卑弥呼とはどんな人?生涯・年表まとめ【邪馬台国の場所や功績、まつわる謎や死因も紹介】

卑弥呼は、日本という国ができ始めたころ、つまり今から2000年近く前の時代に「邪馬台国」というクニに存在していたと言われる、倭国(当時の日本)の国王です。卑弥呼は当時の魏という国、現在の中国と関係を持ち、親魏倭王の金印、銅鏡百枚、刀や真珠など数多くの貴重なものを頂いていました。

さらに卑弥呼は鬼道と呼ばれる、占いなどの術も得意で、卑弥呼が亡くなった後には国をしっかりと治められないほどに卑弥呼は鬼道を用いた国の統治に成功していたと言います。

卑弥呼

卑弥呼は生まれた年も亡くなった年も、墓についても、どんな顔であったかについても全くわかっていない、そんな謎の多い人物です。彼女は邪馬台国に住み、倭国を鬼道により統治していた、という情報しか存在しない程です。

しかもその情報は「魏志倭人伝」という、卑弥呼が存在していた時代に中国に存在した魏という国が編纂した書物にしか記載されておらず、卑弥呼に関する情報だけでなく邪馬台国の場所に関する情報に関しても詳細は記載されておらず、大まかな情報しかありません。

しかし、その「魏志倭人伝」のおかげで卑弥呼が魏に使いを派遣、いわば朝貢を行っていて、かつ邪馬台国の政治はヤマト政権のように租税が存在し、卑弥呼の弟が実権を握る政治を呪術面で卑弥呼がサポートしていたということも知ることができます。限られた情報ではありますが、人物性に関してはある程度のことはわかる、そんな人物です。

今回は、そんな卑弥呼の魅力に惹かれ学校の勉強を忘れて関連書物を読み漁った筆者が解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

卑弥呼とはどんな人?

名前卑弥呼
誕生日不明
生地不明
没日不明(242~248年頃)
没地不明
配偶者未婚
埋葬場所諸説あり(後に記述)
子女台与(卑弥呼死去後、国を治める)

卑弥呼の生涯をハイライト

卑弥呼像

卑弥呼の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 出生は不明だが、40年続いた倭国大乱の後、189年前後に卑弥呼と呼ばれる女子が倭国の王として即位
  • 鬼道をもって大衆をまとめる
  • 何度か新羅に使者を派遣する
  • 232年に倭国が新羅に侵入し、新羅の王都である金城を包囲、しかし、新羅の抵抗に遭い、1000人以上の倭軍の兵士が亡くなる
  • 238年から239年に卑弥呼直属の家来・難升米を魏に派遣し、金印と銅鏡100枚を皇帝から授かる
  • 242年から248年の間に卑弥呼死去、死因は不明

卑弥呼が書かれていた書物「魏志倭人伝」とは?

「魏志倭人伝」とは、当時中国にあった国、魏が著した書物で、その「魏志」の中の「倭人」に関する伝えが記されている部分を「倭人伝」と呼びます。

魏志倭人伝

この書物には、

  • 倭人とは、帯方郡(当時の朝鮮にあった中国の一部)から南東に海を渡ったところにある国の人々
  • 卑弥呼は邪馬台国に居住している
  • 卑弥呼は「鬼道」と呼ばれる占いを行って国を治めていた
  • 卑弥呼に夫はいなく、弟が国家統治の助けをしていた
  • 卑弥呼が死去した際には、倭人が直径百余歩にも及ぶ大きな塚(古墳)を作った

等の卑弥呼に関する事柄が詳細に記載されています。

卑弥呼に関する中国の書物は幾つか存在しますが、邪馬台国に関して詳細に記述された書物は世界中を見てもこれのみであり、卑弥呼が存在し、邪馬台国という国があったという唯一の証拠です。

卑弥呼の時代の倭国はどんな様子だった?

争いが絶えず、常に騒乱が起きていた

卑弥呼の時代の倭国は、大変荒れていました。「魏志倭人伝」によると、当時の倭国は卑弥呼が即位するまで男性が代々王の座を受け継いでいたところ統治が上手くいかず、倭国の中で大変な騒乱が起こっていました(倭国大乱)。

しかし、倭国の中の邪馬台国から卑弥呼が即位すると、鬼道などを用いることで倭国の情勢は安定し、中国にも朝貢を行っていました。卑弥呼の死後一度男性の王を立てると再び騒乱が起こりましたが、卑弥呼の後継者たる女性の国王を立てると、安定したのです。

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卑弥呼が治めていた国「邪馬台国」ってどんな国?

邪馬台国の場所や政治は?

邪馬台国は、卑弥呼が居住していた倭国の都の国のことを指します。魏志倭人伝には当時の朝鮮半島にあった国から邪馬台国に至る道程が記されていますが、それによれば、邪馬台国は朝鮮半島から東に1000里ほど海を渡ったところにあったとされています。

邪馬台国の政治には古代日本と同じように租税や賦役の制度が存在していました。また、男子はみな身体に入墨を施し、髪型も男子は髷、女子はざんばら髪のように特殊な風俗感もありました。

卑弥呼はなぜ魏に使いを送ったの?

当時卑弥呼は、「朝貢」という形で魏に使いを送っていました。近世の日本でも朝貢貿易を時代がありましたが、朝貢とは「その周辺の国の中で最も権力のある国に対して周辺諸国が貢物を献上する」という意味を指します。これは、権力のある国に対して貢物を献上してその返礼を受けることで外交秩序を築くという目的があります。

やはり自分の国が外国から攻められてしまっては大変ですから、朝貢することで外交を築き上げようと卑弥呼は思ったのです。

卑弥呼は占い「鬼道」を使って国を治めていた

卑弥呼は鬼道を使えたという記録も

卑弥呼は「鬼道」という呪術的なものを使って国を治めていたことは有名な話です。しかし「鬼道」という言葉は書物上の記述にすぎないため、その言葉が具体的にどんなものを指しているのかには諸説あります。道教と関係があるのではないか、邪術ではないか、はたまた神道ではないか…。

一番の有力説としては、鬼道を「呪術」と解すことで、卑弥呼はシャーマン(超自然的存在)であり、男性が行う政治を霊媒者として補佐していたのではないか、という考えがあります。これによれば邪馬台国は政治と神事の二元的な政治が行われていたということになり、その後の古代日本政治にもつながるのです。

人前に一切姿を見せない秘密主義

秘密主義

卑弥呼は女王に君臨すると、部屋の中にこもるようになり、そこで鬼道を操っていました。人前には一切姿を見せず、会うのは実の弟と、食事を運ぶ給仕1人だけだったと伝えられています。

そのため、女王となってから卑弥呼を見た人は極端に少なかったようです。また、卑弥呼の住む宮殿は楼観(物見櫓のようなもの)や城柵で囲まれており、建物内に入ることができる人も限られていました。

お墓の大きさは150m!100人の奴婢を殉葬

箸墓古墳

卑弥呼は240年代に亡くなった説が有力であるとされていますが、卑弥呼が亡くなった際、約150mの大きさにもなる墓が造設されたという記述があります。この時代は埴輪が導入される前であったので、卑弥呼の埋葬とともに奴婢100人ほどを一緒に殉葬しました。

卑弥呼が埋葬されたとされる墓は大きな塚であり、円墳や前方後円墳のような形をしていたのではないかと推測されていました。これらの情報をもとに奈良県桜井市の「箸墓古墳」が卑弥呼の墓なのではないかという説が挙げられています。

卑弥呼の功績

功績1「魏に使いを送り、金印や銅鏡100枚などを授かる」

卑弥呼は238年に自らの臣下である難升米を魏へと派遣しました。この際に魏の王様から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を授けられます。この史実を元に卑弥呼が倭国の王であるという知らしめを全国民へと広げることにも成功したのでした。

親魏倭王の金印

一方で「日本書紀」を執筆した本居宣長は「『魏志倭人伝』に記載されている、卑弥呼が魏へ使者を派遣し、金品を授かり、倭王としての称号を得たという内容は受け入れられない」と批判しています。当時、倭国よりもはるかに高度な文明をもっていた魏が朝貢国の策略に騙され、金印や銅鏡を与え、倭国の王としての太鼓判を押すことはあり得ないと結論づけたのでした。

功績2「70年以上に続いていた王座を巡る戦争を終わらせた」

邪馬台国

卑弥呼が倭国の国王として即位するまでの間、40年から70年に渡って内乱が続いていました。男の首長たちが国王の座を狙っての覇権争いを繰り広げていたのです。その最終章で一際大きな内乱が起こり、このことに懲りた人々が卑弥呼を女王として君臨させたのでした。

卑弥呼は鬼道と呼ばれる呪術を用いて世をうまく治め、卑弥呼が国を統治している間は争いが起こらずに平穏な日々が続いたそうです。しかし、卑弥呼の亡き後は再び男の国王が誕生し、以前のように内乱の絶えない世の中になりました。

卑弥呼にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「卑弥呼は日本の神様、天照大神である」説

皇室の祖先神であり、この日本を築き上げたとされる天照大神(天照大御神)ですが、天照大神は女性であるとされており、また、須佐之男命(スサノオノミコト)と月読命(ツクヨミ)という弟がいたことから、伝記に記載されている卑弥呼の状況と重なります。

天照大神

あくまで伝説ですから100%そうであると言い切ることはできません。しかし、日本の国史である古事記・日本書紀にそのような記載があるとわかってしまったからには、何か関係があるのではないかと考えてしまいます。

都市伝説・武勇伝2「卑弥呼は天皇の妻、神功皇后である」説

神功皇后

第14代天皇である仲哀天皇の皇后であり、日本初の摂政であるとされている神功皇后ですが、実はこの人物が卑弥呼なのではないかという説もあります。魏志から卑弥呼に関する記述を引用して、日本書紀では神功皇后と卑弥呼が関連するのではないかと推測させる記述があるのです。

江戸時代まで長い間その説が有力であると信じられていましたが、実は時間の隔たりがありました。卑弥呼が活躍していたのは3世紀前半であったのにも関わらず、神功皇后の夫である仲哀天皇のご時世はだいたい4世紀であると推測されているのです。この説は時系列が曖昧であるので、現在では少数説とされています。

都市伝説・武勇伝3「卑弥呼の墓は箸墓古墳である」説

箸墓古墳 全景

生まれた年も亡くなった日も不詳な卑弥呼ですが、その埋葬場所である古墳の場所もわかっていません。そんな中、日本最古級の前方後円墳である箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないか、という説があります。これは箸墓古墳の築造年代が不明であったために提唱されていました。

しかし、卑弥呼の没日が242~248年とされているにも関わらず、箸墓古墳の成立年代は3世紀末から4世紀前半とする説が有力となってきていることから、時系列にずれがあることにより、こちらの説は少数説とされています。また、魏志倭人伝に記載されている卑弥呼の古墳の規模・様式とも差異があるのです。

都市伝説3「卑弥呼の死と皆既日食が関係している?」

卑弥呼は242年から248年の間に亡くなったとされていますが、247年から248年にかけて皆既日食が起こったことと卑弥呼の死を関連づける研究結果を日本の天文学者たちが発表しています。

皆既日食

247年の3月と248年9月に北部九州で皆既日食が起こったことが指摘されており、研究者たちは247年の皆既日食で魔力の弱まった卑弥呼が殺され、248年の皆既日食で卑弥呼の代わりに男の国王が即位したと結論づけました。

しかし、現代の綿密な測定によると、邪馬台国の付近では皆既日食ではなく部分日食に留まっていることが分かっており、卑弥呼と皆既日食との関係性は都市伝説程度に収まっています。

卑弥呼の生涯歴史年表

189年「卑弥呼、女王となる」

女王に就任する

正確な情報は存在しませんが189年頃に卑弥呼が邪馬台国の女王となりました。それ以前は男性の王が国を統治していましたが、国内で内乱が続き、卑弥呼を立てることで治まったといいます。

232年「新羅侵入」

新羅への侵入

232年、倭国は新羅に侵入し、新羅の王都であった金城を包囲しました。しかし軽騎兵率いる新羅王の前に倭軍は太刀打ちできず、千人もの捕虜と死者を生んだといいます。

239年「卑弥呼、難升米を初めて魏に派遣」

239年、卑弥呼は初めて自らの家来を魏に送ります。この時派遣された人物が難升米という人物であり、彼は魏から「親魏倭王」と書かれた金印と銅鏡100枚を皇帝から賜りました。これにより、魏より倭国の女王であることを承認してもらったのです。

240年「帯方郡より使者が倭国に訪れる」

親魏倭王の印綬を受け取る

240年、前年の派遣の返答として、魏の使いが倭国を訪れました。この時卑弥呼は皇帝からの詔書や正式な印綬を賜ったのです。

247年「狗奴国との戦い」

247年、邪馬台国と敵対していた倭人の国、狗奴国との戦が始まりました。この時卑弥呼は載斯や烏越を帯方郡に派遣し戦の開始を報告。一方で魏は張政を倭に派遣、239年に初めて派遣された難升米に詔書や黄幢を授与しました。

240~249年「卑弥呼死去」

240~249年頃卑弥呼が亡くなりました。これにより男性の王が即位しますが、ここで再び内乱が起き、その後卑弥呼の後継者である壱与という女性が即位することで治まったと言います。

287年「倭軍が新羅に攻め入る」

当時倭国は食料に困窮していたため、新たな土地を探そうと新羅に郡を派遣し、新羅を火攻めにしました。この時新羅兵を千人程度捕虜としたと言われています。

卑弥呼の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

卑弥呼‐真説・邪馬台国伝‐

漫画という特徴を最大限に活用した本。卑弥呼が卑弥呼になる前からの生涯を、喜劇的な場面も交えながら面白くストーリーが展開していきます。今までの卑弥呼のイメージを払拭し、新たな「卑弥呼観」が生まれるかもしれません。

【真説】日本誕生Ⅰ卑弥呼は金髪で青い目の女王だった!

題名が独創的であるように、本の中身も独創的です。今までの卑弥呼に対する思い、考え、概念全てが覆され、自分の中の卑弥呼が変わります。しかし本に説得力があるので、納得も容易にでき、かつ価値観の変化を楽しむこともできます。

学習漫画 日本の伝記 卑弥呼 邪馬台国のなぞの女王

まさかの子供向けの学習漫画、と驚くかもしれませんが、やはり学習漫画はわかりやすく簡潔に書かれているという点で、卑弥呼という人物を広く浅く素早く知ることができます。一度この本を手に取って読んでから、さらに深堀している書物を読む、というのも良いのではないでしょうか。

卑弥呼をよく知れるおすすめ本6選【伝記から評伝、漫画まで】

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【衝撃】日本の消された空白の150年。卑弥呼と邪馬台国、謎の四世紀

この動画は、まず邪馬台国がどのような国であったかを広く簡潔に紹介し、動画の中盤から、題名にもある卑弥呼と邪馬台国の関係性を、卑弥呼が神功皇后であるという説の観点から考察しています。卑弥呼の人物性・生涯・彼女自身の謎をサッと学ぶことのできる動画です。

「卑弥呼」踊る授業シリーズ 【踊ってみたんすけれども】エグスプロージョン

この動画では、卑弥呼がどのような人物であったかを、ダンスを取り入れた音楽の中で簡潔に説明しています。しかし、説明と言っても結局は謎の多い人物でありましたので、それを笑いに変えて結局は何が言いたいのかわからないという芸風のいわばお笑い動画となっています。

おすすめの映画

卑弥呼

この映画は、卑弥呼の人物としての物語を語った唯一の映画となっています。しかし内容は歴史的に述べられているものではなく、どちらかというとその風俗性を無理矢理映画にしたように感じるストーリーです。当時の風俗を知る分には十分に素晴らしい映画です。

関連外部リンク

  • 卑弥呼は神功皇后だと日本書紀にはある
  • 邪馬台国と卑弥呼とは〜天照大神との関連性と卑弥呼の可能性〜

卑弥呼についてのまとめ

卑弥呼という人物については伝記が少なく、さらには古事記・日本書紀も卑弥呼の時代から数百年経ってから著されたために卑弥呼に関する記述が曖昧であるという状況の中で、卑弥呼は謎が多い人物とされています。

しかし、邪馬台国に関する魏志倭人伝の記述や、諸説存在する学説から卑弥呼の人物性を推測することに卑弥呼の面白さがあるのです。鬼道によって倭国を治めていたといっても、その鬼道が何なのか、卑弥呼が即位しただけで戦乱が治まったといっても、具体的に何をして治まったのか、そのような記述のない事柄に関して想いを馳せることに意味があるのです。

この記事をきっかけに、卑弥呼に関してさらなる学説や書物を読んで学んで頂きたいと思います。

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九州の田舎人

卵形の墳墓

 笠置山墳丘墓は、後円部が72.1mで、前方部が72.4mであり、全長で145.5mの非常の大型の前方後円墳です。生目1号墳の全長が136mであることから、それよりも重要な人物が埋葬されていたことが分かります。後円部が32.0mですが、やや卵側をしています。
 この卵形の円墳というのは、うっかり見逃しそうになりますが、非常に重要な初期の古墳を考える上でのファクターになります。それはこの地方で円墳での盛土が始まる前の円墳が、実は卵側あるいは楕円形をしていたということです。朝倉観音神社の横に円墳があり、日高氏と一緒に見に行ったが、ここには手つかずの円墳が残っていたが、確かに卵型をしていることが分かります。
 西都原第2古墳群の、81号墳が3世紀中ごろ造られ、日本の最古級の前方後円墳と云われています。この後円部の径は37.5mで、前方部の長さ20.0m、全長で53.7mの形をしていますが、特徴的なことはこの後円部の形が卵型をしていることです。笠置山墳丘墓では、特に2段式の墳丘墓の上部の形が、完全に卵側です。
 卵側の後円部は、人を埋葬する場所ですので、人が卵の中で温められ再生することを祈ったものではないかと思われます。宮崎県では農地造成のために多くの円墳が壊されましたが、その多くが卵形をしていた可能性があります。生目1号墳も、よく見ると後円部が卵側をしています。このことは、当時の人々の願いを表していると思います。後の前方後円墳には周壕が作られますが、これは子宮を意味していて、同様に再生を願ったものだと考えています。

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九州の田舎人

何故魏使は九州を周回したのか(蓬莱の三神山)

『魏志倭人伝』に、「倭地を参問するに、絶えて海中の洲島(しゅうとう)の上に絶在す。或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。」とあり、「参問」とは「実際に訪ね確かめる」という意味ですので。魏の使者が倭地(九州)を周回したことが、その優れた短い筆跡から分かります。では、何故この九州の地を周回したのでしょうか。
 この答えは、中国の蓬莱思想にあります。中国最古の地理書『山海経』の「海内北経」に、「蓬莱(ほうらい)山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されているように、古代から海中には蓬莱山があることが言い伝えられてきました。この蓬莱山は仙境の一つで、仙人が住み不老不死の薬があるところとされていました。道教の中の神仙思想の流れを汲むものです。
 この蓬莱伝説では、海上に五神山があるとされていました。「蓬莱(ほうらい)」、「方丈(ほうじょう)」、「瀛州(えいしゅう)」、「岱輿(たいよ)」、「員嶠(いんきょう)」の5山ですが、このうち「岱輿」と「員嶠」は、海中に沈んでなくなったと云われ、三神山のみがあるとされていました。
 これらの山は、壺の形をしているので「三壺山」とも呼ばれ、不老不死の象徴ともされ、それが前方後円墳の壺型の形となったと思われます。この三神山は、山東半島の先の海中にある日本のことを指すとも言い伝えられていて、魏使はこの3ブックの西側の島(九州)に行くことにし、この島が三神山の一つであるか確かめるためこの島を周回し、それを記録に残したと思います。九州を一周できたことで伝説を実感し、感動し、それが『魏志倭人伝』の文章に残ったと思います。
 『魏志倭人伝』では、また「女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有り」ということで、東側に同じような国があることを報告していますが、これは三神山での中央の島が、同様に千余里離れた所にあり、この倭の地が伝説の土地であることを、やはり感動を持ち伝えていると思います。

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九州の田舎人

赤く顔や体を染める風習

「朱丹(しゅたん)をもってその身体を塗る。中国の粉(ふん)を用ちうるがごとくなり」。これは宮崎県都城市山之口町の「弥五郎どん」祭りに見られるように、隼人などの南方の風俗としての赤く顔や体を染める風習を謂ったものでしょう。
弥五郎どん祭りとは、征服した隼人のたたりを恐れた朝廷が、隼人の鎮魂を願い放生会(ほうじょうえ)を行った際、降伏した隼人の首領をその先払いにしたことに始まります。この弥五郎どんは、高さ3mほどの朱面を被った人形で、子供たちが引っ張って町中を練り歩く祭りです。この朱面が隼人の風俗を示していると伝えられていますが、九州の南部全体で同様の風俗があったものと思われます。
南九州の人々は阿蘇山でのベンガラを豊富に入手することが可能でしたので、こうゆう風習が自然と身についていたのでしょう。「朱丹」とは赤い色の顔料を言う言葉で、必ずしも水銀朱(硫化水銀)を指す言葉ではないと思います。「丹」として、この産地が邪馬台国だという説は、この点間違いがあります。

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花弁式間仕切り住居

 『魏志倭人伝』では、住居のことを「屋室有り。父母、兄弟臥息(がそく)処(ところ)を異にす。」と記述しています。これは「部屋には区切りがあり、父母や兄弟が別々の所で寝ている。」ということです。
 この時代の普通の住居をみると、円か方形に掘り下げた竪穴住居が一般的です。ところが邪馬台国の時代を境目に、弥生後期から古墳時代にわたり、宮崎県の南部から鹿児島県が中心で、九州の北部にまで広がった「花弁式間仕切り住居」が出現しています。宮崎市熊野原遺跡、都城市祝吉(いわよし)遺跡、鹿屋(かのや)市王子遺跡など、この手の住居が数多く九州南部を中心に発見されています。
 この住居の特徴は、壁際の数か所に幅50cm、長さ1mほどの堀残しがあり、この突出した壁により部屋割りをしていることです。円形の住居が花弁状にみえることから、この名が付けられました。
 この部屋は、幅が2mほどあり、人が寝るのにちょうど寸法が合うので、間違いなく寝るときは「床を異にす」と一人一人別々だったことが窺がえます。このことは邪馬台国が宮崎であったという、はっきりした文献と考古学の成果が一致した大きな証拠でしょう。

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邪馬台国の人口

安本美典氏の『卑弥呼は日本語を話したか』によれば、奈良時代の薩摩国・大隅国・日向国それぞれの人口は、下記の数字になります。
       薩摩国  58,869人
       大隅国  44,741人
       日向国  61,224人
これをベースに人口を推定してみました。投馬国を薩摩国、邪馬台国を日向の国とし、大隅国の一部が邪馬台国の時代は日向国に含まれていましたので、日向国に1/3程度を配分しています。それに両国の人口を奈良時代の3/4と推定しました。他国の人口も加えれば、下記の通りになります。(可はそれまでの合計という意味ですので、投馬国、邪馬台国とも2万戸とし、北部九州は3万戸としています。倭人伝の数字は、真実に近いようです。)
     投馬国 (薩摩国)  44,144人(2万戸)
     邪馬台国(日向国)  57,104人(2万戸)
女王国(邪馬台国以外)19,037人 (邪馬台国の3割として算定)
     伊都国他 75,000人 (1戸2.5人として:3万戸)
     合計         195,285人 (狗奴国以外の総合計)
邪馬台国の人口を奈良時代の3/4としたのは、桑原秀夫氏の『古代文化』の中の「日本の古代人推計についての一考察」における人口増加曲線を使い、奈良時代(西暦680年)より邪馬台国の時代(240年)が440年遡るとして、奈良時代の比で求めています。
この人口は鬼頭氏の推定より大幅に大きなものですが、鬼頭氏の推定は余りにも小さなものですので、この程度が適当でしょう。恐らく九州の人口は、狗奴国を加えれば21~22万人といったところと推定されます。

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霧島山の噴火

 古事記に「高天原も葦原中津国も闇になり、様々な禍(まが)が起こった」と記されていますが、この出来事はまさしく火山の爆発がもたらしたものと言えます。それではこの火山の爆発がどこで起きたのでしょう。
宮崎県の「平成7年度 霧島山火山噴火災害危険区域予測図作成業務報告書」のデータに気象台の記録を加味してみると、霧島山火山の歴史時代の爆発の記録から、霧島山の特に御鉢の大噴火が、1895-96年、1566年、1235年、788年に起こったことが分かります。しかしこの間にも小~中クラスの火山の爆発が起きていますが、大きな火山の爆発は古いほど間隔が長く、この傾向から西暦200年頃の卑弥呼の時代に大噴火が起こったことが推定されます。卑弥呼が30代の頃だったでしょう。この御鉢の大噴火は時代を遡るほど規模が大きくなっていることが分かります。788年の噴火では溶岩流、火砕流、降下火砕流などが観測され、霧島神宮が焼失しています。(史上最初の噴火は、742年)
 従って卑弥呼の時代に起きた噴火が非常にすさまじいものであったことが分かります。
宮崎県の報告書では、1959年の新燃岳噴火による災害実績図が載っていますが、火山灰は東側に向って都城盆地から広範囲に宮崎市の海に及ぶ範囲に広がり、農作物に多大な被害をもたらしました。卑弥呼の時代のものはそれより大きいものでした。霧島山の火山灰は気流の関係で、必ず東側に流れることが分かっています。まさに記紀の記録そのものです。
他の火山では、卑弥呼の時代を特定することが出来ません。天照大神がいた時代に起こった天地が暗闇に閉ざされる事件は、日食ではなく間違いない霧島山の噴火によるものです。

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