年齢とともに変化した女性たちとの関係性
良寛は生涯独身を貫きましたが、女性との関係性は年齢とともに変化していきました。名主見習役として仕事に精を出していた10代後半の頃は、実家の近所に遊郭が多く軒を連ねていたため、そこで遊びを覚えていったのではないかと言われています。特に将来の名主候補であった良寛は女性にモテる素質を備えていたのです。
その後、家を飛び出して出家してからは女性との肉体関係は一切ない禁欲生活となりました。そして、結婚をすることもなく、独身で生涯を全うしたのです。女性との交流といえば、托鉢して周る際に談笑をする程度のものでした。
そして、晩年は良き理解者・貞心尼との関係です。良寛と貞心尼はともに和歌を読むことが好きだったため、出会った当初から意気投合し、生涯に渡り仲睦まじい生活を送ったようです。結婚にまでは至りませんでしたが、病床に伏してからの良寛を、親身になって支えたのも貞心尼でした。
良寛の代表的な詩歌・漢詩
良寛といえば、詩歌や漢詩、そしてそれをしたためた書が人気となっているので、ここで代表的な作品をいくつかご紹介したいと思います。
子供との遊びを詠んだ歌
霞立つ 永き春日を 子供らと 手毬つきつつ この日暮らしつ
この里に 手毬つきつつ 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし
子供好きな良寛らしい歌となっています。子供たちと夢中になって遊ぶ朗らかな春の日は、日が暮れずに永遠に続いても良いくらい幸せな時間だという良寛の気持ちがよく現れています。
十字街頭 食を乞い了わり 八幡宮辺 方に徘徊す 児童相見て 共に相語る 去年の痴僧 今又来ると
(じゅうじがいとう じきをこいおわり はちまんぐうへん まさにはいかいす じどうあいみて ともにかたる きょねんのちそう いままたきたると)
こちらは七言四句の漢詩です。良寛がまだ子供たちと親しくなっていない頃に読まれた歌なのでしょう。「去年もこの町を徘徊していた、変で、馬鹿そうな坊さんがまたやって来たと子供たちが噂している」という意味となっています。
世間や人生についての歌
世上の栄枯は 雲の変態 五十余年は 一夢の中 疎雨蕭蕭たり 草庵の夜 閑かに衲衣を擁し 虚窓に倚る
(意味:栄枯盛衰は雲が形を変えていくようなものだ。私のこの50年はつかの間の夢のようであった。小雨そぼ降る草庵での夜、私はひっそりと着物に身を包み、窓にわびしく寄り添うのだ。)
「世の中は雲が形を帰るように激変していくけれども、思えば自分自身の人生も、名主見習役から禅僧として出家をして今はこのように1人侘しく過ごしているという激動の人生だった、しかし、つかの間の夢のようだったなあ」と感慨に耽っている様子が伺えます。
恋の歌
君にかく あひ見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ 貞心尼・作
夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに 良寛・作
「良寛という師の君に出会うことができていまだに覚めることのない夢のようです」と歌うの貞心尼の歌と、「あなたが夢だと思うのなら夢のままで良いではないか、夢と現実と区別をつけないままに語ろうではないか」と言う良寛の歌が一対となっています。
いかにせむ 学びの道も 恋草の 茂りていまは 文見るも憂し 貞心尼・作
いかにせん うしにあせすと 思ひしも 恋のおもにを 今はつみけり 良寛・作
一途に良寛を思い続け、「良寛を恋の世界に誘い込んだ」と貞心尼が詠んだのに対し、「恋の重荷を背負いこんだようだがどうすれば良いだろう」と問う良寛の歌がそれに呼応しています。
良寛の功績
功績1「托鉢僧として里を行脚し、庶民に仏教の教えを普及」
托鉢僧とは仏法の恵みを民家に「布施(相手の利益になるような教えを説くこと)」しながら、その返礼として米や麦、衣類などの「喜捨(金品や物資を相手に与えること)」してもらう僧のことです。12年の修行を経て一人前になった良寛は寺の住職としても生活していくことは可能でしたが、あえて托鉢僧としての道を選んだのです。
その理由としては町や村の人々と交流を何よりも大切に思っていたからなのです。托鉢の合間には子供たちと遊んだり、老人たちの介護も買って出たりするなど、仏の教えを普及して回るだけでなく、人助けをしながら民家を周ったのでした。この人柄の良さが人から人に伝わり、後世にも語り継がれるような人物となったのです。
功績2「文豪・夏目漱石も認める、書の達人」
良寛が書いた書は当時から人気で、奪い合いになるほどでしたが、良寛が亡くなった後もその評判は衰えませんでした。「無償の布施行」で書いた良寛の書には「霊力」が宿っているのではないかとまで噂されたのです。
また、文豪・夏目漱石も良寛の書に憧れ、その筆跡を真似ていたという逸話が残っています。夏目漱石は晩年に良寛の書に触れる機会があり、その際に「ああ、これなら頭が下がる」と感服しました。そして、芥川龍之介をはじめとする漱石の弟子たちに良寛の思想である「則天去私」を提唱してまわるほど心酔したのです。
功績3「万葉集を徹底的に研究し、注釈入りの万葉集を完成させる 」
良寛は万葉集の朱注(注釈)入れを行ったことでも有名です。朱注入れのきっかけとなったのは、友人の阿部定珍からの依頼でした。阿部定珍は造り酒屋の当主で、よく良寛と共に酒を飲み交わしたり、歌を詠み合ったりする仲間だったのですが、ある日、万葉集を購入したのでそこに朱注を入れて欲しいと良寛に頼んだのです。
かねてより万葉集に興味を持っていた良寛はそれを快く引き受けます。当時の万葉集はあて字が万葉仮名で書かれていたため、読みづらく、良寛も注釈を入れるのに相当な苦労をしました。そして、約1年をかけて万葉集の朱注入れを完成させたのです。この作業は良寛にとっても、和歌の研究に役立ったので一石二鳥の仕事となりました。