良寛は生涯に渡って「無為自然」の生き方を貫いた、人徳のあるお坊さんです。子供たちと仲良く遊んでいる姿をイメージされる人が多いのではないでしょうか。そして、そのイメージ通り、庶民の生活の中に溶け込みながら、仏の心を普及していった人物なのです。
良寛は托鉢僧として町や村を巡る一方で、多くの詩歌や漢詩を残しました。そして、その書は当時から絶大なる人気を誇り、奪い合いが起こるほどだったのです。明治の文豪・夏目漱石も良寛の書を絶賛し、筆跡を真似していたのではないかと言われています。
良寛は何か大きな功績を残しているわけでもないのにも関わらず、なぜこれほどまでに時代を超えて語り継がれているのでしょうか?良寛の生き方に共感する人が非常に多いことも理由の一つですが、それだけではありません。
今回は良寛の生き様に共感し、どのような人生を送ったのか興味を持った筆者が、良寛について様々な文献を読み漁った結果得た知識をもとに、良寛の生涯・名言・意外なエピソードまで幅広く紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
良寛とはどんな人物か
名前 | 良寛(本名:山本栄蔵) |
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誕生日 | 1758年11月2日(12月という説もある) |
没日 | 1831年1月6日(2月18日という説もある) |
生地 | 越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町) |
没地 | 越後国島崎(現在の新潟県三島郡和島村) |
配偶者 | なし |
埋葬場所 | 越後国島崎 隆泉寺境内 |
良寛の生涯をハイライト
良寛の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 1758年11月2日、出雲崎の町名主である山本以南・おのぶの長男として誕生
- 幼少期から漢学塾に通い「論語」や「四書五経」などを学ぶ
- 名主見習役として仕事を覚えている最中に家出
- 21歳にして出家を果たし、仏の道に進む
- 12年間の修行を終えて独立するも、托鉢僧として生きる道を選択
- 39歳の時に故郷近くの国上寺五合庵に移住し、20年間をここで過ごすことに
- 托鉢しながら、人々と交流する日々を送る
- 59歳で山の麓にある乙子神社へ移住
- 托鉢を行いつつ、詩歌や漢詩を書にしたためる生活を送る
- 晩年の良き理解者となる貞心尼との出会い
- 直腸癌を患い帰らぬ人に、享年73歳
良寛の「無為自然」の生き方
良寛の生きた時代は自然災害や慢性的な飢饉が続き、多くの人々が苦しんでいる時代でした。その上、貧富の差が激しく、地主や大商人などは豪勢な暮らしをしている一方で、庶民は満足な食事も得られないような貧しい生活を送っていました。
そのような中、町名主の長男として誕生した良寛は、そのまま進めば、名主として豪華な暮らしをすることができたのにも関わらず、家出をして出家する道を選んだのです。そして、自然の成り行きに自らの人生を任せるという「無為自然」の生き方を全うしたのです。
現代は物に恵まれた社会となりましたが、その一方で人々の交流が疎になってしまい、精神的に悩みを抱える人が多くなっているといいます。このような時代だからこそ、「無為自然」に人々との交流を大切にして、人情第一で生活した良寛の生き方が響いてくるのではないでしょうか。
富や名声に溺れない高い精神力の持ち主
良寛はその生き方からもわかるように、富や名声を全く求めていませんでした。富や名声は求めれば求めるほど、以前にも増して渇望していくようになってしまうと考えていたのです。「足るを知る」という現在の自分に満足することが、自らの心を一番満たしてくれるのだという思想が良寛の根底にあるのでした。
良寛は権力にも負けない精神力の持ち主でした。良寛が生きた時代は田沼意次による賄賂政治がはびこっていたので、なおさら権力を振りかざす者が嫌いだったのでしょう。一方で、1828年の三条の大地震が起こった際に越後藩主・井伊直経が死者を厚く法要したという事実を聞いた良寛はこれを絶賛しました。良寛は権力者全般が嫌いだったのではなく、私利私欲による悪政を行う権力者が嫌いだったのです。
人一倍の子供を愛する心を持っていた
良寛といえば、子供と仲良く遊んでいる姿が印象的だという人が多いのではないでしょうか。良寛は弱者の味方であったため、その代表でもある子供たちとは非常に親しく交流をしていたそうです。純粋な子供の心の中に「仏のこころ」を見出していたのではないかとも言われています。
有名なエピソードとしては、夕方のかくれんぼの最中に子供たちが帰宅時間となり、帰ってしまった後でも、良寛は1人だけ翌日の朝まで隠れ通したという話や、子供と鞠付きをしたいがために猛練習をして一番上手くなってしまったという話、お手製の手毬を持参していたという話まで残っています。
子供に愛情を注ぎ続けた良寛ですが、最初から子供たちに歓迎されたわけではありませんでした。良寛は托鉢僧であったため、乞食と同じような格好をしています。そのため、子供によるいじめの対象となってしまうのでした。それでも辛抱強く、子供たちと近づいて行った結果、最終的には仲良くなることができたのです。