原の乱(天草一揆)とは?
交戦戦力 | 徳川幕府 | 一揆軍 |
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年月日 | 1637年10月25日から1638年2月28日(旧暦) | |
指揮官 | 松平信綱 | 天草四郎(益田時貞) |
板倉重明 | 有家監物 | |
山田右衛門作 | ||
戦力 | 約125,000人 | 男女合わせて約37,000人 |
実戦参加者約13,000人 | ||
浪人40人 | ||
死傷者 | 約8000人以上 | 全滅 |
結果 | 一揆軍全滅により幕府軍の勝利 |
島原の乱は別名島原・天草の乱とも呼ばれ、キリシタンを中心とした農民によって起こった一揆でした。約37,000人が参加した日本史上最大の内乱であるこの戦いがどんな一揆だったのかを解説します。なおこの記事では、以下“島原の乱”の名称を使用します。
キリシタンによる幕府への一揆だった
島原一揆の特徴は、住民の多くがキリスト教に入信していたことです。そして以前の領主だった有馬氏や小西氏に仕えていた浪人も乱に参加しています。
苛烈なキリシタンの弾圧と島原地方の過酷な年貢や税の取り立てに反発し、キリシタンの中でカリスマ的な人気を誇った小西家の浪人出身の天草四郎(益田時貞)を一揆軍の総大将としました。とはいえ天草四郎はまだ10代の少年であり、実際の計画・指揮は浪人・庄屋が行って一揆軍を率いていたといいます。
しかしお飾りとはいえ総大将である天草四郎は、「額に小さな十字架を立てて一揆軍を指揮していた」といういで立ちで一揆軍を先導していたといわれています。こういった証言からも、キリスト教信者以外も参加していたとはいえ、かなり宗教色が強い一揆だったことがわかるのです。
日本史上最大の一揆でもあった
島原の一揆には島原と天草の領民の多くが参加し、総勢37,000の日本史上最大といわれる一揆となりました。特に島原は乱が終わった後に全滅となった村が多数出るほどの人員が参加したのです。
当初幕府は板倉重昌を総大将に周辺の大名を集め討伐軍を結成しますが、約半年という長期戦となり幕府側・一揆側共に多くの死傷者を出した内戦となりました。鎮圧に半年近くかかった一揆は今までになく、日本史上最大の一揆といわれるようになったのです。
島原の乱の結末は?
島原の乱は幕府軍の総攻撃とその後の処刑で最終的に籠城した約37,000人はほぼ全員死亡し、生き残ったのは幕府と内通していた山田右衛門作のみだったといわれています。幕府軍は一揆軍を斬首し記録によると、
「あまつさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」
つまり女性や子供に至るまで喜んで斬首されたといっています。殉教を重んじるキリシタンの信仰ゆえに皆喜んで死を受け入れた事がわかるものです。こうして幕府はキリシタンの信仰の深さから、キリシタン信仰の徹底排除が加速していくこととなります。
ただし幕府の総攻撃の前に多くの投降者や脱出者が出ていたともいわれ、実際はもう少し死者数が少ないという説もあります。理由は参加した農民が全てキリシタンだったわけでなく、キリシタンでは無いものの強制され参加していた農民や、戦火を逃れるために参加した農民も多かったからです。
記録によると正月大晦日に水汲みを口実に投降するもの、原城の断崖絶壁から降りて逃げて助かった人もいたといわれています。そうして幕府軍に投降し生き残った人は1万人以上いたともいわれていますが、正確な人数の記録は残っていません。
島原の乱が起こった原因
日本史上最大といわれた島原一揆が起こったのは、もちろん色々な民衆の不満が蓄積されて起こったものでした。島原の乱の原因は何だったのか?見ていきます。