良寛の名言
自惚れることも卑下することもない。上もなければ下もない。
知らないことを知っているように言うのは良くない。
食べ物は大事に少しだけいただくこと。
地獄へ行こうと極楽へ行こうと、行ったところがちょうど良い。
幸も、不幸も、喜びも、悲しみさえも、ちょうど良い。
人を差別するようなことを言ってはいけない。
一度言ったことは取り返しがつかないから、注意してしゃべりなさい。
良寛にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「『親をにらむと鰈になるぞ!』という言葉を信じていたた幼少期」
朝寝坊が習慣だった幼い日の良寛は、よく父親から叱れられました。その度に父親のことをにらみつけていたため、父・以南が良寛に向かって、「親をにらむと鰈になるぞ!」と怒鳴っていたのです。
その言葉を信じていた良寛はある日、夕暮れになっても家に帰らずに海岸の岩に腰掛けて海を見下ろしていました。それを発見した母・おのぶに向かって「わしはまだ、鰈になってはいないかえ」と聞いたそうです。純粋な心を持っていた良寛少年の姿が思い浮かびますね。
都市伝説・武勇伝2「名主や学者を有望視されていたのに家出を敢行」
良寛は名主の家に生まれたため、将来はその後を継ぐことを嘱望されていました。あるいは勉学にも優れていたため、学者になっても成功するのではないかと期待されていたのです。
しかし、良寛が名主見習役として、仕事を覚えている最中に、父・以南が周囲の人々との和を乱すようなトラブルを起こしたため、このような環境で名主をやっていくことはできないと思い余った良寛は家を飛び出してしまうのでした。
安泰の将来を捨ててまでして家出を敢行した良寛でしたが、この家出事件がなければ、人々に愛される托鉢僧・良寛が生まれなかったと考えると、運命というものはわからないものだなと思わされますね。
都市伝説・武勇伝3「破戒(宗教の戒律を守らない)僧だった?」
良寛は周囲の人々に優しい反面、自分には厳しい人物だったのではないかと思われがちですが、必ずしも厳格に宗教の戒律を守っていたわけではありませんでした。人との交流を大切にしていたので、酒を酌み交わしたり、タバコをくゆらせて談笑したりすることをいとわなかったのです。
つまり、宗教の戒律を守らない破戒僧でした。この言葉だけが一人歩きをすると、悪いイメージを持たれてしまいそうですが、裏を返せば、その場の空気を第一に考える人間味のある僧だったと言い換えることもできます。
良寛の年表
1758年 – 0歳「越後国に良寛が誕生」
越後(現在の新潟県)出雲崎に良寛が生まれる
1758年11月2日、越後国出雲崎にて良寛が誕生しました。良寛は幼名を山本栄蔵と言い、町名主(町の長)である山本以南、おのぶ(秀子という説も)夫妻の長男として生まれたのです。実家は地元の回船業者としても仕事を得ていた「橘屋」という大きな店でもあったため、良寛は町名主かつ有力な業者である裕福な家庭で育つことになりました。
幼少時代の良寛は朝寝坊ををしてはよく父親に叱られる子供であった一方で、お祭りの日でさえも熱心に読書をするような勉強家の側面も持つ子供だったようです。
論語や四書五経をはじめとする儒学の習得に精を出した幼少期
良寛は7歳の時に地蔵堂(現在の新潟県西蒲原郡分水町)にあった三峰館と呼ばれる漢学塾に通うことになりました。ここでは「論語」や「四書五経」などの儒学をメインに勉強することになり、もともと読書好きであった良寛は教科書にのめり込むように勉学に励みました。
この時代には義務教育制度がなかったため、裕福な家庭の子供しか塾に通うことができませんでしたが、良寛は名家の家に生まれたために、このような教育を受ける機会を授かったのです。そして、のちの詩歌や漢詩、書などを手がける素養を良寛はこの漢学塾で養っていくことになるのでした。
1775年 – 17歳「名主見習役の地位を捨てて、家出を敢行」
名主や学者を嘱望されていたにも関わらず、家出をする良寛
三峰館での充実した勉強の日々が続いていましたが、良寛が17歳になると、父・以南が良寛を故郷に呼び戻すことになります。名主見習役として、将来の職務を覚えてもらうためです。代官所への挨拶回りや町の役人との交渉術、帳簿や書類の扱い方などを実践しながら覚えていくことになりました。
しかし、この時にある事件が起こります。町年寄(町名主を補佐する役)という役職のものが、代官所で身分不相応な行き過ぎたご祝儀を述べたということに対して、良寛の父・以南が腹を立て、町年寄に突っかかったのです。これを機に争いが勃発しましたが、最終的には以南に非があると認められたため、良寛を含めた「橘屋」一家と周囲との間には亀裂が生じてしまうようになりました。
このような環境ではとても町名主をやっていくことは困難だと考えた良寛は家出することを決心しました。まもなくやってくる7月15日からの盂蘭盆会の期間に脱走すれば、人通りの多い時に逃げ出せると考えた良寛は7月17日の夜陰に乗じて家出を決行したのです。
出家する道を選ぶ良寛
家族が余計な心配をするといけないと感じた良寛は母・おのぶに対して書き置きをして家出を敢行し、簡単に見つけ出されないような内陸のルートで遠くへと逃げて行きました。そして、人目につかないような所で寝食をする日々がしばらくに期間続きました。
家出をした良寛は名主見習役という地位を捨ててしまったので、これからどうするか、非常に悩みました。悩んだ末にたどり着いたのが出家の道だったのです。しかし、出家に至るまでには乗り越えなければならない壁がいくつか存在していたのです。