有島武郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作や家系、死因まで紹介】

有島武郎の年表

1878年 – 0歳「有島武郎の誕生」

東京市小石川にて有島武郎誕生

昔の東京の風景

1878年3月4日、有島武郎は東京市小石川区水道町にて誕生します。武郎の父・武は下級武士の出身で、明治維新後は大蔵省に出仕、官僚として働くエリートでした。そのような役職に就いていた父・武が37歳、母・幸子25歳の時に生まれたのが武郎で、5男2女の長子として育てられました。

烏帽子と陣羽織

また、武郎はおばあちゃん子であったため、実家と道ひとつ隔てて向かい側に住んでいた祖母・山内静に非常に懐いていたそうです。実際に武郎の記憶には祖母手製の烏帽子を被って、陣羽織をまとい、幼馴染と戦争ごっこをした自らの姿が鮮明に残っていました。

家族とともに横浜へ

現在の横浜 みなとみらい

武郎が4歳の時に父・武が横浜税関長に就任したため、家族一同横浜へ引っ越すことになります。有島武郎の代表作である「或る女」は横浜から外国行きの切符を買うところから物語がスタートしますが、その元となったのはこの時の経験なのでしょう。

1883年 – 5歳「外国語と武士道の英才教育を受ける」

英語を学ぶためにミッションスクールへ

横浜に滞在していた期間は5年ほどでしたが、その間、武郎は父の意向により英才教育を受けることになりました。これからは外国人を相手に仕事をする機会が増えると考えた父は武郎を外国人の家庭に住まわせ、さらにミッションスクールへ通わせるなど、徹底して英語を叩き込んだのです。

武士道 イメージ

その一方で、実家へ帰ると、儒教や武士道(論語・剣法・弓など)について厳しく教えられるという非常なスパルタ教育を強いられることになりました。

学習院予備科へ

武郎が9歳になると学習院の予備科へと通うことになりましたが、武郎は英語を主に学んでいたので、学習院の授業についていくためには追加で日本語の勉強が必要になってしまったのです。それほど武郎の英語教育は徹底して行われていました。のちに有島武郎の作品は翻訳作品のような趣があると評されたのも、この幼少期の教育が少なからず関係しているのではないでしょうか。

有島武郎が好んで読んでいた週刊少国民

武郎はこの頃から文学に興味を持ち始め、「少国民」や「少年文学」などの少年雑誌を好んで読んでいたそうです。また、武郎は学習院予備科において、真面目で礼儀正しく、規律もしっかりと守っていた優等生であったため、皇太子の学友に選ばれることにもなりました。

1896年 – 18歳「学習院中等科を卒業し、札幌農学校へ」

自由な空気を求めて札幌農学校へ進学

札幌農学校

この時代は中等科卒業後、高等科を経て、大学もしくは陸軍士官学校や海軍兵学校へ進学する道が一般的な進路でしたが、幼少期から漠然と農業に惹かれていた武郎は中等科卒業後に札幌農学校を進路として選びます。

そして、この時、札幌農学校では新渡戸稲造が教授を務めていたのです。武郎は横浜から北海道へ赴いた際に、始めに新渡戸家を訪問しています。そこで、新渡戸からの「好きな学科は何か」という質問に対し、武郎は「文学と歴史」と答えました。それに対し、新渡戸は「それではこの学校は見当違いだ」と言い、大声で笑ったというエピソードが残っています。

父からの農地のプレゼントがやがて重荷に

北海道の広大な農地

農学校に進んだからには将来は農業に従事するものと思われますが、まだこの時の武郎には明確な目標というものがありませんでした。そんな中、父・武が北海道に広大な土地(約100万坪)を購入し、武郎の将来の生活の基盤としてプレゼントしたのです。

武郎も土地を買ってもらった当初は大いに喜びましたが、農学校で農業者の実情を学んでいくにつれ、農業経営が簡単なものではないと悟った途端に、この広大なプレゼントが重荷となってしまうのでした。

1899年 – 21歳「キリスト教に入信」

親友・森本厚吉とともにキリスト教に入信

札幌農学校時代に武郎に起こった出来事として、忘れてはならないのがキリスト教への入信です。もともと、祖母から宗教心を持つことの素晴らしさを教えられていた武郎ですが、仏教の教えを抵抗なく受け入れることはできませんでした。

イエスキリスト

そのような状況の中、札幌農学校で出会った森本厚吉はキリスト教の信仰者であるにも関わらず、全身全霊の信仰を捧げることに苦悩を抱いていました。その姿にかつての自分の姿を重ねた武郎は、森本とともに神の真理に向かって進むことを決心したのです。キリスト教入信について父から猛反対を受けたという事実が記されている手紙も残っていますが、武郎は最終的には自らの意思を押し通し、キリスト教に入信することになりました。

1903年 – 25歳「農学校卒業後、ハバフォード大学へ留学」

1年間の軍隊生活を経験したのちに留学

ハバフォード大学

武郎は札幌農学校を卒業すると、そのまま1年間の軍隊生活に入りました。この期間中に将来の展望について考えた武郎は海外への留学を決意します。そして、25歳の時に、フィラデルフィアへと旅立ち、ハバフォード大学の門を叩くことになるのでした。この米国留学には親友の森本厚吉も同行しています。

ハバフォード大学院では英国史・中世史・経済学・ドイツ語などを学ぶことになりました。英語には自信のあった武郎でしたが、最初のうちはノートを取るのに苦労したとの感想を両親への手紙の中にしたためています。

留学2年目はハーバード大学へ

ハーバード大学

武郎はハバフォード大学での充実した日々を過ごしつつ、論文制作にも精を出しました。その甲斐もあり、留学1年目にして修士論文を書き終え、文学修士を授かることになったのです。もともと3年間の留学を念頭に置いていた武郎は2年目にはハーバード大学で研鑽を積むことにしました。

ハーバード大学ではヨーロッパ史・美術史・労働問題・宗教史について勉強しましたが、内容にあまり興味を持つことができず、暇を見ては図書館で自学自習する日々を過ごしました。そして、ハーバードに移籍して1年と経たないうちに大学を去ることにしたのです。

ワシントン議会図書館

ハーバードを去った武郎は、ニューハンプシャー州の農場で一定期間働き、その後ワシントンへと旅立ち、国会附属図書館でトルストイ、ツルゲーネフをはじめとする海外作家の作品を読み漁るようになりました。

1 2 3 4 5

2 COMMENTS

京藤一葉

> 藤田正一さん
コメントありがとうございます!
編集部で精査し改善していきます。
今後とも宜しくお願い致します。

返信する

コメントを残す