フローレンス・ナイチンゲールとは何した人?生涯・功績まとめ【年表付き簡単解説】

フローレンス・ナイチンゲールは、19世紀に活躍した看護師の女性です。

「クリミアの天使」という通称で知られ、俗に看護師の女性のことを示す「白衣の天使」という言葉も、ナイチンゲールのイメージからつけられた言葉だといわれています。

彼女の功績は幅広い分野に残っていますが、一言で表すとしたら「医療看護の全面改革」を行ったということです。ナイチンゲールという女性が存在しなければ、現在のような医療体制や公衆衛生という概念は存在せず、医療の発展はここまで進んでいなかったかもしれません。

フローレンス・ナイチンゲール

また彼女は医療分野の改革だけでなく、いわゆる「統計学」という学問分野を作り、それを自身の改革の中で実践するという功績も残しています。現在の社会では統計学によるデータが重要視されているため、彼女はまさしく「現代社会の原型」を作った人物であるといえるでしょう。

しかし、「天使」と称される可憐で清楚なイメージに反して、実際の彼女はなかなか強烈で、どちらかというと「強い女性」であったようです。その強さを示すエピソードは数多く残されており、屈強な軍人ですら彼女のことを恐れるほどでした。また、彼女自身は「天使」という呼ばれ方をあまり好んでいなかったとされています。

この記事では、そんなナイチンゲールの生涯やイメージと史実のギャップについて、病弱ゆえに病院でよくナイチンゲールの本を目にし、看護の道に進んでいないにもかかわらず「ナイチンゲール誓詞」を暗記してしまった筆者が詳しく解説させていただきます。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

フローレンス・ナイチンゲールとは?生涯をダイジェスト

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名前フローレンス・ナイチンゲール
通称「クリミアの天使」「小陸軍省」「ランプの貴婦人」
誕生日1820年5月12日(現在の国際看護師の日)
生地トスカーナ大公国・フィレンツェ
没日1910年8月13日(享年90歳)
没地イギリス・ロンドン
配偶者なし
埋葬場所ハンプシャー州・聖マーガレット教会

フローレンス・ナイチンゲールは1820年5月12日、フィレンツェに生まれました。生家は裕福な地主で、彼女は当時の女性としてはかなり高度な教育を受けています。社交界デビューをして華やかな暮らしを送っていたのですが、17歳の時「神のお告げを聞いた」として貧しい人を助けるための活動を志します。

フローレンス・ナイチンゲール

当時の看護師の就業環境の悪さもあって、家族から猛反対を受けたのですが1851年、31歳でドイツのカイゼルスヴェルト学園という医療従事者のための養成機関に入学します。その後ロンドンの病院に就職、看護師として働くようになりました。

1854年、ナイチンゲールが34歳の時に起こったのクリミア戦争です。戦時大臣から依頼を受けた彼女は、38人の看護師を連れてクリミアへと渡りました。野戦病院の衛生状態の悪さに気づいたナイチンゲールは衛生改革に乗り出し、42パーセントもあった負傷兵の致死率をわずか5パーセントにまで改善しています。

ナイチンゲールが勤務した野戦病院があった
ユスキュダル(旧名スクタリ)

1856年に終戦を迎え、ロンドンへ帰国するとナイチンゲールは当時のヴィクトリア女王に統計資料を用いた900ページにも及ぶ報告書を作成しました。彼女は帰国後も旺盛に働いていたのですが1957年、37歳で過労によって倒れてしまいます。以後、亡くなるまでベッドで看護関係の書籍を執筆し、改革を訴える手紙を書きました。

1860年にはナイチンゲール看護学校が設立され、彼女が望んでいた「看護師への偏見の除去」へ第一歩を踏み出しました。その後も精力的に執筆や後進の指導を続け、1910年に90歳で生涯を閉じました。

フローレンス・ナイチンゲールの生い立ちや性格、死因

裕福な家庭に生まれ、高度な教育を受けて育つ

ナイチンゲールの生まれたフィレンツェ

ナイチンゲールが生まれたのは1820年5月12日、両親の2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国・フィレンツェでの誕生でした。彼女の名前である「フローレンス」の名前の由来も、実は「フィレンツェ」の英語読みとなっています。

ナイチンゲールの生家は裕福な地主の家系であり、そのこともあって彼女は幼いころから様々な教育を受けたようです。英語・フランス語などの語学や哲学や歴史の基礎であるラテン語、ギリシア哲学や数学などの当時の富裕層にとっての一般教養をはじめ、天文学、経済学、歴史などの高度な知識、さらに美術、音楽、絵画、文学などの芸術に至るまで幅広い分野の教えを受けたと記録されています。

かつてナイチンゲール一家が暮らした
エンブリー・パーク

そのような当時にしては超高度な教育を受けたナイチンゲールですが、彼女の運命は慈善活動に携わったことで大きく変わっていきます。

ナイチンゲールが慈善活動の中で接したのは、その日の暮らしにも困る貧しい農民たちの生活でした。彼女自身が育ってきた環境とはまるで違う、常に死と隣り合わせにあるようなその現状に、ナイチンゲールは強く心を痛めたようです。それをきっかけに、彼女は徐々に自身の方向性を「人々に奉仕する仕事」へと定めていきました。

気が強くまっすぐな性格の「天使」

世間では天使のイメージが強い

序文でも少し書いた通り、ナイチンゲールは一般的な「天使」のイメージのような可憐で温和な人物ではなく、むしろ気の強い激しい気性の人物だったようです。彼女自身も優しく柔らかな「天使」のイメージで語られることを嫌っていたようで、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」という言葉を残しています。

そのような激しい性格であった一方で、誰かを犠牲にしたり無理をさせたりすることを嫌う、まっすぐで心の清い人物でもあったようです。赤十字活動のようなボランティアによる救護組織の常備化については、真っ向から反対していました。その考えは「犠牲なき献身こそが本当の奉仕である」という彼女の遺した言葉に表れています。

1854年ごろのナイチンゲール

他人には「犠牲なき献身」を求めた彼女ですが、自分は昼夜を問わず患者のために無茶な献身を続け、37歳という若さで過労で倒れるという事態になりました。病状は重く、倒れた後の彼女はほとんどベッドから起き上がれないような生活を亡くなるまでの50年間ほど続けていたそうです。

しかしそのような状況の中でも、彼女は本の執筆や手紙を書くことにより、医療や衛生への改革を訴え続けました。これらのエピソードをふまえると、ナイチンゲールという女性は強くて心の清い女性であり、あまりにまっすぐな人間だったといえるでしょう。

ナイチンゲールと関わりの深い2人の女性

ナイチンゲールの友人として有名なのは、エリザベス・ハーバートという夫とともに保養所を営んでいた女性です。彼女はナイチンゲールと看護の道を結びつけた人物でもありました。ナイチンゲールが初めて看護師として働くことになったロンドンの病院での仕事も、エリザベスが斡旋したものです。

ナイチンゲールを後押しした
ヴィクトリア女王

当時のイギリスのトップであったヴィクトリア女王からも、高い評価を得ていたことが知られています。ヴィクトリア女王はクリミア戦争に従軍しているナイチンゲールの報告を、縦割り的な行政府を通さずに自分に直接届けさせることを命じました。「女王がナイチンゲールのことを認めている」と受け取れるその命令が知られることで、ナイチンゲールの医療衛生改革が加速しました。

ナイチンゲールは弟子にも恵まれていました。ヴィクトリア女王の娘であるアリス・モード・メアリや、後のプロイセン王妃となるヴィクトリア(イギリス女王とは別人)も、ナイチンゲールの弟子として活動していたことが記録されています。

それらのエピソードの一方で男性に関するエピソードは極端に少なく、実際に彼女は生涯を独身で過ごしました。数人の男性からプロポーズを受けたといわれていますが、「看護研究の邪魔になる」とすべて断っていたようです。ナイチンゲールは現在でいう「キャリアウーマン」の元祖ともいえるかもしれません。

看護師の誓いの言葉「ナイチンゲール誓詞」

ナイチンゲール誓詞の原文

「ナイチンゲール誓詞」とは、看護師の仕事の裏にある理念を表した誓いの言葉のことです。アメリカのファーランド看護学校の校長、リストラ・グレッターを委員長とする委員会によって作成されたものであり、主にアメリカでの看護倫理の原則となっています。

「ナイチンゲール誓詞」という名前から誤解されがちですが、ナイチンゲール自身はこの誓詞の成立に携わったわけではありません。むしろ「看護の仕事とそれに対する従事を希望する者たちは、わざわざ誓いを立てる必要があるほど次元の低いものではない」と、誓詞について否定的な見解を著作で述べています。

しかしナイチンゲールの精神が、看護倫理として基本的かつ絶対的なものであることは変わりありません。そのため現在も看護の現場では広く使われていて、戴帽式や卒業式などの行事ではナイチンゲール誓詞の暗唱を行う看護学校もあるようです。

こちらがその日本語訳です。

ナイチンゲール誓詞

われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん
わが生涯を清く過ごし わが任務を忠実に尽くさんことを
われはすべて毒あるもの 害あるものを絶ち 
悪しき薬を用いることなく また知りつつこれをすすめざるべし
われはわが力の限りわが任務の標準を高くせんことを務べし
わが任務にあたりて 取り扱える人々の私事のすべて
わが知り得たる一家の内事のすべて われは人に洩らさざるべし
われは心より医師を助け わが手に託されたる人々の幸のために 身を捧げん

「ナイチンゲール誓詞」について、より詳しく知りたい人は以下の記事をご覧ください。

ナイチンゲール誓詞とは?意味や和訳・解釈、成り立ちをわかりやすく解説

誤用されている?「ナイチンゲール症候群」という言葉

ナイチンゲール症候群とは

創作物などでは時々「医師と患者」あるいは「看護師と患者」の恋が描かれ、それには大抵「ナイチンゲール症候群」という言葉も付きまとってきます。

このような創作に見られる「ナイチンゲール症候群」は、一般に「医者や看護師などが、患者に対して恋愛感情を錯覚してしまう」という意味で使われていますが、実際はこの使われ方は間違っています。このような状況は「ナイチンゲール効果」と呼ばれる、ポップカルチャーから生まれた造語の1つです。

実際の「ナイチンゲール症候群」は、晩年の彼女が患っていたとされる「慢性疲労症候群」のことです。慢性疲労症候群はその名の通り、常に強い疲労と倦怠感を感じ、日常生活が困難になる病気であり、恋愛などの精神的要因が原因となって起こる病とは異なります。

実際には強い疲労感を伴う症状を表す

また「ナイチンゲール効果」という言葉についても、彼女が患者と恋に落ちたという事実は一切なく、それどころか求婚者に対して「看護研究の邪魔になるから」と断るなどして彼女は生涯を独身で過ごしています。

「白衣の天使」という言葉から生じる可憐なイメージから、創作において恋愛などとも結び付けやすいナイチンゲールですが、彼女の人となりを知ると事実無根すぎる言葉とも感じられるます。「ナイチンゲール効果」という言葉を使うときはよく考えるべきだといえるでしょう。

ナイチンゲール症候群とは?意味や成り立ち、関連する作品も紹介

フローレンス・ナイチンゲールの死因は?

晩年のナイチンゲール

37歳という若さで過労に倒れ、奇跡的に生還するもその後はほとんどベッドの上で50年もの余生を過ごしたナイチンゲール。そのようななかでも執筆活動を通じて医療や看護の発展に尽力し続けた彼女は、直系の親族である両親と姉の死を見届けた後に、バーンレーンの自宅で静かにこの世を去りました。享年90歳でした。

彼女の死に際して、イギリス政府は国葬を行うことを親族に打診したようですが断られています。ナイチンゲールは成し遂げた功績の大きさに反して、親族のみに看取られて静かにその生涯を閉じたのです。

ナイチンゲールの墓

親族が国葬を断った理由については、ナイチンゲール自身が生前にそう望んだからだといわれています。「クリミアの天使」として看護分野の英雄として扱われてきた彼女は、看護の発展のためなら矢面に立つことを嫌がりませんでした。しかし本当はそのような「有名人扱い」を好んでいなかったようで、むしろ静かに暮らすことを望んでいたそうです。

そのような彼女の性格は、その墓石にも表れており、彼女の墓石には「Florence Nightingale」という実名ではなく「F.N」というイニシャルだけが、本人の希望によって刻まれています。彼女は確かに苛烈な人物ではありましたが、意外と一般的な感性をもった人物でもあったのかもしれません。

フローレンス・ナイチンゲールの功績

功績1「クリミア戦争での衛生環境の改革」

患者の世話をするナイチンゲール

ナイチンゲールの通称として最も有名なのは、やはり「クリミアの天使」です。これはナイチンゲールが従軍し、初めて医療や看護の改革を行った、フランス・イギリスとロシアの戦争「クリミア戦争」に由来する通称となっています。

実のところ、ナイチンゲールがクリミアに派遣されるまでにも、最前線における負傷兵の扱いは問題となっていて、彼女が派遣されたのも状況を重く見た戦時大臣からの依頼があったためでした。ただこれには異説として、ナイチンゲール自身が戦時大臣に自分を売り込んだとする説も存在しています。

かねてより戦場における医療環境に危機感を覚えていたナイチンゲールは、戦時大臣からの依頼をすぐに受け入れました。シスター24名、職業看護師14名の女性たちを率いて戦地に赴いたナイチンゲールは、そこで「地獄を見た」と後に書き残しています。下水の上に直接建てられた洋館が野戦病院として使われていたといえば、その状況の悲惨さは伝わってくるでしょう。

クリミア戦争

ナイチンゲールは即座に衛生改革を上官に進言しますが、当時のイギリス軍の事なかれ主義と権威主義の権化のようなジョン・ホール軍医長官は、ナイチンゲールたちの従軍を拒否しました。しかしナイチンゲールは諦めず、病院内で誰も手をつけていなかったトイレ掃除を自分たちの仕事とすることで、院内に居場所を作ることに成功します。

それらの地道な活動と、彼女に味方するヴィクトリア女王からの布告もあって、ナイチンゲールは野戦病院の看護総責任者に着任しました。彼女の着任した2月には、病院での患者死亡率が40パーセントを超える事態となっていましたが、その後は一気に死亡率は減少。4月には14パーセントほどになり、5月には5%ほどにまで激減したと記録されています。

野戦病院の衛生環境を改革し、多くの人々を救ったナイチンゲールは、負傷兵から母のように慕われたらしく、夜の見回りを欠かさなかった彼女のことを「ランプの貴婦人」「光を掲げる貴婦人」とあだ名し、崇拝する兵士もいたそうです。

功績2「看護体制そのものを変革した」

後の看護体制に影響を与えた

医療分野に華々しい功績を残し、「医療従事者の鑑」として扱われることの多いナイチンゲールですが、「医術」の分野に発展を促したわけではありません。彼女の功績は新薬や新たな治療法の発見ではなく、それとは別の部分にあるのです。

彼女が行ったのは、病院の衛生改革と看護教育の体系化です。トイレや洗面所の掃除といった衛生面の管理も、看護師としての専門知識を授ける看護教育も、現在では当たり前のように行われていることですが、ナイチンゲールが看護師として勤務を始めた頃はどちらも行われていませんでした。そのため病院の衛生環境は感染症が蔓延するような悲惨なものであり、看護師は専門知識が必要ない卑しい職業だと思われていたようです。

ナイチンゲールは衛生管理を徹底した

ナイチンゲールによる改革以前の病院、とりわけ戦場の野戦病院の死亡率は40パーセントほどと非常に高かったうえ、ほとんどの死因が戦場での負傷ではなく「感染症」でした。当時の戦場においては、「多少の傷を負う」ということ自体が死へと直結するほど、悲惨な状況が長く続いていたのです。ナイチンゲールはその状況を、衛生面を改善することで打ち破りました。

また、彼女はクリミア戦争から帰国後、著書や意見書を通してイギリス国内の病院の衛生面の向上を訴え、さらに基金への寄付金によってナイチンゲール看護学校を開校しました。その学校で看護師の卵たちは厳しく指導され、卒業した後は各地の病院で活躍しました。卒業生たちの活躍もあって、以前のイギリスに存在していた看護師への偏見は取り除かれたのです。

功績3「統計学という分野の開拓」

ナイチンゲールによるクリミア戦争の死因分析

医療分野、とりわけ看護の分野で有名なナイチンゲールですが、実は現在の我々が広く使っているグラフなどを用いた統計学の先駆者としても知られています。

ナイチンゲールがそのような統計学を用い始めたのは、クリミア戦争からの帰国後のことです。その目的もまた、イギリス国内の病院に対する改革のための分析でした。つまり、ナイチンゲールは統計学という分野を築くために研究を行ったのではなく、医療改革のために必要だった手段がたまたま様々な分野に応用できる統計手法になったのです。

統計学は暮らしのあらゆる分野で使われている

ナイチンゲールが考案した統計グラフは、現在では「レーダーチャート」と呼ばれ、様々な場面で広く使われる形式となりました。「模試の点数などを示す多角形のグラフ」といえば、皆さまにも馴染みがあるでしょう。

医療分野についてだけでなく、経済や法律などの様々な分野に広く活用される統計術を生み出したナイチンゲール。私たちはあらゆる意味で「彼女が作り上げた社会」の中で生きているといえるかもしれません。

フローレンス・ナイチンゲールの名言は?

天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である。

愛というのは、その人の過ちや自分との意見の対立を許してあげられること

私が成功したのは、決して弁解したり、弁解を受け入れなかったからです。

私は地獄を見た。私は決してクリミアを忘れない。

子を失う親のような気持ちで患者に接することのできない、そのような共感性のない人がいるとしたら、今すぐこの場から去りなさい。

私は、すべての病院がなくなることを願っています。

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