「新撰組のメンバーってどんな人たち?」
「新撰組メンバーの愛刀を知りたい」
新撰組とは幕末に京都で活躍した、尊王攘夷運動の弾圧活動をした浪士組です。今でいう警察のような役割を担い、腕に覚えがある剣豪ぞろいの部隊は、今でも歴史ファンを中心に多くのファンがいるのも特徴といえるでしょう。
しかし新撰組メンバーは、有名なメンバー以外はあまり知らないという方も多いのではないでしょうか。そこでこの記事では、約200名いたというメンバーの中でも主要の人物17名を写真付きで紹介していきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
新撰組の主要メンバーを組織図付きで紹介
新撰組のトップは局長で、直下に副長を補佐する副長がいます。その下に副長助勤があり、組長として平隊員を統率していました。今から局長・副局長・組長の15人の簡単なプロフィールと愛刀を紹介します。
初代局長:芹沢鴨
芹沢鴨の人物像と性格
芹沢鴨は水戸藩浪士であり、新撰組の初代筆頭局長となった人物です。戸賀崎熊太郎から神道無念流剣術を学び、免許皆伝の腕前で師範代を務めていたといいます(諸説あり)。駐屯していた八木邸で酒に酔って寝ているところを、土方・沖田たちが踏み込み暗殺されました。
かなり気性が荒い人物だったらしく、大阪力士と乱闘騒ぎを起こしたり、宴会で酒乱で暴れ、店主に営業停止命令を一方的に申しつけたなどの狼藉を起こしています。そのため松平容保の命により暗殺されたともいわれています。
芹沢鴨の愛刀
芹沢の愛刀は「備後三原森家正家」といわれていますが否定的な意見も多いです。理由は「日本刀銘鑑」に記載がない上に、仮にあったとしても皇室に献上するレベルの刀であり、一浪士である芹沢が持っているとは考えにくいからです。
局長:近藤勇
近藤勇の人物像と性格
近藤勇は新撰組の次代局長で、武蔵国豪農の出身で後に幕臣となった人物です。14歳の時に天然理心流の剣術道場・試衛館に入門。その後同門の土方や沖田らと浪士組に参加。新撰組局長のポジションについてから、池田屋事件や禁門の変など大きな事件で活躍します。しかし戊辰戦争に幕府軍が敗北した後敗走が続き、下総国(千葉県)で捕まり板橋で斬首されています。
近藤の性格は非常に豪胆であり、池田屋事件の時は「死番」として先陣を切って突入したりと、隊長自ら危険な任務に挑んだといわれています。ただし戦闘以外は、ニ番隊組長の永倉に「蛮骨をもって鳴らしただけ、おうおうにしてわがままの挙動」と酷評されています。
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近藤勇の愛刀
近藤勇の愛刀は「長曽弥虎徹興里(長曽祢虎徹)」です。創作作品で、
「今宵の虎徹は血に飢えている」
という言葉は非常に有名です。池田屋事件後、養父に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」と手紙を送っています。しかし実は近藤勇が持っていたのは、長曽祢虎徹の贋作であったという説が有力です。
参謀:伊東甲子太郎
伊東甲子太郎の人物像と性格
伊東甲子太郎は新撰組の参謀であり、常陸志筑藩士の生まれの人物です。江戸で北辰一刀流伊東誠に見込まれて道場主となっていました。同門の藤堂平助の勧誘で新撰組に入隊。しかし御陵衛士となり、新撰組を脱退。討幕派として暗躍しますが油小路で闇討ちにあい、「奸賊ばら(卑怯な賊ども)」と叫び絶命しました。
性格は非常に先進的な考えで英語を同士に学ばせたり、公家中心の新政府を作るという建白書を朝廷に送ったりしたといいます。
伊東甲子太郎の愛刀
伊東甲子太郎の愛刀は「濃州住志津三郎兼氏」です。油小路事件に使用していたといいます。
副局長:土方歳三
土方歳三の人物像と性格
土方歳三は副局長であり規律に厳しく「鬼の副長」と呼ばれた人物です。武蔵国多摩郡の豪農出身で、薬を売りながら剣術を学び江戸で天然理心流に入門。近藤たちと浪士隊に志願し、副局長になりました。戊辰戦争時は新撰組全軍を率いて戦うも新政府軍に敗退。その後蝦夷に渡り新政府軍と対戦中、銃弾を受け死亡しました。
性格は負けん気が強く、俳句も嗜む文化人でもありました。非常にモテて、貰った恋文を自慢する一面もあったようです。
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土方歳三の愛刀
土方歳三の愛刀は「和泉守兼定」「堀川国広」「葵御紋保継」「大和守秀国」です。特に一番愛用していたのが「和泉守兼定」で、新撰組の隊員使用の刀で現存する貴重な刀です。
副局長:山南敬助
山南敬助の人物像と性格
山南敬助は新撰組の副長と総長を務め、陸奥国仙台藩の浪士で北辰一刀流の皆伝者だった人物です。近藤と試合して敗北しそれから試衛館の人物と行動を共にし新撰組に入隊。しかし屯所移転問題で近藤・土方と対立。最終的に脱走し、法度違反により切腹しました。享年33歳でした。
性格は心優しく温厚な性格で、「親切者は山南・松原」という言葉があったほどだといいます。文武両道の人で西本願寺の西村兼文も、「少しは物事の筋道がわかる人」と評価しています。
山南敬助の愛刀
山南の愛刀は「播州住人赤心沖光作」です。大阪の不逞浪士の撃退しました。この時に切っ先から一尺一寸(約33.3センチメートル)の所で折られています。
一番隊組長:沖田総司
沖田総司の人物像と性格
沖田総司は新撰組一番隊組長であり、撃剣師範だった人物です。陸奥白河藩士出身で、天然理心流の近藤や土方と同門でした。近藤たちと参加し池田屋事件などで活躍するも、肺結核に悩まされ戊辰戦争も参加できず、最後は千駄ヶ谷の植木屋で生涯を終えました。
性格はいつも冗談を言って笑っているような陽気な人で、暇なときは寺の境内で子供と良く遊んでいる人だったそうです。稽古は非常に厳しく、怒りっぽくてすぐ怒り師範の近藤より恐れられていたといいます。
沖田総司とはどんな人?愛刀や死因、子孫、イケメン説も紹介【年表付】
沖田総司の刀
沖田総司の愛刀は「加州住清光」「大和守安定」です。加州住清光は池田屋事件の時に帽子が折れたために修理に出した記録が残っています。
ありがと
凄く勉強になりました。
どんどん新しい情報や噂が出る新撰組、これからも色々知りたいと思います。
凄く勉強になりました。
ありがとうございました。