1895年 – 19歳「オランダ軍将校との結婚」
愛のない、しかし安定した結婚生活
デン・ハーグへ移住したマルガレータは、新聞に掲載されていた結婚相手募集の広告に応募し、オランダ軍の将校、ルドルフ・ジョン・マクリード大尉と結婚しました。
マクリードはマルガレータよりも21歳年上の40歳であり、暴力癖や女癖の悪さなどから、あまり好人物とは言えない人物だったようです。事実、マクリードのそういった側面や価値観の不一致などから、結婚して早々に夫婦関係は冷え切ってしまったことが記録されています。
しかしマルガレータは、マクリードの仕事に付き添う形で、この時期にはボルネオ島、スマトラ島、ジャワ島などの東南アジアを訪れることになり、ここで東南アジアを訪れていたことが、彼女が後に「マタ・ハリ」となる原風景となりました。
また、1897年と1898年には二人の子供を出産しており、完全に幸福とはいかないまでも、多少なりと落ち着いた生活の安定を、彼女は手に入れつつありました。
1902年 – 26歳「離婚により再び孤独へ」
長男の死と離婚
しかし、マタ・ハリの結婚生活は長くは続きませんでした。元々愛のない冷え切った結婚生活ではありましたが、その関係性の断絶が決定的になったのは1889年。事故で息子であるノーマンを失ったことが決定的な事件となりました。
どちらの責任というわけでもない”事故”でしたが、これにより二人の夫婦仲は急速に悪化。そしてその3年後である1902年、とうとう二人は離婚することになってしまいます。
一人残った子供であるルイーズの親権は夫の方に引き取られてしまい、マタ・ハリはまたも安定した生活と家族を失い、失意のままにオランダへと帰国することになってしまったのです。
1903年~1904年 – 27歳~28歳「パリに出るも困窮する生活を送る」
パリに出るが貧しい暮らしを余儀なくされる
オランダからフランスのパリへ渡ったマルガレータですが、そこにも彼女が付くことのできる仕事は少なく、その生活は徐々に困窮していくことになりました。
友人のパーティにて一筋の光明を見出す
困窮していくマルガレータの生活でしたが、そんな彼女に一筋の光明が見出されました。友人が主催したパーティの余興として披露した、見様見真似のジャワ舞踊が非常に高く評価されたのです。
マルガレータ自身はそれを仕事にすることを考えてはいなかったようですが、そんな彼女に持ちかけられた「ダンサーとしてデビューしないか?」という誘いが、彼女の運命を良くも悪くも大きく変える出来事となるのでした。
1905年 – 29歳「「マタ・ハリ」としてデビューを果たす」
「マタ・ハリ」としてステージにデビュー
友人のパーティーで披露したジャワ舞踊や、彼女自身のエキゾチックな美貌が買われ、彼女はこの年にダンサー「マタ・ハリ」としてステージデビューを果たすことになりました。
彼女自身に東洋系の血は流れていませんでしたが、売り出し戦略としてのキャッチコピーには「インドネシア・ジャワ島からやって来た王女」「インド寺院の踊り巫女」という言葉が使われ、そんな彼女のオリエンタル・スタイルの舞踊は、一躍人々の話題の中心となりました。
彼女のダンスは、宝石のあしらわれたブラジャーと腰布、ヴェールを纏ったマタ・ハリが、妖艶に踊りながら服を一枚ずつ脱いでいくというエロティックなもので、そのような所でも人々を虜にしたのだと言われています。
妖艶な踊りでヨーロッパを虜にしていく
デビュー当初こそ、小さなショーパブやサロンで踊りを披露することが多かった彼女ですが、その踊りと美貌は瞬く間に人々の話題の中心となり、それに比例して彼女はスターダムにのし上がっていくことになりました。
パリのオランダ劇場での公演を成功させたことを皮切りに、彼女の名声は国境を越えてヨーロッパ全土を渡りました。イタリアオペラの最高峰であるミラノのスカラ座での公演を行ったことも記録されており、彼女の人生においてこの時期が、最も健全で充実した時期だったのではないでしょうか。
しかし、この時にマタ・ハリはダンサーであると同時に高級娼婦としても働き始めています。各国の政治家や軍官僚とベッドを共にし、様々な人脈を作ってしまったこと。それが後に彼女の首を絞めることは、誰も気づくことができませんでした。