新井白石は江戸時代に活躍した政治家であり朱子学者です。彼が行った政治改革は「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ばれ、徳川吉宗が江戸幕府8代将軍に就任するまで続きました。
しかし、新井白石が江戸幕府に大きく寄与した人物である一方、
「新井白石ってどんな人だったの?」
「具体的にどんな功績を残したの?」
「正徳の治ってどんな政策だったの?」
と彼の人柄や功績が曖昧な方も多いはず。
そこで今回は新井白石の著書を読んで感銘を受けた筆者が、白石の生涯を功績や逸話、子孫の有無なども交えて解説します。
この記事を読み新井白石への理解が深まれば、江戸時代への見方も一層深くなりますよ。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
新井白石とはどんな人物か
名前 | 新井白石 |
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役職 | 旗本、将軍侍講 |
誕生日 | 明暦3年(1657)2月 |
没日 | 享保10年(1725)5月 |
生地 | 江戸 |
没地 | 江戸の千駄ヶ谷 |
配偶者 | 朝倉万右衛門の娘 |
埋葬場所 | 東京都中野区高徳寺 |
新井白石の生涯をハイライト
- 明暦3年(1657):新井正済の子として誕生
- 延宝2年(1674):儒学の勉強を始める
- 延宝5年(1676):主家・土屋家から追放される
- 天和3年(1683):大老・堀田正俊に仕える
- 貞享3年(1686):木下順庵(じゅんあん)に弟子入り
- 元禄6年(1693):甲府徳川家に仕官
- 宝永6年(1710):将軍侍講として正徳の治を行う
- 享保元年(1716):徳川吉宗によって失脚
- 享保10年(1725):病気による病死
旗本にして将軍侍講(政治顧問)を務める
新井白石は明暦3年(1657)に生まれました。幼少より聡明だった白石は、久留里藩(現在の千葉県君津市久留里)の藩主の土屋家、大老・堀田正俊を転々した後に甲府徳川家に仕えます。
やがて、甲府徳川家の当主だった徳川家宣が江戸幕府6代将軍に就任すると、側近として重宝されました。この時白石は旗本に加えられますが、500石の役職なしの旗本止まりでした。
そのため、家宣が白石から意見を求める際は、側用人の間部詮房(まなべ-あきふさ)が白石のもとを訪ね、そこで回答を貰えるといった形式を用います。このように役職なしの旗本が将軍侍講(政治顧問)として幕府の政治に深く関わったことは異例中の異例でした。
正徳の治と呼ばれる政治改革を行う
新井白石が敷いた政治は、正徳年間に行ったことから「正徳の治」と呼ばれています。白石は正徳の治の中で、正徳金銀の発行・海舶互市新例(かいはくごししんれい)の制定・朝鮮通信使の待遇変更・閑院宮家の創設・武家諸法度改定といった様々な箇所に政策を施しました。
しかし、急激な政治改革は民衆を疲弊させ、徳川家康が定めた法を変更しようとしたことから、幕閣との間に溝ができ始めます。特に朝鮮通信使の待遇変更では、白石と木下順庵のもとで学んだ対馬藩の儒学者・雨森芳洲(あめのもり-ほうしゅう)が猛反発したことにより、一時は白石が将軍侍講を辞職するまで追い込まれました。
徳川吉宗から嫌われていた?
徳川家宣が病死し、その次の江戸幕府7代将軍徳川家継が幼くして亡くなり、江戸幕府8代将軍に徳川吉宗が就任すると事態が一変します。吉宗は新井白石を将軍侍講の職から下ろし、失脚に追い込みました。
また、吉宗は白石が行った正徳の治における政策をほとんど廃止。これは白石が行った政治を否定する意味もありました。しかし、正徳の治の政策で制定した海舶互市新例と貨幣改鋳は廃止されることなく吉宗の治世でも活かされます。
吉宗のこの考えには幕臣たちも理解できず、吉宗は白石のことを嫌いと思っていました。ところが、吉宗は白石の著書を廃棄した一説があるので、白石を嫌いつつも正徳の治で行った政策は認めていたと考えられます。
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新井白石の子孫
新井白石の子孫は残念ながら、いませんでした。しかし、白石の先祖は新田氏であることが判明しています。
白石は鎌倉時代の武将・新田義房の次男荒井覚義(あらい-さだよし)を祖とする新田氏傍流の血が流れています。ところが、生前の白石は覚義の兄・新田政義から成る新田氏嫡流の血が流れていると主張しました。
ちなみに白石の祖父の代で荒井から新井へ改姓しています。