マタ・ハリとは、19世紀末から20世紀最初期の第一次世界大戦期を生きた女性です。公的な記録としてはダンサーやストリッパー、軍の将校などを相手にする高級娼婦として活動していた女性であり、当時のヨーロッパで一世を風靡した美貌の人だったことも記録されています。
しかし彼女が現代でも有名なのは、ダンサーとしての活躍によるものではありません。マタ・ハリはダンサーや高級娼婦として活動する傍ら、フランスやドイツなどのスパイとして暗躍。第一次世界大戦期における各国の甚大な被害の引き金となった、と言われる人物として有名です。
しかしその一方で、マタ・ハリ自身がスパイとして活動していたことを示す証拠はほとんど残っておらず、彼女が本当にスパイだったのかどうかすら、現在では怪しむ声も非常に多く見受けられている状況であり、その真相は未だに分かっていません。
ということでこの記事では、「マタ・ハリは本当にスパイだったのか」という部分はもとより、彼女自身の歩んだ人生をまとめていきたいと思います。
この記事を書いた人
マタ・ハリとはどんな人物か
名前 | マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ |
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芸名 | マタ・ハリ |
職業 | ダンサー、ストリッパー、高級娼婦、(スパイ?) |
誕生日 | 1876年8月7日 |
没日 | 1917年10月15日(享年41) |
生地 | オランダ、レーワルデン |
没地 | フランス共和国、ヴァンセンヌ、サンラザール刑務所 |
配偶者 | ルドルフ・ジョン・マクリード(1895年~1903年) |
子供 | ノーマン・ジョン・マクラウド(1897年~1899年)、ルイーズ・ジーン・マクラウド(1898年~1919年) |
埋葬場所 | 不明(遺体はパリの教育病院に寄付されたとされる) |
マタ・ハリの生涯をハイライト
マタ・ハリという人物の生涯は、転落から始まったと言ってもいいでしょう。彼女はオランダのレーワルデンの裕福な帽子屋の家に生まれ、何不自由のない生活を送る少女時代を過ごしました。父親は石油産業などの投資にも成功し、マタ・ハリは父からの溺愛を受けつつ高等教育を受けることができたと記録されています。
しかしそんな状況が一変したのは、彼女が13歳になった頃。父が石油株の投資に失敗し、借金を抱えることになったあげく破産。これにより両親は離婚し、一家は離散することになってしまいます。これが彼女の悲劇の人生の始まりでした。
一家離散の憂き目にあったマタ・ハリは、後見人を頼ってライデンに移住。そこで幼稚園教諭になるための勉強に励みますが、マタ・ハリに対する学長のセクハラに後見人が激怒し、彼女は学校を辞めさせられることになってしまいました。
その後叔父のいるデン・ハーグに逃れ、結婚相手募集広告に載っていたオランダ軍将校と結婚。結婚後は夫に従って東南アジア各地を転々とするも、元々愛のない結婚だったことや、夫の暴力癖や女癖の悪さによって夫婦仲はすぐに悪化。そこに息子の死が重なり、1902年に二人は離婚してしまいます。
こうして一人になってしまったマタ・ハリは、職を求めてパリに移住するも生活は困窮。しかし友人のパーティーの余興として披露した、見様見真似のジャワ舞踊がヒットし、彼女はダンサーとしてデビューすることになります。一役スターダムにのし上がった彼女は、この頃から「マタ・ハリ」という東洋系の芸名を名乗り始めたそうです。
しかし、そんな成功も長くは続きませんでした。暗号名「H-21」というスパイがマタ・ハリであるとしたスペインの暗号文書がフランスによって解読されたことで状況は一変。マタ・ハリは逮捕され、軍法会議によって死刑判決を受けることになってしまいました。
そして1917年10月15日。落ち着いた様子で刑場に現れたマタ・ハリは、木にくくられることと目隠しを拒絶し、銃口を正面に見据えたまま銃殺刑に処され、41歳でこの世を去ることになったのです。
マタ・ハリは何故スパイになったのか
生涯ハイライトを読んでいただいた時、おそらく大部分の方が疑問に思ったのはこの部分だと思います。しかし「マタ・ハリが何故スパイになったのか」という部分については非常に謎が多く、現在の通説としては「金のため」とするのが最も適当だと言われているほどです。
というのも、マタ・ハリが活躍した第一次世界大戦期は、当然ながらダンサーやストリッパーの仕事は激減し、一世を風靡したマタ・ハリの仕事も、それに比例して減少していたようです。そして彼女の名声と人脈に目を付けたドイツ軍によって、彼女は金銭と引き換えにスパイとしての活動を開始したとされています。
ヨーロッパ各国を巡るダンサーであり、軍官僚や政治家を相手にする高級娼婦としての人脈も持っていたマタ・ハリは、スパイとしてはうってつけの人材だったことに間違いはありません。「金のため」というスパイ活動の動機も、劇的でこそありませんが筋が通っている以上、彼女がスパイ活動に手を染めた理由としては十分だと言えるのではないでしょうか。
そもそもマタ・ハリは本当にスパイだったのか?
ヨーロッパ各地を巡業して公演を行う、売れっ子のダンサーだったマタ・ハリという女性。日本における歩き巫女や、旅芸人の一座などがスパイとして疑われがちなように、彼女もまた「疑わしいからこそスパイに仕立て上げられた人物」だという説があり、その説は現在も完全に否定されてはいません。
この説は基本的に「マタ・ハリの処刑は、フランス軍の陰謀である」として語られることが多い説でもあります。
というのも、当時の戦況においてフランスは圧倒的な窮地に立たされ、その咎で国民からの批判も厳しいものがありました。その批判をかわすため、フランス軍部は当時の戦況の悪化をスパイの――つまりマタ・ハリのせいにして、彼女に全ての責任を被せて処刑したのだというものです。
実際フランス軍の記録において、マタ・ハリが得たとされる情報は「とても有用なもの」と「全く役に立たないもの」に極端に二分されており、その「有用なもの」はフランスにとって不利な情報に集中しているという不自然さも確認されています。
そのため、マタ・ハリが本当にスパイだったのかという説には疑問が残るほか、スパイだったとしてもそこまで優秀な人物だったのか、という部分については、現在も様々な議論が存在しているようです。