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良寛とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や代表作品、功績やエピソードも紹介】

良寛の年表

1758年 – 0歳「越後国に良寛が誕生」

越後(現在の新潟県)出雲崎に良寛が生まれる

出雲崎の風景

1758年11月2日、越後国出雲崎にて良寛が誕生しました。良寛は幼名を山本栄蔵と言い、町名主(町の長)である山本以南、おのぶ(秀子という説も)夫妻の長男として生まれたのです。実家は地元の回船業者としても仕事を得ていた「橘屋」という大きな店でもあったため、良寛は町名主かつ有力な業者である裕福な家庭で育つことになりました。

幼少時代の良寛は朝寝坊ををしてはよく父親に叱られる子供であった一方で、お祭りの日でさえも熱心に読書をするような勉強家の側面も持つ子供だったようです。

論語や四書五経をはじめとする儒学の習得に精を出した幼少期

論語 良寛は晩年に至るまで論語を好んだとされる

良寛は7歳の時に地蔵堂(現在の新潟県西蒲原郡分水町)にあった三峰館と呼ばれる漢学塾に通うことになりました。ここでは「論語」や「四書五経」などの儒学をメインに勉強することになり、もともと読書好きであった良寛は教科書にのめり込むように勉学に励みました。

この時代には義務教育制度がなかったため、裕福な家庭の子供しか塾に通うことができませんでしたが、良寛は名家の家に生まれたために、このような教育を受ける機会を授かったのです。そして、のちの詩歌や漢詩、書などを手がける素養を良寛はこの漢学塾で養っていくことになるのでした。

1775年 – 17歳「名主見習役の地位を捨てて、家出を敢行」

名主や学者を嘱望されていたにも関わらず、家出をする良寛

江戸時代の名主の家 イメージ

三峰館での充実した勉強の日々が続いていましたが、良寛が17歳になると、父・以南が良寛を故郷に呼び戻すことになります。名主見習役として、将来の職務を覚えてもらうためです。代官所への挨拶回りや町の役人との交渉術、帳簿や書類の扱い方などを実践しながら覚えていくことになりました。

しかし、この時にある事件が起こります。町年寄(町名主を補佐する役)という役職のものが、代官所で身分不相応な行き過ぎたご祝儀を述べたということに対して、良寛の父・以南が腹を立て、町年寄に突っかかったのです。これを機に争いが勃発しましたが、最終的には以南に非があると認められたため、良寛を含めた「橘屋」一家と周囲との間には亀裂が生じてしまうようになりました。

盂蘭盆会

このような環境ではとても町名主をやっていくことは困難だと考えた良寛は家出することを決心しました。まもなくやってくる7月15日からの盂蘭盆会の期間に脱走すれば、人通りの多い時に逃げ出せると考えた良寛は7月17日の夜陰に乗じて家出を決行したのです。

出家する道を選ぶ良寛

出家 イメージ

家族が余計な心配をするといけないと感じた良寛は母・おのぶに対して書き置きをして家出を敢行し、簡単に見つけ出されないような内陸のルートで遠くへと逃げて行きました。そして、人目につかないような所で寝食をする日々がしばらくに期間続きました。

家出をした良寛は名主見習役という地位を捨ててしまったので、これからどうするか、非常に悩みました。悩んだ末にたどり着いたのが出家の道だったのです。しかし、出家に至るまでには乗り越えなければならない壁がいくつか存在していたのです。

1779年 – 21歳「望みが叶い、21歳にして禅僧としてのスタートを切る」

出家受戒の壁となる「遮難」を乗り越え、仏の道へ

良寛は出家の道を選ぶことになりましたが、当時の出家制度では幼少期から仏門に入っていないと乗り越えなければならない「遮難」という壁が存在していました。「遮難」とは20歳に満たない者、負債のある者、両親の許しがない上に法衣や鉢を持たない者は出家が許されないという決まりです。

現在の新潟県長岡市にある光明寺

それでも良寛は出家を諦めきれないため、時を待ち、両親にも許しを請うことにしたのです。そして、「橘屋」は弟に継いでもらうことで合意し、両親からも許可を得た良寛は曹洞宗光明寺にて出家のための準備段階に入ることになりました。

1779年5月に光明寺の住職に授戒会を施してもらい、ようやく出家の望みが叶ったのです。出家した良寛は「大愚良寛」の法名を与えられ、円通寺の国仙和尚の元で修行に入ることになりました。

厳しい12年間の修行生活

良寛修行の地 円通寺

国仙和尚に連れられて円通寺での修行生活に入った良寛は厳しい仏道修行を持ち前の集中力でこなしていきます。座禅や読経に加え、作務(自給自足のための労働)や月2回の托鉢(仏法の恵みを民家へ「布施」しながら、米や麦などの「喜捨」を返礼として頂くこと)なども叩き込まれました。

この修行の期間中には別の寺に務めていた宗龍和尚と出会い、その生き様に感化されることにもなるのでした。のちに良寛が寺の住職とならずに托鉢僧としていきていくきっかけはこの宗龍和尚から得たのではないかと言われています。

良寛が授かった「印可の偈」

約12年の修行期間を経て、一人前の禅僧となったことを認められた良寛は国仙和尚から「印可の偈(禅僧としての修行が終了したことを証明する証明書)」を授かることになりました。これによって寺の住職になることもできたのですが、良寛は托鉢僧(仏のこころを庶民に説くことでその代わりに食料や衣服を頂く僧)としていきていくことになるのです。

1796年 – 38歳「故郷・出雲崎へ帰郷」

父・以南の死をきっかけに故郷・出雲崎へ帰ることに

円通寺を無事に卒業してからの良寛の足取りは詳しいことがわかっていませんが、1795年に父・以南が京都の桂川へ投身自殺をしたことが良寛に伝わると、それをきっかけに故郷・出雲崎へ帰る決心をしたのでした。

托鉢する良寛像

良寛が出家をする際には立派な高僧になることを望んでいた「橘屋」の親族たちですが、実際の良寛は姿もみすぼらしく、乞食のような生活をしている托鉢僧でした。そのため、親族の期待に引け目を感じた良寛は帰郷してすぐに実家を訪ねることはなく、その近辺を托鉢して周りながら生活を立てたのでした。

1797年 – 39歳「国上寺の五合庵で20年間、地域の人と交流する温かい日々」

真言宗国上寺の五合庵へ

国上寺五合庵

托鉢僧として出雲崎に帰ってきた良寛ですが、三峰館時代の朋友から国上寺の五合庵(1日5合の米さえあればあとは何もいらないという趣旨から命名)へ住んでみたらどうかという打診を受けます。これにあやかった良寛はそこからの20年間を五合庵で暮らすことになりました。

五合庵での生活は人々との交流がメインとなります。子供たちと日が暮れるまで遊んだり、老人たちに介護やマッサージを施してあげたり、人々の輪の中で生活をしながら、仏の心を普及していく日々が続いていきました。

純米吟醸 良寛

良寛は人望のある尊敬されるような僧でしたが、必ずしも仏教の戒律を厳しく守る敬虔な僧ではあるませんでした。それは地域の人々と酒を酌み交わしたり、タバコをふかしながら世間話をするということを何よりも大切に考えていたからです。

詩歌や書を嗜む

良寛の書

良寛は五合庵での生活で感じたことなどを時折、和歌や漢詩に書き上げました。その書の数々は多くの人から珍重され、その素晴らしさは江戸の有識者たちにも伝わるほどでした。

時たま、五合庵で詩歌の寄り合いを開くこともあり、その際には江戸から国学者や儒学者がやってくるほど盛況したのです。こうして徐々に良寛の書の評判が高まり、全国の文人たちが賞賛するところとなり、後年にはかの夏目漱石も絶賛したと言われています。

1817年 – 59歳「年齢を考慮し、乙子神社へ移住」

国上寺五合庵から乙子神社へ

乙子草庵

国上寺五合庵は山の中腹に位置していましたが、還暦を目前に控えた良寛には山の上り下りが身体に堪えるようになってきました。そのため、60歳を目前にして山の麓にある乙子神社へ移住することになりました。

乙子神社に移った後も生活スタイルは変わらず、托鉢しながら人と交流し、神社に戻ったあとは詩歌や漢詩作りに勤しむという毎日を送ります。良寛の書はますます評判を買うようになっていくのでした。

万葉集研究に注釈を施して欲しいとの依頼を受ける

万葉集 原本

ある日、良寛と詩歌を読み合うほど仲の良かった阿部定珍という人物から万葉集の朱注を入れて欲しいとの依頼を受けることになります。かねてより万葉集に興味を持っていた良寛は二つ返事で受け入れます。

加藤千蔭という人物が訳した「万葉集略解」を手元に置きながら、万葉集に注釈を加えていくことになりました。約1年をかけて注釈を入れることに成功したとともに、自身の和歌の研究にも役立ったということで良寛は大変満足したそうです。

1825年 – 67歳「豪雪をきっかけに街の民家へ移住、良き理解者となる貞心尼との出会い」

越後地方の豪雪に苦労し、街へ移住することに

新潟の豪雪 イメージ

良寛が乙子神社で過ごしていた1825年に、越後地方が豪雪となりました。雪かきや道路の整備などで苦労した良寛はこれを機に街へと出ることを決心します。良寛の弟子の遍澄という人物が地蔵堂の主になることが決まり、これを頼りに良寛は島崎(現在の新潟県三島郡和島村)の木村元右衛門宅に居候させてもらうことになりました。

良寛は家族の団欒を乱すことに遠慮して、木村家の裏屋で生活をすることになります。街へ移ってきたことで、移動は楽になった反面、街の賑わいに慣れなかった良寛は夏の間だけ、照明寺の密蔵院で生活するというスタイルを確立することになりました。

晩年の伴侶である貞心尼と出会う

新潟県柏崎にある貞心尼像

良寛が70歳の時に、木村家の裏屋に29歳の貞心尼が訪れてきます。貞心尼はその時、離婚したばかりでありましたが、良寛とともに衣食をともにすることを望んでやってきたのです。和歌の得意な貞心尼は良寛と心を通わせるために歌を一首作り、それを良寛に読んでもらうことによって2人の交流が始まるようになるのでした。

40歳以上も年の離れた2人でしたが、和歌という共通の趣味によって意気投合し、徐々に親密な関係となっていくのでした。のちに、2人の和歌のやりとりが歌集として世に出るところとなり、その関係性がだんだんと深まっていく様子がその内容から読み取れるようになっていました。

1831年 – 73歳「直腸癌により帰らぬ人に」

文政の大地震の際に「自然随順」を説く

良寛の手紙

1828年に越後の三条で大地震が起こりました。この時、良寛は周囲の安否を気遣って、手紙を方々に出しています。その中には「災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」という内容も書かれていました。

これは全ての出来事は自然に任せるのが良いという「自然随順」という考え方で、老子や荘子の考えから来ています。自然災害は人の世の堕落を戒めるためにあるという思想が良寛にはあったのです。

直腸癌を患い、病床に伏すように

良寛の墓がある隆泉寺

1830年、良寛が72歳の時に腹痛や下痢を頻繁に訴えるようになりました。後から検査してみると直腸癌を患っていたことが判明したのです。この頃からは病床に伏すようになり、年末には危篤に陥るようにもなりました。

1831年1月6日、病状は回復することなく、良寛は静かに息を引き取ったのでした。良寛が交流の輪を広げた親しい人たちが見守る中での臨終だったのです。墓地は隆泉寺境内にある木村家の墓の中に設けられました。

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