良寛とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や代表作品、功績やエピソードも紹介】

1779年 – 21歳「望みが叶い、21歳にして禅僧としてのスタートを切る」

出家受戒の壁となる「遮難」を乗り越え、仏の道へ

良寛は出家の道を選ぶことになりましたが、当時の出家制度では幼少期から仏門に入っていないと乗り越えなければならない「遮難」という壁が存在していました。「遮難」とは20歳に満たない者、負債のある者、両親の許しがない上に法衣や鉢を持たない者は出家が許されないという決まりです。

現在の新潟県長岡市にある光明寺

それでも良寛は出家を諦めきれないため、時を待ち、両親にも許しを請うことにしたのです。そして、「橘屋」は弟に継いでもらうことで合意し、両親からも許可を得た良寛は曹洞宗光明寺にて出家のための準備段階に入ることになりました。

1779年5月に光明寺の住職に授戒会を施してもらい、ようやく出家の望みが叶ったのです。出家した良寛は「大愚良寛」の法名を与えられ、円通寺の国仙和尚の元で修行に入ることになりました。

厳しい12年間の修行生活

良寛修行の地 円通寺

国仙和尚に連れられて円通寺での修行生活に入った良寛は厳しい仏道修行を持ち前の集中力でこなしていきます。座禅や読経に加え、作務(自給自足のための労働)や月2回の托鉢(仏法の恵みを民家へ「布施」しながら、米や麦などの「喜捨」を返礼として頂くこと)なども叩き込まれました。

この修行の期間中には別の寺に務めていた宗龍和尚と出会い、その生き様に感化されることにもなるのでした。のちに良寛が寺の住職とならずに托鉢僧としていきていくきっかけはこの宗龍和尚から得たのではないかと言われています。

良寛が授かった「印可の偈」

約12年の修行期間を経て、一人前の禅僧となったことを認められた良寛は国仙和尚から「印可の偈(禅僧としての修行が終了したことを証明する証明書)」を授かることになりました。これによって寺の住職になることもできたのですが、良寛は托鉢僧(仏のこころを庶民に説くことでその代わりに食料や衣服を頂く僧)としていきていくことになるのです。

1796年 – 38歳「故郷・出雲崎へ帰郷」

父・以南の死をきっかけに故郷・出雲崎へ帰ることに

円通寺を無事に卒業してからの良寛の足取りは詳しいことがわかっていませんが、1795年に父・以南が京都の桂川へ投身自殺をしたことが良寛に伝わると、それをきっかけに故郷・出雲崎へ帰る決心をしたのでした。

托鉢する良寛像

良寛が出家をする際には立派な高僧になることを望んでいた「橘屋」の親族たちですが、実際の良寛は姿もみすぼらしく、乞食のような生活をしている托鉢僧でした。そのため、親族の期待に引け目を感じた良寛は帰郷してすぐに実家を訪ねることはなく、その近辺を托鉢して周りながら生活を立てたのでした。

1797年 – 39歳「国上寺の五合庵で20年間、地域の人と交流する温かい日々」

真言宗国上寺の五合庵へ

国上寺五合庵
出典:にいがた観光ナビ

托鉢僧として出雲崎に帰ってきた良寛ですが、三峰館時代の朋友から国上寺の五合庵(1日5合の米さえあればあとは何もいらないという趣旨から命名)へ住んでみたらどうかという打診を受けます。これにあやかった良寛はそこからの20年間を五合庵で暮らすことになりました。

五合庵での生活は人々との交流がメインとなります。子供たちと日が暮れるまで遊んだり、老人たちに介護やマッサージを施してあげたり、人々の輪の中で生活をしながら、仏の心を普及していく日々が続いていきました。

純米吟醸 良寛

良寛は人望のある尊敬されるような僧でしたが、必ずしも仏教の戒律を厳しく守る敬虔な僧ではあるませんでした。それは地域の人々と酒を酌み交わしたり、タバコをふかしながら世間話をするということを何よりも大切に考えていたからです。

詩歌や書を嗜む

良寛の書

良寛は五合庵での生活で感じたことなどを時折、和歌や漢詩に書き上げました。その書の数々は多くの人から珍重され、その素晴らしさは江戸の有識者たちにも伝わるほどでした。

時たま、五合庵で詩歌の寄り合いを開くこともあり、その際には江戸から国学者や儒学者がやってくるほど盛況したのです。こうして徐々に良寛の書の評判が高まり、全国の文人たちが賞賛するところとなり、後年にはかの夏目漱石も絶賛したと言われています。

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