尾崎行雄は明治から昭和にかけて議員を務め、当選回数、議員勤続年数、最高齢議員等の複数の記録を保持している事から「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれている人物です。尾崎が初めて議員になったのは1890年の事であり、まだ幕末の功績者達が政治を牛耳っていた時代です。
尾崎は東京市長に就任した他、第一次護憲運動で時の内閣を倒閣させる等、様々な経歴を持っていました。最も総理大臣に近い人物とも評されたものの、やがて訪れる軍国化の流れに反対して孤立していきました。
尾崎は長い議員生活の中で、一貫して民主主義の重要性を説きました。1953年に議員を引退しますが当時の年齢はなんと94歳。尾崎は日本に初めて議会が導入された時代を経て、戦時中、そして戦後の日本の復興を政治の世界から見続けた唯一の人物です。尾崎の生涯を知る事は日本の政治の歩みを知る事にも繋がるのです。
今回は尾崎の生き方に感銘し、国会議事堂にある尾崎の胸像を見に行く事を計画している筆者が尾崎行雄の生涯について紹介します。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
尾崎行雄とはどんな人物か
名前 | 尾崎行雄 |
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誕生日 | 1858年12月24日 |
没日 | 1954年10月6日 |
生地 | 津久井県又野村(神奈川県相模原市) |
没地 | 東京都新宿区 |
配偶者 | 尾崎繁子(前妻)、尾崎テオドラ(後妻) |
埋葬場所 | 尾崎咢堂記念館、鎌倉の円覚寺 |
尾崎行雄の生涯をダイジェスト
尾崎行雄の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 1858年 相模国又野村で誕生
- 1874年 弟と上京し、慶應義塾童児局に入学
- 1882年 大隈重信の立ち上げた立憲改進党に入り、後に大同団結運動に奔走する
- 1890年 第1回総選挙で三重県から出馬し当選
- 1898年 第一次大隈内閣の文部大臣に就任
- 1903年 東京市長に就任
- 1913年 犬養毅と共に第一次護憲運動を行い、憲政の神様と呼ばれる
- 1919年 第一次世界大戦後のヨーロッパを視察し、平和主義・国際主義の重要性を知る
- 1931年 満州事変等の軍国化の波に抵抗し、孤立していく
- 1945年 終戦後に「世界連邦建設に関する決議案」を議会に提出
- 1953年 第26回総選挙で落選し議員を引退
- 1954年 直腸癌と老衰にて死去 享年95歳
衆議院議員の当選回数は史上最多の25回!憲政の神様と呼ばれた
尾崎は以下の記録を保持しています。
- 当選回数
- 第1回〜25回総選挙にて連続当選。
- 議員年数
- 議員を継続して63年務め、94歳で引退。
- 名誉都民第一号
- 功労ある都民に贈呈する栄誉称号であり、2019年の段階で117人が選定。尾崎は1953年に第一号贈呈者となる。
尾崎が憲政の神様と呼ばれるようになったのは1913年に主導した第一次護憲運動が関係しています。尾崎が所属していた立憲政友会は第二次西園寺内閣を発足したものの、陸軍との予算争いで総辞職しています。
続いて総理大臣になったのは長州閥の桂太郎でした。実に3度目の組閣であり議会を軽視する内閣に対して、尾崎は立憲国民党の犬養と共に「憲政擁護・門閥打破」をスローガンに憲政擁護運動を展開します。
これらの運動を国民は支持し、全国で桂太郎に対して暴動が起こり、内閣はわずか62日で退陣します。尾崎の行動は藩閥政治の行き詰まりと民主主義の高まりを示すものであり、尾崎と犬養は「憲政の神様」と呼ばれたのです。
尾崎行雄はどんな演説を行った?第一次護憲運動や共和演説事件
尾崎は若い頃から弁舌が立ち、様々な演説を行っています。有名なのは1913年の第一次護憲運動で行われた桂内閣弾劾演説と、1898年の第一次大隈重信内閣で文部大臣だった時に行われた共和演説です。
桂内閣弾劾演説で尾崎は以下の演説をします。
玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか
桂太郎は批判を抑える為、大正天皇の勅語を得て内閣の組閣や不信任決議案の撤回等を断行しました。尾崎は天皇の威を借りる桂の姿勢を批判したのです。この演説は憲政史上もっとも成功した政府批判と言われます。
共和演説では、尾崎は以下の演説をしました。
世人は米国を拝金の本元のように思っているが、米国では金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人の方が多い。日本では共和政治を行う気遣いはないが、仮に共和政治がありという夢を見たとしても、おそらく三井、三菱は大統領の候補者となるであろう。米国ではそんなことはできない。
尾崎は当時の財閥を中心とした金権政治を批判していました。「日本がもし共和制(君主のいない国)になったならば、財閥が大統領候補になるだろう」と仮定の話をしましたが、それが天皇に対する不敬だと批判を浴びます。
この演説は尾崎の失言というより、尾崎が所属していた憲政党内の派閥争いの道具にされた意味合いが強いです。尾崎は結果的に文部大臣を辞任。第一次大隈内閣はその後党内争いが続き、短時間で内閣は総辞職しています。
尾崎行雄の地元は?世田谷には未だに尾崎行雄邸が存在する
尾崎は様々な地で皆から慕われていました。選挙の基盤は三重県ですが、出身地は相模国(現在の神奈川県)です。尾崎の生家は尾崎咢堂記念館となり、尾崎の足跡を辿る事が出来ます。
ただ尾崎が長年暮らしたのは東京でした。尾崎は1907年に港区の麻布笄町(現在の西麻布)に、イギリス人の妻と暮らす事を目的に洋館を建てました。現在は世田谷区に移転しています。
洋館の外壁はブルーで、上げ下げ窓が特徴的な二階建て。現存する明治期の洋館として極めて貴重であり、地域住民に親しまれてきました。近年解体される可能性があり、地域住民はゆかりの洋館を保存したいと奔走しています。
住民の声は大きな広がりを見せ、ネットで多数の署名が集まった他、アメリカからも「尾崎は日本の歴史にとって大切な人物、ぜひ残してほしい」との声が聞かれます。日本中、そして世界から尾崎は支持されているのです。
尾崎行雄の功績
功績1「立憲改進党の立ち上げに関わり、国会開設運動に関与する」
尾崎は1882年に大隈重信が立ち上げた立憲改進党に入党します。当時の明治政府は薩摩や長州出身者が藩閥を形成し、国民の意見は反映されませんでした。参与の大隈は藩閥を批判し、国会開設の重要性を説いています。
1881年に起きた明治14年の政変では政府から大隈が罷免されると共に、10年以内に国会を開設するという詔が出されます。尾崎は政府の条約改正案に反対し、1887年に後藤象二郎と大同団結運動を進めます。
大同団結運動は板垣退助の自由党等の異なる政党が一致団結して総選挙に備えるものでした。政府は保安条例を出し、尾崎ら自由民権活動家達を東京から退去させています。
尾崎達の活動は国内における国会開設運動に一石を投じ、自由民権運動は国内全土を巻き込んだものになっていくのです。
功績2「東京市長となり、アメリカとの架け橋となる」
尾崎は1903年から1912年にかけて東京市長に就任し、以下の政策を行いました。
- インフラ整備
- 当時の東京の下水は江戸時代から整備されておらず、上下水道や貯水池の確保や植林等の政策を行う。
- 鉄道を市営に切り替える
- 民間の鉄道会社を買収し事業を市営に変更。東京電灯会社に電気代の値下げを交渉し、市民の負担を減らす。
- 日露戦争における様々な会合
- 尾崎は国民の士気を鼓舞する為の慰問の他、東郷平八郎や大山巌に熱烈な歓迎会を行う。
更に尾崎はアメリカとの友好の証として桜の木をワシントンに贈呈しています。日露戦争の勝利はアメリカの仲介により得られたものであり、尾崎はアメリカに恩返しをしたいと考えていました。
尾崎は1909年に2000本の桜をアメリカに送りますが、1度目は虫害で焼却せざるを得ず、1910年に3100本を再度贈呈しています。
アメリカは返礼にハナミズキを日本に寄贈。桜の木はポトマック河畔に植えられ、日米の友好のシンボルとなっています。
功績3「日本の軍国主義を最後まで批判する 」
もともと尾崎は外交では武力行使も視野に入れるタカ派の人物でした。しかし第一次世界大戦後にヨーロッパの視察に行き、戦争の悲惨さを見聞してからは一転して平和主義を掲げました。
満州事変や二・二六事件が勃発し、日本に軍国化の波が押し寄せます。1937年には「正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上」と辞世の句を忍ばせて、軍部攻撃演説を2時間かけて行います。
1942年には翼賛選挙にて非推薦ながら当選します。しかし演説中に「売家と唐様で書く三代目」と1890年に始まった選挙が孫の代(3代目)になると、その精神が踏みにじられていると批判し、不敬罪と拘束されています。
やがて日本は敗北という形で終戦を迎えます。尾崎の主張は正しかった事が証明され、戦後も長きにわたり議員を務めるのでした。
尾崎行雄の名言
戦争は勝っても負けても悲惨な状況をもたらす。
第一次世界大戦後のヨーロッパ視察を経て尾崎が辿り着いた名言です。当時の日本は日露戦争と勝利を収め、大戦でも大きな影響を受けておらず、強行的な意見を述べる人もたくさんいました。
戦争への勝利は更なる戦争を生み出し、やがて崩壊の道を歩む事を尾崎は見抜いていたのでした。
人生の本舞台は常に将来に在り
94歳となった時に尾崎が残した言葉です。人生の活躍する場は常に将来にあり、いつ自分が役立つ時が来るかは分かりません。いつまでもエネルギッシュな尾崎らしい名言です。
尾崎行雄の人物相関図
前妻に尾崎繁子、後妻にイギリス人ハーフの尾崎テオドラがいます。