有島武郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作や家系、死因まで紹介】

1908年 – 30歳「東北帝国大学農科大学(旧・札幌農学校)の教授に就任」

英語講師として東北帝国大学農科大学へ

東北帝国大学農科大学

留学から帰国した武郎は自分が何をなすべきか、依然として悩んでいる状況でした。そのような中、1907年に札幌農学校が東北帝国大学農科大学となっており、親友の森本が予科教授として働いていました。その森本から英語講師としての口を嘱託してもらい、翌1908年の1月から母校で働くことになったのです。

6月には教授に昇進し、英語だけでなく、倫理講和も担当するようになりました。武郎の授業は自身の体験を交えて繰り広げられていたため、生徒たちにはとても新鮮に映ったようで、教室から人が溢れるほどの人気を博しました。

神尾安子との結婚

有島武郎と神尾安子

大学教授としての職を得た1908年、故郷へ戻り、結婚について家族と話し合うことになりました。お見合い候補者として何人かの女性が選ばれていましたが、お互いの事情が合わなかったり、武郎自身が気乗りしなかったりで話がまとまりませんでした。

その後、父の同僚から神尾安子(当時20歳)を紹介され、お互いの合意を得た後で、お見合いが催されることになったのです。意気投合した2人は結婚を決意し、1909年の3月に結婚式をあげることになりました。式は東京で催され、武郎と安子の2人はそのまま北二条の新居で暮らすことになります。

1910年 – 32歳「白樺派に所属することに」

安子との結婚生活に悩み、棄教

結婚生活に悩み、「霊と肉」の間で苦しんだ有島武郎 イメージ

武郎は結婚生活に理想を抱きすぎていたために、安子に過剰な期待をするようになりました。お互いに精神的向上を促しながら生活をともにしていくのが、武郎の望んでいた結婚の内容でしたが、現実には安子が11歳年下であり、年齢的にもまだ若すぎたために、武郎の望むような関係性を築くことができなかったのです。

そして、のちの武郎の文学の趣旨ともなる「霊か肉か」の問題にも悩まされるようになります。肉の楽しみを知った武郎はその性欲の強さに初めて気づいたのです。信仰をとるか、性欲をとるか悩んだ挙句に武郎が出した答えは棄教だったのでした。

棄教と時期を同じくして雑誌「白樺」の創刊

雑誌 白樺

ちょうど武郎が「霊か肉か」の狭間で揺れ動いているときに、武者小路実篤や志賀直哉が同人雑誌刊行の準備を進めていました。そして、武郎が棄教を決心する一月前に雑誌「白樺」が刊行されることになったのです。

この時の武郎の日記には「(白樺に)他人の子ならぬ我が子を見るの心地」を抱いたとの記載があり、雑誌「白樺」の刊行が武郎を小説家としての道にいざなうことになるのでした。そして、シェンケヴィッチの「西方古伝」の翻訳を第1作として「白樺」に発表しました。

1916年 – 38歳「旺盛な執筆活動のかたわらで、妻と父の死が訪れる」

のちに有島武郎の代表作となる「或る女」の前編を白樺に掲載

或る女 有島武郎 角川文庫

武郎は小説の道に進んでから、精力的に執筆活動を行っていきました。1911年にはのちに「或る女」の前編となる「或る女のグリンプス」を白樺に掲載し始めます。この物語は約3年に渡って、雑誌に連載されましたが、1914年にひとまず打ち切られてしまいました。

その後も小説「お末の死」、「幻想」、「迷路」、戯曲「サムソンとデリラ」、「洪水の前」などの作品を立て続けに発表していったのです。

妻・安子と父・武の死

遺言 イメージ

武郎が物書きになってから忙しくなった矢先に妻・安子が結核にかかったことが判明します。すぐに平塚に転地させ、療養に努めさせましたが、病状は改善しませんでした。「あとにお残りになるあなたと子供のために私は涙を惜しみません」との遺言を残し、1916年8月2日に28歳の若さで亡くなりました。

時を同じくして父・武が胃癌で病床に伏し、1916年の12月4日に75歳で帰らぬ人となるのでした。肉親2人の死をきっかけに小説家として生きていく覚悟ができた武郎は、その後も旺盛な執筆活動を継続していくのです。

1917年 – 39歳「代表作『カインの末裔』発表、「或る女」完成」

短編小説を多く手がけるように

有島武郎 カインの末裔 文学碑

これまでは「或る女」などの長編小説を主に制作してきた武郎でしたが、1917年には短編小説を多く手がけるようになりました。有島武郎の代表作である「カインの末裔」もこの時に誕生します。

自然とも人間とも調和できず、ただ生きなければならないという苦悩を抱えた農夫の姿を描いた「カインの末裔」は世間からの評判も良く、新潮社から継続的に出版させて欲しいとの依頼も受けるようになりました。そして、新潮社から有島武郎著作集を続々と刊行することになります。

「或る女」の完成

或る女

小説家として活動を開始した直後から執筆してきた「或る女のグリンプス」を1919年に完成させるべく、改稿と文章の追加に着手しました。そして、1919年3月に前編、6月に後編を発表し、小説「或る女」として完成させたのでした。

そして、この大作を書き上げた頃をピークに武郎の創作活動は下火となっていってしまいます。1920年のはじめに「惜しみなく愛は奪ふ」を発表すると、自分の理想とする愛と実行する愛との間にすれ違いを感じるようになり、執筆意欲の衰退が生じるようになったのです。

1923年 – 45歳「情死で生涯を閉じる」

愛人・波多野秋子とともに軽井沢にて縊死

波多野秋子

以前ほどの勢いはないにせよ、志賀直哉との共編を刊行するなど、少しずつ小説を発表していた武郎でしたが、1922年に最期の運命を握る女性と出会うことになります。武郎に取材に来た「婦人公論」の記者・波多野秋子です。

秋子は人妻でしたが、お互いに惹かれ合うようになり、恋愛感情が芽生えるようになりました。しかし、この事実が秋子の夫に知られ、脅迫を受けるようになり、武郎は精神的に追い詰められてしまうのです。思い余った武郎は1923年6月8日に新橋で秋子と落ち合い、そのまま軽井沢浄月庵へと向かい、翌日6月9日、情死を決行するのでした。

軽井沢 浄月庵 旧・有島武郎別荘

このニュースは7月7日に2人の遺体が発見されるまでは誰にもわかりませんでした。その後、自宅を捜索した際に発見された遺稿には「世の常のわが恋ならばかくばかりおぞましき火に身はや焼くべき」との歌が記されていたそうです。

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2 COMMENTS

京藤一葉

> 藤田正一さん
コメントありがとうございます!
編集部で精査し改善していきます。
今後とも宜しくお願い致します。

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