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マタ・ハリとはどんな人?生涯・年表まとめ【スパイの逸話や伝説も紹介】

マタ・ハリの功績

功績1「ヨーロッパ全土を駆け巡ったその名声」

ヨーロッパ各地を巡り、その妖艶な踊りで観客を虜にしたことが、マタ・ハリという女性の最大の功績。

スパイとしてはさほどの活躍がないとされるマタ・ハリですが、彼女のダンサーとしての名声と実力は確かなものがあったと言われています。

妖艶なオリエンタル・スタイルの舞踊を披露しながら、衣服を一枚ずつ脱いでいく彼女のストリップダンスは、そういった性的な意味での魅力もさることながら、少なくとも性的魅力だけの踊りではなかったようです。

栄光の階段を着々と昇っていたマタ・ハリだが、第一次世界大戦という時勢によって破滅することとなった。

事実、当初は小さなショーパブやサロンでの仕事がほとんどだったマタ・ハリですが、彼女の名声はそう言った場所から徐々に広まっていき、最終的に彼女はイタリアオペラの最高峰と目されるスカラ座での公演を大成功に終わらせるという、一ダンサーとしては最高峰の功績を残しています。

もっともそのような名声が、結果的に彼女の首を絞める結果になったことは事実です。しかし「もしも第一次世界大戦が起こらなければ」と考えると、マタ・ハリのダンサーとしての名声がどこまで上り詰めたのか、想像してみるのも興味深いかと思います。

功績2「最期まで毅然と刑に臨んだ姿」

最期まで毅然とした態度で処刑に臨んだというマタ・ハリ

前のトピックでも軽く語らせていただいたように、処刑の直前に至るまで、その美貌を示すエピソードが残っているマタ・ハリという女性。しかし彼女の処刑時の記録には、彼女自身の心の強さを示すエピソードも残っています。

プッチーニのオペラ『トスカ』になぞらえた創作エピソードも数多く残るマタ・ハリの処刑

処刑当日、落ち着いた態度で処刑上に現れたマタ・ハリは、気つけとしてのラム酒のいっぱいを受け取りましたが、目隠しと木への拘束は拒否。つまり逃げようと思えば逃げられる状態にありながらも、彼女は毅然と正面から銃口を見つめ、そのままこの世を去ったというものです。

また、処刑の直前に銃を構えた兵士たちにキスを投げたというエピソードも残されており、マタ・ハリという人物の心根の強さが示されているといえるでしょう。

もっとも、これらのエピソードはプッチーニのオペラである『トスカ』に題材を得た創作であるとされることも多く、現在でも彼女の処刑については多くの謎が残っています。とはいえ、そのようなエピソードが囁かれる辺りにも、マタ・ハリという人物の特質が現れているのではないでしょうか。

マタ・ハリにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「謎に満ちたマタ・ハリのスパイ活動」

スパイとしての姿が有名なマタ・ハリだが、実は彼女がスパイだったという証拠はほとんどない。

マタ・ハリのスパイ活動はあまりにも証拠が少なく、前のトピックでも語った通り「本当はスパイではなかったのでは?」という説すらささやかれるほどです。

スパイというとイメージとして、尾行や盗聴、あるいは尋問や拷問と言ったイメージがありますが、マタ・ハリがそれらに関与した痕跡は一切見受けられず、記録によれば彼女のスパイ活動はすべてベッドの上で――つまり、ハニートラップとして行われていたといいます。

性的な関係性から情報を引き出すハニートラップは、古典的ながら抗いがたいものでもある。

政治家や軍官僚を相手にする高級娼婦でもあったマタ・ハリにとって、それらは確かにお手の物ではあったのかもしれません。しかし当たり前ではありますが、マタ・ハリがハニートラップによって情報を聞き出したという記録は存在しておらず、この事実もまた「マタ・ハリはスパイではなかったのでは?」という説の根拠に繋がっています。

そもそもマタ・ハリが本当にスパイ活動を行っていたとして、高級娼婦でありヨーロッパ各地を巡るダンサーでもある彼女に国家機密をホイホイ話すのは、ちょっと男の方に問題があるとしか…。

ともかく、そのような理由も手伝って、マタ・ハリが公的にスパイとして活動していた記録は非常に少なく、その痕跡もフランスに都合よく捻じ曲げられたものがほとんどとなっています。

都市伝説・武勇伝2「あらゆる男を惑わせた”ファム・ファタール”」

蠱惑的で妖艶なマタ・ハリは、「魔性の女」の代名詞として語られることも多い。

マタ・ハリという人物の生涯を辿ってみるに、彼女の人生は「男を翻弄し、また翻弄された人生」というようにも読み取れます。そのような人生から、彼女は時折「ファム・ファタール(魔性の女)」として評価されることもあるほどです。

その容貌の美しさについては個人の価値判断がありますので差し控えさせていただきますが、エピソードだけを見ても、

  • 学長からのセクハラに悩まされた少女期。
  • 夫との愛のない結婚に振り回された20代。
  • 多くの男性を虜にし、それ故にスパイとして疑われることになった。

と、短い人生のほとんどが異性や性が絡む事柄によって成り立っていて、しかもそれらによって人生そのものを翻弄されていることがわかります。

多くの男性から、多分に性的ではありますが好意を受け、そしてそれ故に破滅の道を辿ることになったマタ・ハリという女性の生涯。決して第三者視点で楽しんでいいものではありませんが、その人生が彼女自身の”美しさ”によって捻じ曲げられてしまったことは、恐らくほぼ確実であるように思われます。

都市伝説・武勇伝3「実はマタ・ハリは処刑される予定ではなかった?」

銃殺刑に処されたマタ・ハリだが、実は処刑される予定ではなかった…!?

「処刑の時、マタ・ハリが木に縛られることを拒否した」というエピソードから派生した風説ですが、実はマタ・ハリは処刑される予定ではなかったという説も、当時はまことしやかにささやかれていました。

この風説の筋書きはこうです。マタ・ハリを助けようと、彼女に本気で惚れてしまったピエール・ド・モリサックという青年が一計を案じ、銃殺隊に賄賂を渡して中に空砲が込められるように細工をしました。しかし銃殺隊のミスで銃には弾丸が詰め込まれてしまい、あえなくモリサックの目論見は失敗。マタ・ハリはあえなく処刑されてしまったのです。

支援者から処刑を免れる方法を教えられても、マタ・ハリはそれを拒絶したのだとか。

また、死刑が決まったマタ・ハリに対し、支援者が「妊娠していると主張すれば処刑を免れることができる」と勧めたという噂話も残されています。この噂においてマタ・ハリは、妊娠を主張することを拒否し、自ら処刑されたということになっています。

ともかく、スパイ活動の実態はおろかその処刑についてすら多くの謎が残るマタ・ハリ。歴史的にはかなり近代の人物ではありますが、だからこそ不自然なまでに少ない記録は、多くの噂話を呼ぶことに繋がっているのでしょう。

マタ・ハリの生涯年表

1876年 – 0歳「レーワルデンの名士の家に生まれる」

マタ・ハリの生まれ故郷、レーワルデンの現在の姿

不自由のない少女時代を送る

1876年8月7日、後にマタ・ハリという芸名で一世を風靡することになる少女、マルガレータがオランダのレーワルデンに誕生しました。

4人兄弟の長女として生まれた彼女でしたが、当時のマルガレータの家は投資事業の成功や、経営していた帽子店の売り上げの好調によって非常に裕福であったと伝わっています。また、4人兄弟の中でも唯一の女子だったことで、父からは溺愛のような愛情を受けていたことも記録されており、彼女は何不自由のない暮らしと高水準な教育を受ける少女時代を過ごしました。

1889年 – 13歳「父の破産と一家離散」

父の破産により、マタ・ハリは不自由のない暮らしと家族を失うことになる。

急転直下の一家離散

何不自由のない暮らしを送ってきたマルガレータでしたが、この年に状況は一変します。父が石油事業への投資を失敗し、借金を背負ってしまったのです。

これにより帽子店の経営も傾いていき、借金は返せる見込みもつかないほどに膨れ上がっていく始末。これによって1889年に父が破産してしまったことで、両親は離婚。兄弟たちはそれぞれ別の親類や後見人に引き取られ、幸せだった一家は李さんの憂き目にあうこととなってしまったのです。

追い打ちをかける母の死

一家の離散から2年後の1991年、マルガレータの実母であるアンテェ・ファン・デル・ムーレンも還らぬ人となってしまいました。

その死因は分かっていませんが、一家の離散や破産などの心労が彼女を蝕んでいたことは、状況的に確実だと言えそうです。こうしてマルガレータは15歳という若さで家族と引き離され、ほとんど一人で生きていくことを余儀なくされてしまいました。

1890年頃 – 14歳~18歳頃「幼稚園教諭を目指すが…」

幼稚園教諭を目指したマタ・ハリだが、彼女の美貌がその夢の妨げになってしまった。

夢の足を引っ張る美貌

家族と引き離されたマルガレータは、後見人であるヘール・ヴィッサー(Heer Visser)を頼ってライデンに移住。そこで経済的に自立するため、彼女は幼稚園教諭になるために学校に通い始めました。

腐ることなく真面目に勉強に励む彼女でしたが、彼女が持ち合わせていた美貌が、その夢の足を引っ張ることになります。学校の学長が、露骨に彼女にセクハラを仕掛けてくるようになったのです。

それでも真面目に勉強を続け、自立を目指したマルガレータでしたが、その事実に嫌悪感を示した後見人によって、なんと彼女は学校を辞めさせられてしまうのです。これによってライデンでの自立の手段を失ったマルガレータは、学校を退学後すぐに、叔父を頼ってデン・ハーグへ移住することになりました。

1895年 – 19歳「オランダ軍将校との結婚」

二倍以上年上の夫と結婚するが、その生活に愛はなかった。

愛のない、しかし安定した結婚生活

デン・ハーグへ移住したマルガレータは、新聞に掲載されていた結婚相手募集の広告に応募し、オランダ軍の将校、ルドルフ・ジョン・マクリード大尉と結婚しました。

マクリードはマルガレータよりも21歳年上の40歳であり、暴力癖や女癖の悪さなどから、あまり好人物とは言えない人物だったようです。事実、マクリードのそういった側面や価値観の不一致などから、結婚して早々に夫婦関係は冷え切ってしまったことが記録されています。

ジャワ島を訪れたことが、後の彼女の生活を支えることとなる。

しかしマルガレータは、マクリードの仕事に付き添う形で、この時期にはボルネオ島、スマトラ島、ジャワ島などの東南アジアを訪れることになり、ここで東南アジアを訪れていたことが、彼女が後に「マタ・ハリ」となる原風景となりました。

また、1897年と1898年には二人の子供を出産しており、完全に幸福とはいかないまでも、多少なりと落ち着いた生活の安定を、彼女は手に入れつつありました。

1902年 – 26歳「離婚により再び孤独へ」

長男を失った末の離婚。再び彼女は一人で生きていくことを迫られる。

長男の死と離婚

しかし、マタ・ハリの結婚生活は長くは続きませんでした。元々愛のない冷え切った結婚生活ではありましたが、その関係性の断絶が決定的になったのは1889年。事故で息子であるノーマンを失ったことが決定的な事件となりました。

どちらの責任というわけでもない”事故”でしたが、これにより二人の夫婦仲は急速に悪化。そしてその3年後である1902年、とうとう二人は離婚することになってしまいます。

一人残った子供であるルイーズの親権は夫の方に引き取られてしまい、マタ・ハリはまたも安定した生活と家族を失い、失意のままにオランダへと帰国することになってしまったのです。

1903年~1904年 – 27歳~28歳「パリに出るも困窮する生活を送る」

パリに出て仕事を探すが、その生活は次第に困窮していった。

パリに出るが貧しい暮らしを余儀なくされる

オランダからフランスのパリへ渡ったマルガレータですが、そこにも彼女が付くことのできる仕事は少なく、その生活は徐々に困窮していくことになりました。

友人のパーティにて一筋の光明を見出す

かつてジャワ島で見た舞踊が、彼女の人生を大きく変えることになる。

困窮していくマルガレータの生活でしたが、そんな彼女に一筋の光明が見出されました。友人が主催したパーティの余興として披露した、見様見真似のジャワ舞踊が非常に高く評価されたのです。

マルガレータ自身はそれを仕事にすることを考えてはいなかったようですが、そんな彼女に持ちかけられた「ダンサーとしてデビューしないか?」という誘いが、彼女の運命を良くも悪くも大きく変える出来事となるのでした。

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