産業革命とは?影響や年表をわかりやすく解説【第1〜4次まで】

第一次産業革命

産業革命の大まかな流れが理解できたところで、まずは「第一次産業革命」から詳しくみていきましょう。

第一次産業革命をわかりやすく解説すると…

工場労働者たち

第一次産業革命とは、18世紀のイギリスで始まった機械化による軽工業の発達と蒸気や石炭を動力源とした工業の機械化による社会変化が起きた時期をいいます。

産業革命のきっかけとなったのは、綿織物(めんおりもの)の生産です。綿織物とはコットンとも呼ばれる綿を使った織物であり、17世紀頃からイギリスの植民地であるインドから輸入していました。

生地が軽く着心地が良いことから、イギリス国内のみならず温暖な気候の国々への輸入品として注目されます。しかし、羊毛を使った毛織物業の不況を心配した人々により、インド産の綿織物の輸入は禁止されてしまいました。

綿花(コットン)

そこで、イギリスはインドから原料である綿花だけを手に入れてイギリス国内で綿織物を生産することにしたのです。国内で綿織物を効率よく生産するために、飛び杼や紡績機などの様々な技術改革が起きました。産業革命の始まりです。

18世紀後半には、18世紀初めに発明された蒸気機関を改良した機械化が進み、綿織物の工業生産が著しく向上しました。更に、強制的にインドへの綿織物の輸出も始めたため、商業的にも発展を遂げます。

そして、19世紀では新たな技術改革として蒸気機関車が開発されました。これにより鉄道の普及が始まり、イギリスの街並みは急速に都市化していきます。産業が人の手から機械の手に移り、社会の都市化が進む。ここまでが第一次産業革命となります。

イギリスから始まった理由

かつては大英帝国といわれたイギリス

産業革命がイギリスから始まりました。その理由には、次の3つが挙げられます。これらは産業革命の始まりに不可欠な条件であり、産業革命の背景を知るヒントなることは間違いないでしょう。

理由1:植民地

理由の一つとして、まず挙げられるのは「植民地」です。植民地の有無が産業革命の誕生を左右したと言っても過言ではありません。17世紀から18世紀にかけて、イギリスはインドやアメリカ、カナダ、カリブ海諸島などの海外領土を獲得し、植民地としていました。

植民地の存在は産業革命に大きな影響をもたらしました。植民地は「他国」ではなく自国の支配下にある「領土」です。そのため、貿易においても自国の有利に働くようにコントロールできました。

イギリス東インド会社

まずは、産業革命のきっかけと言える綿織物の生産です。それまでは植民地のインドから綿織物を輸入していましたが、国内での生産を可能にするために原料の綿花のみを輸入するようになります。後に、綿花の栽培はインドだけではなく、他の植民地であるアメリカでも行われるようになりました。

そして、産業革命が本格化して大量の綿織物の生産が可能になると、今度はインドへ綿織物を強制的に輸出し始めます。その結果、インドの綿織物業界は大打撃を受けました。このような勝手な貿易、植民地ではない他国に対しては絶対できませんよね。

イギリスは植民地を使って、工業生産に必要な原料の調達から輸出までの全てを行なっていました。つまり、イギリスは植民地という名の産業革命に欠かせない「市場」を既に多数所有していたことになります。これが、イギリスから産業革命が始まった理由の一つです。

理由2:社会環境

冬を越えるための大切な家畜の餌であるカブ

次に挙げられる理由としては、産業革命に必要な「社会環境」が整っていたことです。産業革命の都市化による人口増加に対応できる食糧の供給や賃金労働の基盤、労働者の確保などがイギリスには揃っていました。一つひとつ、見ていきましょう。

まず、食糧の供給は農業の発展によって成立しました。17世紀後半から18世紀にかけて、農村では作物の生産性を高めるために耕地を区切る「囲い込み」や新たな農具「種播き機」などを使用し始めます。

また、カブなどの家畜用作物を育てる「ノーフォーク農法」によって家畜の越冬が可能となり、市場に出回る食肉の量が増加しました。その結果、イギリス国内に食糧事情は豊かになり、産業革命の人口増加による食糧生産にも十分対応できたのです。

また、一部の農村において賃金労働者を集めた「工業制手工業」という制度もあり、産業革命による工業労働者の雇用の基盤もすでに成立していました。そして、産業革命に最も重要な労働力に関しても、17世紀から続く奴隷貿易やアイルランド労働者によって十分だったのです。

工場で働く女性たち

こうしてイギリスの植民地ではアフリカからの奴隷たちが働き、イギリス国内の工場ではアイルランド労働者や労働者階級の人々が働く、という構図が出来上がります。更に、アフリカとの貿易が増えたことによって輸出品である綿織物の生産も盛んになりました。

他にも産業革命による経済発展や消費者などに対応できる金融機関や議会制度もあり、産業革命には最適な社会環境ができていたのです。これも、イギリスから産業革命が始まった理由として大きなものでしょう。

理由3:豊富な資本

「豊富な資本」があったことも、イギリスから産業革命が始まった理由の一つです。これには、理由1で紹介した「植民地」の存在が深く関わっています。18世紀イギリスでは、植民地であるアメリカ大陸を交えて「三角貿易」を行っていました。

三角貿易とはイギリスを含むヨーロッパとアフリカ、カリブ海を含むアメリカとの間で行われていた貿易のことです。ヨーロッパからアフリカへは武器を輸出し、アフリカからはヨーロッパへ奴隷を差し出しました。

強制的に船へと連れていかれるアフリカの人々

そして、ヨーロッパの国々は奴隷たちを連れてアメリカ大陸へ行き、奴隷を砂糖や綿花、タバコと交換します。こうして、三大陸によって人を品物とする貿易が200年以上も続いていたのです。アフリカの奴隷たちは輸出品となる砂糖など農園で働かされました。

悲しいことに、この三角貿易での利益が産業革命の資本になります。奴隷貿易自体は古代から存在していますが、この大西洋で行われた三角貿易による奴隷の扱いはとても非人道的でした。奴隷を積荷として、船を軽くするために海に投げ落とすこともあったそうです。

毛織物の原料となる羊毛を提供してくれる羊

もちろん、産業革命の豊富な資本は奴隷を使った三角貿易だけではありません。綿織物業の前に主流であった毛織物業も新たな機具が発明されるなどして、生産性を高めていました。産業革命の資本にはこの毛織物業による資本もあります。

イギリスでは奴隷貿易は1833年に禁止されましたが、その間に大勢の尊い命が奪われました。イギリスから産業革命が始まった理由の一つとして、単なる「豊富な資本」ではなく、こうした悲劇も含まれていることを忘れないようにしましょう。

第一次産業革命の3大要素

1:技術の革新

第一次産業革命を確立させた三大要素の一つとして、技術の革新があります。18世紀頃からイギリスを中心に紡績業や蒸気機関など、様々な技術の革新が実現しました。それらの一つひとつが産業の改革に役立ち、社会の仕組みを変えるものとなったのです。

第一次産業革命の最も大きな技術革新の一つが、紡績機の開発。産業革命のきっかけである綿織物の生産に関する技術になります。自動織機である飛び杼が開発されてから、綿織物に使う糸の量産が必要不可欠になりました。

力織機

そのため、綿花から糸を紡ぐ紡績機の開発が活発になったのです。同時に複数の糸を紡ぐことができるジェニー紡績機や糸の大量生産を可能にした水力紡績機が開発されました。その後、蒸気機関を改良した力織機も開発され、綿織物の生産性は飛躍的に成長します。

他にも注目すべき技術革新があります。多数の部品を正確に動かす技術である時計産業です。時計の仕組みは非常に高度な技術を要するため、時計の制作技術が向上したおかげで、機械の製作技術がより高度に応用されるようになります。

こうした数々の技術革新によって、あらゆる分野の産業が機械化していきました。それに伴い、イギリスの街には次々と工場が建てられ、急速な都市化が進んでいったのです。

2:製鉄業

紡績機と並んで新技術の開発に躍起になった産業が、製鉄業です。以前は木材を原料とした製鉄業が主流でしたが、純度が低く脆いという問題点がありました。しかし、産業革命によって発展した技術を使用するには純度が高く丈夫な鋼鉄が必要です。

そこで登場したのが、石炭を用いた製鉄技術。17世紀から挑戦はされてきましたが、石炭に含まれる硫黄が鉄を脆くしてしまうため失敗していました。しかし、18世紀にダービー一族が製鉄技術へ従事し始めて、この製鉄技術は飛躍的な変化を遂げました。

ダービーの高炉

彼らはコークスという石炭を蒸し焼きにしたものを使い、丈夫な鉄を作る技術を開発したのです。この製鉄技術は数十年にわたって改良を加えられ、イギリス国内に広まっていきました。

後に、ルツボ製鋼法や高炉用送風機の改良、製鉄時に鉄を攪拌する攪拌精錬法の発明によって純度の高い丈夫な鋼鉄が大量生産できるようになります。ちなみに、送風機の改良には蒸気機関を使用しました。

機械化や工業化が進むにつれて欠かせない存在となった、製鉄業。そんな製鉄業の盛況とともに、運河の建設も盛んに行われるようになります。産業に必要な物資である石炭や鉄鉱、食糧などを大量かつ安く輸送できる運河は鉄道ができるまで大切な輸送手段となりました。

鉄道が開発され普及した19世紀になると、さらに鉄の需要は増加します。工業化や機械化が急速に進んだ第一次産業革命にとって、鉄を作る製鉄業は欠かせない存在だったのです。

3:蒸気機関の発明

移動可能な可搬式蒸気機関

技術の革新や製鉄業も産業革命の要素として非常に重要なものですが、その両方に共通している発明があります。蒸気機関の発明です。産業革命と聞いて蒸気機関車を思い浮かべる人も少なくないでしょう。それほど、世界的に有名な発明です。

蒸気機関は、水蒸気によって発生した熱エネルギーを回転運動に転換させる機関です。18世紀初頭にイギリスの技術者であるニューコメンによって発明されました。最初は炭坑にて石炭を掘り出す際に溜まる地下水を汲み出すために、排水用ポンプに用いられます。

その後、イギリスの発明家ワットが蒸気機関から熱交換器の一つである復水器を独立させ、革命的な動力源となりました。ワットはその後も改良を施し、蒸気機関はより多くの機械へと応用・実用化されます。

ジェームズ・ワット

船や汽車に用いられ、蒸気船や蒸気機関車が発明されていきました。燃料として石炭が使われたため、製鉄業が盛んになるきっかけとなります。また、新しい動力源となったため、蒸気機関を用いた工業への技術革新も活発になりました。

技術の革新、製鉄業、蒸気機関の発明による産業の拡大は第二次産業革命まで続き、その後第三次産業革命で電力に取って変わられるまで世界を動かしていたのです。

第一次産業革命の影響

第一次産業革命は最初の産業革命の時期ということもあり、社会や人々へ大きな影響を及ぼしました。第一次産業革命の中心となったイギリスは他国よりも多くの影響を受けましたが、実は現在の私たちにも影響を及ぼすものもあります。それでは、見ていきましょう!

イギリスは「世界の工場」へ

第一次産業革命の中心であるイギリスは、一気に世界の産業市場へ躍り出ます。産業革命によって、19世紀においてイギリスは世界から原料を輸入し、製品を世界中に輸出する「世界の工場」と呼ばれるようになったのです。

ストックトン・ダーリントン鉄道

技術革新が進み、機械化だけでなく機械を作る機械工業も発達しました。機械部品の加工技術が進歩し、機械の精度が上がったのです。蒸気機関の発明によって鉄道が普及すると、19世紀イギリスではあちらこちらで鉄道のレールが引かれるようになります。

蒸気機関車が走る姿が19世紀イギリスの当たり前の風景になっていたのです。他にも印刷機の開発により、出版業界がより盛況を見せ、ガス灯が発明されてイギリスの街は夜でも明るくなりました。

こうして、イギリス中で工場が稼働し、人々の生活はのんびりとした農村での生活から都市部での忙しい生活へと移り変わります。そして、「世界の工場」である様子が見て取れるようになったイギリスでそれを記念するような出来事が起きました。ロンドン大博覧会です。

木まで中に入るほど広い内観の水晶宮

これは、19世紀のイギリス女王であるヴィクトリア女王の夫アルバート公によって指揮され、開催。水晶宮とよばれるガラス張りの展示場は26エーカー(約11万平方メートル)もあり、出品数は10万品目もありました。

開催当日には3万人もの人々が来場したと言います。展示品にはイギリスが「世界の工場」であることを示すように、最先端の機械や機械仕掛けの玩具がありました。

第二次産業革命になると、イギリスの勢いは弱まっていきます。しかし、このロンドン大博覧会の時は間違いなくイギリスが「世界の工場」であることを各国にみせつけたのです。

資本主義社会への転換

第一次産業革命では、機械化によって社会の様子が様変わりします。しかし、具体的な社会の仕組みもそれまでとは全く異なるものとなりました。資本主義社会への転換です。

当時の労働者たちは1日10時間以上働いていた

資本主義社会とは、商品を生産する人々と労働してその商品を等価で交換する社会のことを指します。簡単にいえば、資本家(雇用主)と労働者がいる社会です。労働者が一定時間働くことで資本家から賃金を得る仕組みで成り立っています。

産業革命によって工場が次々と建てられ、資本家と労働者が急激に増えた結果、それまでは少し曖昧だった階級の立場がはっきりとして資本主義社会を確立させたのです。

貿易の拡大

第一次産業革命の影響として、最後に挙げるのは貿易の拡大です。資本主義が拡大していく中で、それまでの輸出入を管理する重商主義貿易では貿易しにくいという産業資本家が出てきました。そのため、19世紀半ばに向かうにつれて、貿易体制に変化が訪れます。

貿易統制を最小限なものとする自由主義貿易へと変わっていったのです。それにより、イギリスを中心として貿易は世界的に拡大していきました。

第一次産業革命の問題点

ロンドンのスラム街

数々の発展を成し遂げてきた第一次産業革命。そんな革命にも、問題点がありました。一つひとつ、見ていきましょう。

まずは、急激な都市化による人口増加です。産業革命によって、工場を経営する経営者と工場で働く労働者が生まれました。その結果、労働者は工場がある都市部に集中し、イギリスは一気に都市化の道を辿ります。

産業革命がイギリスから始まった理由の章でも紹介しましたが、農業の改革により食糧事情は改善していました。しかし、いくら食糧があっても、急激に都市化した場所に生活する基盤や整備がなければ意味がありません。

児童労働に加えて監督者による虐待も存在した

人口増加によって、都市部には貧困層が密集して暮らすスラム街が出来ていきました。スラム街はコレラなどの病が流行するなど不衛生であり、犯罪も多く起こる場所となります。また、賃金労働者となった人々には、厳しい労働問題もぶつかることになったのです。

工業化する以前は、日が昇れば起きて農作業や手仕事をして、日が暮れる頃に自宅に帰り休む日々でした。しかし、産業革命により賃金労働が主流になると労働時間というものが発生します。決まった始業時間に起きて働き、決まった休憩時間に休んで、年中決められた時間内は働かなくてはいけません。

現在の時計に合わせた生活リズムは、この第一次産業革命の頃から来たものでしょう。しかし、現在とは違い、当時は人間に適した労働時間や休憩時間が分かっていませんでした。

炭坑で働く子ども

その上、機械化になり大した技術力も必要なくなったために、労働環境が悪質化します。低賃金で雇える若い女性や子どもは長時間労働をさせられました。児童労働が公然と行われ、子どもたちは大人には難しい場所にも入れるという理由から紡績工場や鉱山で働いていました。

1833年の工場法によって、9歳未満の就労と18歳以下の子どもたちの夜間労働は禁止されます。他にも、ロバート・オーウェンという工場経営者は過酷な労働条件に心を痛め、改善に奮闘しました。

ロバート・オーウェン

彼は、自身の工場の労働時間を10時間として、労働者たちには清潔なアパートを提供。上記の工場法よりも歳を引き上げて、10歳以下の子どもの労働は禁止しました。その代わり、学校を建てて施設内で勉強を行ったのです。

しかし、オーウェンのような道徳的な経営者はほんの一握りでした。後に、この労働問題は労働者たちの社会運動につながるものとなります。このように、第一次産業革命は、輝かしい発展の裏側に過酷で厳しい一面が隠されていたのです。

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