種田山頭火とは?生涯・人生まとめ【代表作品・俳句や名言、句集も紹介】

種田山頭火の生涯年表

1882年 – 0歳「種田山頭火の誕生」

山口県で種田山頭火誕生

山口県佐波郡西佐波令村(山口県防府市)の現在の風景

1882年12月3日、山口県佐波郡西佐波令村にて種田山頭火が誕生しました。父は大地主の種田竹治郎27歳、母はフサ23歳で、2人の間に長男として生まれ、正一と名付けられます。正一の後に妹1人、弟2人が生まれ、4人兄弟として育てられました。

実家は屈指の大地主であったため、ほとんど不自由のない幼少期を送ることになりました。しかし、山頭火(正一)が9歳の時に母・フサが自宅の井戸に身を投げて自殺してしまったのです。自殺の理由は不明でしたが、原因の一つとして、竹治郎の激しい女遊びが挙げられるのではないかと噂されました。

高等小学校、中学校、尋常中学校を順当に修める

昔の通知表 イメージ

1889年に佐波村立松崎尋常高等小学校へ入学し、60人中15位の成績で卒業、その後は私立周陽学舎へと進学し、首席で卒業を果たしました。周陽学舎卒業後は山口尋常中学校の4年級に編入し、151人中22位の成績で卒業となりました。

山頭火はこの学生の頃から俳句に興味を持っており、地元の句会に顔を出したり、友人と判子を作って俳句の真似事などをやっていたというエピソードも残っています。また、度の強い近眼鏡をかけ、赤い顔をしていたため、「オコゼ」というあだ名をつけられていました。

1902年 – 20歳「早稲田大学へ入学するも、神経衰弱を患い、一年で退学」

早稲田大学へ入学

早稲田大学

山頭火は尋常中学校卒業後、東京専門学校高等予科(早稲田大学の高等予科)に進学し、そのまま早稲田大学へ特別試験によって入学することになりました。早稲田大学は当時、創立されたばかりだったので、山頭火は大学の一期生ということになります。この時には創立者の大隈重信とも記念写真を撮りました。

実際の講義で山頭火は坪内逍遥に英語や文学について学んだとの記録が残っていますが、1904年2月には、神経衰弱のために早稲田大学を退学してしまったのです。ひとまず東京に留まりましたが、回復のめどが立たなかったため、そのまま実家のある防府へと帰りました。

実家では父・竹治郎が社会的信用を失っており、危機的な経済状況に

種田酒造場跡地

1904年7月に実家へと帰還した山頭火でしたが、実家の経済状況は厳しくなっており、屋敷の一部を売り払わないと間に合わないという状態になっていました。その一方で、父・竹治郎は山頭火が帰ってきたのをちょうど良い機会と考え、吉敷郡大道村の酒造場を買い取り、1905年に種田酒造場を開業したのです。

さらにその翌年には古くから伝わる家屋敷を完全に売り払い、家族一同、酒造場へと移り住むことになりました。家屋敷を売り払った理由としては、酒造場の経営がうまくいかずに資金が必要だったためではないかとされています。

1909年 – 27歳「佐藤サキノとの結婚」

見合い結婚で家庭を作り、酒造場の経営も任されることに

妻となった佐藤サキノ のちに離婚することに

1909年8月20日、山頭火は佐藤サキノという女性と結婚することになります。地方における素封家(金持ち)の仕切り通りのお見合い結婚でした。この結婚と同時に、父・竹治郎から種田酒造場の経営を任せられることになりましたが、山頭火自身、酒造についての知識も乏しく、元々経営状況も厳しいものだったので、大した収入を得ることはできませんでした。

1910年には長男・健が誕生し、晴れて妻子ある一家の主人となりましたが、山頭火自身は重圧を感じており、妻から束縛されることも嫌がっていたため、あまり喜ばしい心境ではなかったのかもしれません。後年の随筆には「家庭は牢獄だ、とは思はないが、家庭は沙漠である、と思はざるをえない」との記載を残しています。

1911年 – 29歳「文芸の世界へ、ツルゲーネフの訳を月刊誌に発表」

外国文学の翻訳を月刊誌「青年」に、詩や和歌などは回覧雑誌に投稿

ギ・ド・モーパッサン

1911年には故郷の防府で創刊された活版刷りの月刊誌「青年」に外国文学(モーパッサンやツルゲーネフなど)の翻訳を発表し、その際のペンネームで「山頭火」を名乗るようになりました。また、親しい仲間を集めて回覧雑誌を刊行し、詩や和歌、随筆などを「田螺公」のペンネームで投稿するようになります。

1913年8月には個人誌「郷土」を創刊し、本格的に文学の世界へと乗り出していくようになりました。そして、同年には東京で創刊された俳句の雑誌「層雲」にも作品の一つが掲載されたのです。さらには1916年、主宰の萩原井泉水から推薦され、「層雲」の俳句撰者の1人に選ばれ、俳人としての好スタートを切ることになりました。

種田酒造場は膨大な借金を抱えて倒産

古書店「雅楽多」を開業するも、うまくいかず

文壇では幸先の良い出だしの山頭火でしたが、種田酒造の経営は困難を強いられており、1916年4月には巨額の借金を抱えるようになり、最終的に倒産に至りました。そのため、山頭火一家は夜逃げのように熊本へと落ち延びたのです。

熊本に到着した山頭火は俳句雑誌「白川及新市街」の兼崎地橙村を頼って村上吉平という人物を紹介してもらうことに成功し、そこで古書店「雅楽多」を開業することになりました。しかし、実際の経営自体は妻のサキノに任せるようになり、扱う商品も額縁や絵葉書など、趣味的なものに変容していったのです。

1918年 – 36歳「弟・二郎の自殺、自身の離婚、刑務所への留置などが重なり、精神的に落ち込む」

弟・二郎の自殺

遺書 イメージ

気が向いた時には自ら額縁を売りに歩いた山頭火でしたが、仕事にのめり込むことのできない遣る瀬無さを感じるようになり、生活は荒んでいくようになります。その一方で、厭世的な感情を描いた詩歌や俳句などは雑誌「層雲」で注目されるようになっていくのでした。

さらに、山頭火を厭世的な感情に追いやったのは弟・二郎の自殺ではないかと考えられています。二郎は種田酒造の破産後、親戚に養子にやられていましたが、その養子先からも離縁され、住む場所もなく路頭をさまよっているような状態だったのです。そして、1918年7月15日、岩国にて縊死しているところを発見されました。この際、山頭火に対しての辞世が述べられた遺書も見つかったそうです。

神経衰弱に陥るようになった山頭火は東京へと向かうが、不運が重なる

不運が重なることで精神的に追い詰められた山頭火は出家することに

精神的に追い詰められていった山頭火は単身、東京へと旅立ちましたが、神経衰弱を生じるようになり、まともに仕事をこなすこともできずに鬱々とした日々を過ごすことになります。そのような状況下で山頭火は隣室のロシア人女性と深い関係になってしまいます。その事実も引き金となり、1920年11月にはサキノと離婚が成立してしまうのでした。

その後、1923年に起こった関東大震災の際には避難中に社会主義者と勘違いされ、刑務所に留置されることになります。度重なる不幸に見舞われ、精神的に立ち直れなくなった山頭火は離婚が成立している元妻・サキノの元に帰ることになりました。しかし、精神を病んだ山頭火は友人に見かねられ、東外坪井町の報恩寺へと連れて行かれ、1924年、「耕畝」と改名して出家を果たすことになったのです。

1925年 – 43歳「精神的安住の地を捨てて、放浪流転の旅へ」

出家得度した味取観音堂を出て、放浪の旅へと発つ

1924年に出家したものの、山頭火は精神安住の地である味取観音堂を発つことを決心します。山頭火はこの時から行乞記を執筆しており、自分の亡き後に世に出ても良いような文芸作品として日々の記録をしたためるようになりました。

その冒頭には「私はまた旅に出た。所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だった、愚かな旅人として一生流転せずにはいられない私だった…」と記載されています。そして、山頭火は九州、山陰、山陽、四国を放浪していくのでした。

自由律俳人・尾崎放哉を訪ねて歩く

小豆島にある尾崎放哉記念館

山頭火は自分と同じく、自由律俳人として名が通っていた尾崎放哉を旅の途中で訪ねようと計画していました。しかし、放哉は若くして小豆島で亡くなっていることが判明したため、その墓参りをするに留まってしまうのです。山頭火と放哉の2人は、放浪して歩き回る「動」の山頭火と一定の場所で制作活動を行った「静」の放哉とで後年、よく比較されるようになりました。

山頭火は放哉の墓参りに至るまで、四国八十八ヶ所巡りを敢行し、放哉の墓参りが終わり次第、西国の三十三ヶ所の観音巡礼を行う予定でしたが、一旦、元家族の生活する熊本へと帰ることになるのです。

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