死因は縊死?一ヶ月もの間遺体が見つからなかった理由
有島武郎は軽井沢の浄月庵という場所で愛人・波多野秋子と情死を遂げるのでした。死因は縊死(首吊り)です。2人が情死を決行したのは1923年の6月9日でしたが、遺体が見つかったのはそれから一ヶ月後の7月7日でした。
一ヶ月も見つからなかった理由としては東京や北海道で活動をしていた武郎が、最後の地として長野県軽井沢を選んだからです。有島武郎と波多野秋子が失踪したことはすぐに周辺の人々に気づかれ、捜索願いも出されましたが、一向に見つからなかったのです。最終的には浄月庵の管理人が腐乱している2人の遺体を発見し、遺書が書かれていたために、有島と波多野の2人だということが分かったのでした。
有島武郎が遺した遺書の内容とは?
有島武郎は数通の遺書と辞世の歌をいくつか遺して首を吊りました。軽井沢にあった遺書の中には「愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思わなかった。」との記載が、自宅の書斎に遺されていた遺書の中には「世の中のわが恋ならばかくばかりおぞましき火に身はや焼くべき」、「雲に入るみさごのごとき一筋の恋とし知れば心は足りぬ」との歌が詠まれていました。
そのほかにも辞世の歌として「蝉ひとつ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな」や「幾年の命を人は遂げんとや思い入りたる喜びも見で」などが遺体のそばにあった紙に詠まれていたそうです。
有島武郎の功績
功績1「『白樺派』の中心的人物として活躍」
有島武郎は雑誌「白樺」が刊行された時は東北帝国大学農科大学で教鞭をとっていましたが、「白樺」の刊行とともに小説家としての道へ足を一歩踏み入れることになりました。そして、旺盛な創作活動を行い、武者小路実篤、志賀直哉らと一緒に雑誌「白樺」の中心的人物として作品を発表していくことになるのです。
有島武郎の「カインの末裔」、「或る女」は武者小路実篤の「友情」、志賀直哉の「和解」、「暗夜行路」と並んで、白樺から誕生した、日本を代表する名作小説となるのでした。
功績2「旺盛な執筆活動により、数々の名作文学を発表」
有島武郎が執筆活動を行った期間はわずか10年ほどでしたが、年に3冊ほどのペースで作品を発表していったため、多くの小説が世に残っています。小説だけでなく、評論・童話・戯曲などにもその活動を広げていて、現代でも有島武郎の作品が映像化されるなど、その影響は計り知れません。
また、中国の小説家で「阿Q正伝」、「狂人日記」で知られる魯迅が有島武郎のことを中国で紹介して回ったことから、中国国内での地名度が非常に高くなっています。中国の教科書に、作品の一部が掲載されていることもあり、中国でもっとも有名な日本人小説家といっても過言ではありません。
功績3「キリスト教的人間愛を世に広めた 」
20歳の時に親友の森本厚吉とともにキリスト教に入信した有島武郎は後年、妻・安子との結婚生活において「霊か肉か」の二元論に苦しむことになります。その「霊か肉か」の二元的対立と矛盾に葛藤しつつも、キリスト教的人間愛が理想的であることを作品によって世に広めることになりました。
代表作「カインの末裔」にもキリスト教の影響が見られ、評論「惜しみなく愛は奪ふ」の中で触れられている多元から二元、二元から一元への思想的変遷の考え方も、「神と俗悪」ひいては「聖書と性欲」の対立から来たもので、ここにもキリスト教的人間愛の影響があると見られています。
有島武郎の名言
容易な道を選んではならぬ。近道を抜けてはならぬ。
何かを得るためには、いばらの道も抜けなければならない、近道ばかり選んでいるとそれ相応のものしか得られないという格言です。同じような意味の名言は他の偉人の言葉にも見受けられます。偉大なことを成し遂げる人々はそれに値するだけの大きな障壁を乗り越えてきているのでしょう。
僕は一生が大事だと思いますよ。来世があろうが、過去世があろうが、この一生が大事だと思いますよ。
今自分が生きている人生を全力で生きるべしということでしょうか。キリスト教においては来世の存在を仮定する考えもありますが、この言葉はどのような境遇の時に発せられたのか興味を掻き立てられます。時には現実逃避をしたいこともありますが、この言葉を胸に前向きに生きていきたいものです。
愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。
晩年に執筆した評論「惜しみなく愛は奪う」からきている名言です。評論の中では理想の愛を追求する反面、現実では到底それに及ばない自分を振り返り、葛藤するようになったというエピソードが有島武郎にはあります。その苦悩の中からでた言葉なのでしょう。
有島武郎にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「モテ男・有島武郎、初恋は外国人?」
有島武郎は頭が良い上に端正な顔立ちをしていたため、女性たちに非常にモテる男でした。そんな武郎の周囲には妻・安子が結核で亡くなった後、複数の女の影がまとわりつくようになります。噂された女性を以下に挙げて見ました。
- 「君死にたまふ事なかれ」、「みだれ髪」で有名な歌人:与謝野晶子
- 作家、婦人運動家、日本社会党議員:神近市子
- 「満州新聞」記者、評論家:望月百合子
- 鶴岡八幡宮近くの寿司屋の娘:御園千代子
- 執筆活動で意気投合した作家:大橋房子
- 元帝国劇場の女優:唐沢秀子
ざっと調べて見ただけでも6人の女性と浮名を流しています。このメンバーに情死事件で一緒に縊死を決行した波多野秋子が加わるのです。
モテ男の有島武郎ですが、初恋の女性はなんと外国人だったのではないかというエピソードもあります。札幌農学校を卒業した後にハバフォード大学へと留学した有島武郎ですが、その時に友人となったアーサー・クローウェルの妹、フランセスに恋愛感情を抱いたのが最初の恋なのではないかという説があるのです。しかし、有島武郎はこの時すでに25歳であったため、それまでに誰にも恋心が芽生えていないことは考えにくいため、このエピソードの真偽のほどはわかりません。
都市伝説・武勇伝2「新渡戸稲造と懇意だった学生時代」
有島武郎は学習院中等科を卒業後、札幌農学校へと進学しますが、そこでは新渡戸稲造が教授を務めていました。さらに、武郎が横浜から北海道へ初めて赴く際に立ち寄ったのが新渡戸邸で、新渡戸から「好きな学科は何か」という質問を受けたというエピソードが残っています。
それに対し、武郎は「文学と歴史」と答えたため、「それではこの学校は見当違いだ」と新渡戸稲造は大声で笑ったという逸話が今でも語り継がれています。
都市伝説・武勇伝3「蛇が大の苦手」
有島武郎は蛇が苦手というのは有名な話で、札幌農学校へ進学する際も、わざわざ北海道へ行くのは蛇がほとんど出現しないからということが理由の一つでした。
一方で、情死相手の愛人・波多野秋子は蛇が大好きで、蛇が指の周りを取り巻くというデザインの指輪をはめていました。しかし、それを武郎が嫌がるために外していたようで、遺体発見の際の指には指輪がはめられていなかったそうです。
親友森本厚吉、若き日の恋人チルダのことが書かれていませんね。
> 藤田正一さん
コメントありがとうございます!
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今後とも宜しくお願い致します。