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有島武郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作や家系、死因まで紹介】

有島武郎は雑誌「白樺」を通じて、数々の名作小説を世に送り出した、日本近代文学の第一人者として知られています。代表作としては「カインの末裔」や「或る女」などが挙げられます。小説の素晴らしさもさることながら、愛人女性と情死を遂げたことでも有名ではないでしょうか。

有島武郎 1911年 当時34歳

30歳を過ぎてから執筆活動を開始し、次々と作品を発表していきましたが「或る女」、「惜しみなく愛は奪う」を発表した直後から、理想の愛と現実の愛の狭間で葛藤するようになり、苦悩を抱えてしまうのでした。そして、精神的に追い詰められた結果、縊死という選択をしてしまったのではないでしょうか。

有島武郎は文学に興味を持っていながらも農学校へ進学、初恋が外国人、キリスト教に入信など、意外なエピソードが数多く残っています。それに加えて、突然の情死によりこの世を去ってしまうなど気になる話題には事欠きません。

今回は有島武郎の異色の人生に興味を持った筆者が、彼の文献を読み漁った結果得た知識を元に、有島武郎の生涯、代表作、意外なエピソードに至るまでを紹介していきたいと思います。

有島武郎とはどんな人物か

名前有島武郎
誕生日1878年3月4日
没日1923年6月9日
生地東京府東京市小石川区水道町
没地長野県北佐久郡軽井沢町 浄月庵
配偶者神尾安子
埋葬場所多磨霊園

有島武郎の生涯をハイライト

有島武郎

有島武郎の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1878年3月4日、東京府東京市小石川区水道町に誕生
  • 幼少期から英語と武士道のスパルタ教育を受ける
  • 学習院中等科を卒業後、新渡戸稲造が勤める札幌農学校へ進学
  • 親友とともにキリスト教へ入信
  • 1年間の軍隊生活を経たのちにハバフォード大学、ハーバード大学へ留学
  • 帰国後、東北帝国大学農科大学で英語講師として勤める
  • 31歳の時に神尾安子と結婚
  • 雑誌「白樺」の創刊とともに文筆活動へ
  • 「カインの末裔」、「或る女」などのヒット作を生み出す
  • 1923年6月9日、愛人・波多野秋子と軽井沢にて情死

代表作品「カインの末裔」「或る女」などを紹介

有島武郎は精力的に執筆活動を行っていたので、小説家としての活動期間は短い一方で多くの作品を世に送り出しました。代表作品として挙げられるのは以下の小説・評論です。

  • カインの末裔
  • 或る女
  • 惜しみなく愛は奪ふ
カインの末裔 有島武郎 角川文庫

「カインの末裔」はキリスト教の旧約聖書の一つのテーマとなっている人類の起源や、人の罪深さ、欲深さに迫っている小説で、カインとは旧約聖書に登場する人類の祖先の名前となっています。人類は全員カインの末裔であり、生まれながらにして罪深い心を持っているので、信仰によって還元していくことが大切だということを説いています。

或る女 有島武郎 中公文庫

「或る女」は白樺刊行当時から構想・執筆が開始された小説で、完成までに約8年がかかっています。時代に先んじて目覚めた、勝気な女性が最終的には破滅へと向かってしまうという内容を、豊富な知見や視野を駆使して描いています。この作品は刊行当時よりも、戦後に本格的純文学として評価されることとなり、フェミニズム批評の対象となりました。

惜しみなく愛は奪う 有島武郎 新潮文庫

「惜しみなく愛は奪ふ」は有島武郎が「愛」に関して思索したことが綴られた評論で、結論として「人を愛するということは、相手の全てを奪って自分のものにしてしまうこと」との見解が示されました。この結論と自分の実際の愛とを比較して葛藤するようになり、有島武郎は精神的に追い詰められていくことになるのです。

華麗なる家系図、多才な親族や子孫たち

有島生馬と里見弴

有島武郎は華々しい家系に生まれており、名前が知られている親族や子孫がたくさんいます。

  • 祖父・有島宇部衛:郷士(農村に土着した武士)
  • 父親・有島武:下級武士出身で大蔵官僚のエリート
  • 弟・有島生馬:画家
  • 弟・里見弴(本名:山内英夫):小説家
  • 弟・有島行郎:日本油脂取締役
  • 息子・有島行光:俳優(芸名:森雅之)
  • 孫・中島葵:女優(日活ロマンポルノで活躍)
孫の中島葵
  • 曾孫・有島コレスケ:ミュージシャン
  • 曾孫・有島敏行:翻訳家
  • 曾孫・有島行三:男爵

小説家の有島武郎は多才な親族に囲まれて人生を歩み、亡くなった後の子孫もその血を受け継ぎ、多方面で活躍しました。特に世間に知られている人物としてあげられるのが、有島生馬、里見弴、森雅之、中島葵です。

有島武郎の長男で俳優の森雅之

有島生馬は武郎の実の弟で、画家兼小説家として活動を展開しました。島崎藤村の装丁のデザインを担当したり、海外の有名な画家を「白樺」で紹介したりと多方面で才能を発揮したのです。森雅之は武郎の長男で、昭和の演技派俳優として活躍しました。黒澤明監督の「羅生門」「白痴」などにも出演し、黒澤作品には欠かせないと評されるほとの名優だったのです。

死因は縊死?一ヶ月もの間遺体が見つからなかった理由

有島武郎は軽井沢の浄月庵という場所で愛人・波多野秋子と情死を遂げるのでした。死因は縊死(首吊り)です。2人が情死を決行したのは1923年の6月9日でしたが、遺体が見つかったのはそれから一ヶ月後の7月7日でした。

軽井沢 浄月庵

一ヶ月も見つからなかった理由としては東京や北海道で活動をしていた武郎が、最後の地として長野県軽井沢を選んだからです。有島武郎と波多野秋子が失踪したことはすぐに周辺の人々に気づかれ、捜索願いも出されましたが、一向に見つからなかったのです。最終的には浄月庵の管理人が腐乱している2人の遺体を発見し、遺書が書かれていたために、有島と波多野の2人だということが分かったのでした。

有島武郎が遺した遺書の内容とは?

有島武郎と波多野秋子の書簡

有島武郎は数通の遺書と辞世の歌をいくつか遺して首を吊りました。軽井沢にあった遺書の中には「愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思わなかった。」との記載が、自宅の書斎に遺されていた遺書の中には「世の中のわが恋ならばかくばかりおぞましき火に身はや焼くべき」、「雲に入るみさごのごとき一筋の恋とし知れば心は足りぬ」との歌が詠まれていました。

そのほかにも辞世の歌として「蝉ひとつ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな」や「幾年の命を人は遂げんとや思い入りたる喜びも見で」などが遺体のそばにあった紙に詠まれていたそうです。

有島武郎の功績

功績1「『白樺派』の中心的人物として活躍」

白樺派の代表的人物 武者小路実篤

有島武郎は雑誌「白樺」が刊行された時は東北帝国大学農科大学で教鞭をとっていましたが、「白樺」の刊行とともに小説家としての道へ足を一歩踏み入れることになりました。そして、旺盛な創作活動を行い、武者小路実篤、志賀直哉らと一緒に雑誌「白樺」の中心的人物として作品を発表していくことになるのです。

有島武郎の「カインの末裔」、「或る女」は武者小路実篤の「友情」、志賀直哉の「和解」、「暗夜行路」と並んで、白樺から誕生した、日本を代表する名作小説となるのでした。

功績2「旺盛な執筆活動により、数々の名作文学を発表」

有島武郎を中国へ広めた 魯迅

有島武郎が執筆活動を行った期間はわずか10年ほどでしたが、年に3冊ほどのペースで作品を発表していったため、多くの小説が世に残っています。小説だけでなく、評論・童話・戯曲などにもその活動を広げていて、現代でも有島武郎の作品が映像化されるなど、その影響は計り知れません。

また、中国の小説家で「阿Q正伝」、「狂人日記」で知られる魯迅が有島武郎のことを中国で紹介して回ったことから、中国国内での地名度が非常に高くなっています。中国の教科書に、作品の一部が掲載されていることもあり、中国でもっとも有名な日本人小説家といっても過言ではありません。

功績3「キリスト教的人間愛を世に広めた 」

徐々にキリスト教の思想に苦しめられるようになった有島武郎

20歳の時に親友の森本厚吉とともにキリスト教に入信した有島武郎は後年、妻・安子との結婚生活において「霊か肉か」の二元論に苦しむことになります。その「霊か肉か」の二元的対立と矛盾に葛藤しつつも、キリスト教的人間愛が理想的であることを作品によって世に広めることになりました。

代表作「カインの末裔」にもキリスト教の影響が見られ、評論「惜しみなく愛は奪ふ」の中で触れられている多元から二元、二元から一元への思想的変遷の考え方も、「神と俗悪」ひいては「聖書と性欲」の対立から来たもので、ここにもキリスト教的人間愛の影響があると見られています。

有島武郎の名言

容易な道を選んではならぬ。近道を抜けてはならぬ。

何かを得るためには、いばらの道も抜けなければならない、近道ばかり選んでいるとそれ相応のものしか得られないという格言です。同じような意味の名言は他の偉人の言葉にも見受けられます。偉大なことを成し遂げる人々はそれに値するだけの大きな障壁を乗り越えてきているのでしょう。

僕は一生が大事だと思いますよ。来世があろうが、過去世があろうが、この一生が大事だと思いますよ。

今自分が生きている人生を全力で生きるべしということでしょうか。キリスト教においては来世の存在を仮定する考えもありますが、この言葉はどのような境遇の時に発せられたのか興味を掻き立てられます。時には現実逃避をしたいこともありますが、この言葉を胸に前向きに生きていきたいものです。

愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。

晩年に執筆した評論「惜しみなく愛は奪う」からきている名言です。評論の中では理想の愛を追求する反面、現実では到底それに及ばない自分を振り返り、葛藤するようになったというエピソードが有島武郎にはあります。その苦悩の中からでた言葉なのでしょう。

有島武郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「モテ男・有島武郎、初恋は外国人?」

有島武郎と噂された与謝野晶子 代表作は「君死にたまふ事なかれ」「みだれ髪」

有島武郎は頭が良い上に端正な顔立ちをしていたため、女性たちに非常にモテる男でした。そんな武郎の周囲には妻・安子が結核で亡くなった後、複数の女の影がまとわりつくようになります。噂された女性を以下に挙げて見ました。

  • 「君死にたまふ事なかれ」、「みだれ髪」で有名な歌人:与謝野晶子
  • 作家、婦人運動家、日本社会党議員:神近市子
  • 「満州新聞」記者、評論家:望月百合子
  • 鶴岡八幡宮近くの寿司屋の娘:御園千代子
  • 執筆活動で意気投合した作家:大橋房子
  • 元帝国劇場の女優:唐沢秀子

ざっと調べて見ただけでも6人の女性と浮名を流しています。このメンバーに情死事件で一緒に縊死を決行した波多野秋子が加わるのです。

日本社会党議員 神近市子も有島武郎と噂された1人

モテ男の有島武郎ですが、初恋の女性はなんと外国人だったのではないかというエピソードもあります。札幌農学校を卒業した後にハバフォード大学へと留学した有島武郎ですが、その時に友人となったアーサー・クローウェルの妹、フランセスに恋愛感情を抱いたのが最初の恋なのではないかという説があるのです。しかし、有島武郎はこの時すでに25歳であったため、それまでに誰にも恋心が芽生えていないことは考えにくいため、このエピソードの真偽のほどはわかりません。

都市伝説・武勇伝2「新渡戸稲造と懇意だった学生時代」

有島武郎の札幌農学校時代の恩師 新渡戸稲造

有島武郎は学習院中等科を卒業後、札幌農学校へと進学しますが、そこでは新渡戸稲造が教授を務めていました。さらに、武郎が横浜から北海道へ初めて赴く際に立ち寄ったのが新渡戸邸で、新渡戸から「好きな学科は何か」という質問を受けたというエピソードが残っています。

それに対し、武郎は「文学と歴史」と答えたため、「それではこの学校は見当違いだ」と新渡戸稲造は大声で笑ったという逸話が今でも語り継がれています。

都市伝説・武勇伝3「蛇が大の苦手」

有島武郎は蛇が大の苦手

有島武郎は蛇が苦手というのは有名な話で、札幌農学校へ進学する際も、わざわざ北海道へ行くのは蛇がほとんど出現しないからということが理由の一つでした。

一方で、情死相手の愛人・波多野秋子は蛇が大好きで、蛇が指の周りを取り巻くというデザインの指輪をはめていました。しかし、それを武郎が嫌がるために外していたようで、遺体発見の際の指には指輪がはめられていなかったそうです。

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