伊藤博文は、初代ならびに4度の内閣総理大臣を務め、明治期の日本政治をけん引した政治家です。しかし、、1909年に大韓帝国の民族運動家・安重根に暗殺され命を落としました。
そんな伊藤博文ですが、名前が有名な一方、彼の死因や暗殺に至る過程を詳しく知らない人は多くいますよね。
そこで、今回は伊藤博文の死因となった暗殺事件を、歴史的背景や彼の死がもたらした影響、ささやかれる陰謀論も交えて解説します。この記事を読めば、伊藤博文の最期をより深く理解できますよ。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
伊藤博文の死因となった暗殺事件とは?
伊藤博文が暗殺されたのは1909年10月26日、彼が68歳の時です。ハルビン駅を降り立った伊藤は大韓帝国の民族運動家・安重根に狙撃されて死亡します。死ぬ間際、自分を撃ったのが朝鮮人と知った伊藤は、
「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」
と呟きました。
なぜ安重根は伊藤を暗殺したのでしょうか。そして伊藤の死の間際の言葉にはどのような意味があるのでしょうか。今から詳しく解説していきます。
伊藤博文が暗殺された3つの歴史的背景
伊藤博文が暗殺された理由は、当時の国内外の情勢が大きく関与しています。時系列で背景を解説するなら
- 日清戦争と日露戦争の講和条約が影響したから
- 大韓帝国で民族運動が激化したから
- 伊藤博文が韓国併合に納得し始めたから
順番に解説していきますね
日清戦争と日露戦争の講和条約
日本は日清戦争 (1894年〜1895年)で勝利して、下関条約を締結。続く日露戦争 (1904年〜1905年)にも勝利してポーツマス条約を締結しました。一連の条約で決定した事項はいくつかありますが、朝鮮半島にまつわる重要事項は以下の通りです。
下関条約 | 清国は朝鮮国の独立を認める |
ポーツマス条約 | 日本の大韓帝国に対する保護権を認める |
※朝鮮国は現在の北朝鮮ではなく李氏朝鮮という国であり、1897年からは大韓帝国と名を変えます。当時のロシア帝国は不凍港を手に入れる為、南下政策を続けていました。日本が韓国の保護権をロシアから得たのは、韓国を日本の勢力圏に置く為だったのです。
日本は1904年に第一次日韓協約を結び、日本が韓国に「財務、外交顧問を置く事」を認めさせました。更に1905年に第二次日韓協約を結び、「韓国の外交権は日本が管理する」などして、韓国の保護国化を進めていくのです。
民族運動の激化
日本の政策は韓国国民の反日感情を激化させます。1904年頃から義兵が組織され各地で挙兵が起こり、民衆もそれに加わりました。また1907年に韓国皇帝・高宗はオランダの国際会議に特使を派遣し「日本の韓国統治の是非」を訴える行動に出ています。
当時の列強は「韓国を統治するのは日本」という認識が強く、高宗の特使派遣は相手にされませんでした。日本は高宗に立腹し彼を皇帝から退位させます。更に第三次日韓協約を経て、韓国の内政は日本が強い影響力を持つようになるのです。
高宗の退位と第三次日韓協約で、義兵の民族運動は更に激化。日本軍はソウルで彼らと応戦するものの、戦線は各地に伝播して争いは1914年頃まで続きました。一部の生き残りは満州や沿海州に逃れ、その後も続く朝鮮独立運動に身を投じていきます。
なお伊藤博文を暗殺した安重根は、自伝においては義兵闘争に参加したという記述は一切ありません。
伊藤博文も韓国併合に納得し始める
元々伊藤は国際協調の視点から、急進的な韓国の保護政策には反対していました。「韓国を保護下に置くのは韓国の国力がつくまでの間」と述べ、韓国が自らの力でロシアの南下政策に対抗出来ると考えていたのです。
当時は伊藤の考えは少数派で、同じく元老の山縣有朋や、陸軍軍閥に所属する寺内正毅などは積極的な韓国併合政策を主張していました。ただ伊藤もハーグ密使事件の裏切りや義兵闘争の高まりの中で、韓国併合に傾いていくのです。
1905年に伊藤は韓国の行政権を司る統監府に就任する事で、急進的な改革の防止を図っていました。ところが韓国併合に納得した伊藤は、1909年6月に統監府を辞任。韓国併合の閣議決定にも反対した様子はありません。
ちなみに急進的な韓国併合に反対した伊藤の意図は韓国国民には伝わっておらず、韓国人の韓国併合に対する恨みや怒りは伊藤に集まっていました。伊藤に強い恨みを持っていたのが安重根ら数名のグループだったのです。
伊藤博文の死がもたらした3つの影響
伊藤博文の暗殺は国内外に大きな影響を与えました。重要な点は以下の3つです。
- 韓国の併合政策が加速する
- 日本政界の均衡が崩れる
- 安重根が韓国の英雄になる
順番に解説していきますね。
韓国の併合政策が加速する
暗殺間際の伊藤博文は韓国併合に納得していたものの元々は国際協調派。閣議決定は既になされていたものの、伊藤が暗殺された事で韓国の親日派の政治家達は韓国併合政策を加速させます。
1910年8月22日に韓国併合条約が日韓で調印され、同月29日に条約は発効。韓国の領土であった朝鮮半島は日本のものになりました。日本の韓国併合は1945年9月9日にアメリカに領土を明け渡すまで続くのです。
日本政界の均衡が崩れる
当時の日本で圧倒的な発言権を持っていたのは国際協調派の伊藤博文と、軍閥に顔の利く軍拡拡張派の山縣有朋でした。伊藤が暗殺された事で日本の政界図は様変わりし、山縣らの発言権は増します。韓国の統治にも軍人の影響力が強まる事になりました。
初代統監の伊藤、2代目統監の曽禰荒助は文官でしたが、韓国併合時の統監には陸軍軍人の寺内正毅が就任。やがて統監府は1910年9月に朝鮮総督府となりますが、彼らの多くは軍人が占める事になります。
初期の朝鮮総督達は韓国の統治に武力を用いる武断政治を断行しました。これは韓国人の反発を招く事になり、1919年には朝鮮半島で三・一運動という独立運動が発生する等、反日運動は高まり続けます。
伊藤が存命中に韓国併合が行われれば、文官による朝鮮統治が進んだのかもしれません。
安重根が韓国の英雄に
伊藤を暗殺した安重根は1910年3月26日に絞首刑となりました。現在の大韓民国でも反日感情を持つ人は多く、彼は抗日闘争の英雄と評価されています。
1970年にソウルでは安重根義士記念館が設立され、伊藤暗殺から100年後の2009年10月26日にはハルビンで記念式典が開催されました。平和の式典であるスポーツの垂れ幕に安重根の肖像画が掲げられる事もあるのです。
安重根は朝鮮の独立が東洋の平和に繋がるという「東洋平和論」を唱えていました。独立が可能ならそれで良いのですが、当時の国際情勢や韓国の国のあり方を見ればそれが難しかった事も事実です。安重根の存在は現在の日韓の関係にも大きな影響を与えています。