1929年 – 47歳「熊本での交遊三昧ののち、意を新たにして再度放浪の旅へ」
熊本へ帰省し、親交を深めた俳人たちと交遊三昧
山頭火は放哉の墓参りを終えると、熊本の「雅楽多」古書店へと帰り、地域の俳人たちとともに交遊する日々が続きました。1929年には山頭火の師匠でもある荻原井泉水を家に招き、その門下の俳人たちも集まってきたため、多くの俳人と知り合いになる良いきっかけとなりました。
心機一転して、再び放浪流転の日々へ
山頭火はこれまでの旅の記録も日記形式で書き残していたようですが、1929年9月に旅を再開すると、過去の文書は焼き捨ててしまったようです。そして、心を新たにして行乞記を書き始め、後世に文芸作品として残るようにしっかりと記録していきました。
その時に詠まれた歌が「焼き捨てて 日記の灰の これだけか」でした。新たに始まった旅路では黒染の衣に袈裟、一笠一鉢一杖という行脚僧と同じ風貌で歩き回り、「歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい」という歌を残しています。山頭火の生涯において旅と酒と俳句は欠けてはならない存在だったのでしょう。
1932年 – 50歳「九州三十三ヶ所を巡り、『其中庵』へ居を構える」
鹿児島を除く、九州三十三ヶ所を巡る
1929年9月に熊本を出発すると、阿蘇、日田、耶馬渓などを経由して大分へたどり着き、そこから熊本へ一旦帰ると、今度は人吉、宮崎を周り、湯布院から中津を抜けて福岡を巡るというコースを約2年間かけて練り歩きました。
九州三十三ヶ所を巡り、熊本へ帰ってきた山頭火はそこから半年ほど熊本にとどまり、雑誌「三八九」の運営を試みています。1931年2月に発行し、第3集まで刊行しましたが、その後は続かず、廃刊となってしまいました。そして、やはり自分はひと所に留まっていると精神が停滞すると考え、旅を再開することにしたのです。行乞記にはその時の様子が「行乞は雲の行く如く、水の流れるようでなければならない、ちょっとでも滞ったら、すぐ乱れてしまふ」と書かれていました。
山口県吉敷郡に「其中庵」を構え、安住の地とする
旅を再開した山頭火でしたが、1932年5月に病気を患い、山口県豊浦郡川棚村という場所で身動きが取れなくなってしまいました。そこで心細い思いをした山頭火は山口に安住の地を求めることになります。「出家、漂泊、庵居、孤高自ずから持して、寂然として独死するー、そしてそれは日本人の落ち着く型の一つだ」と山頭火自ら記載しているように、とうとう庵居を作ることを決意するのです。
山口県吉敷郡にある廃屋を友人に紹介してもらい、山頭火自ら修理して「其中庵」と名付け、そこに住むことになりました。「其中庵」の名前の由来は「妙法蓮華経」の一節から来ています。山頭火が「其中庵」に住むことになったというニュースは雑誌「層雲」でも報じられることになりました。
1934年 – 52歳「『其中庵』で生活する合間に井上井月、良寛、芭蕉を訪ねる旅へ」
其中庵にいる6年間の間に2度の旅に出る
山頭火はかねてから井上井月という乞食の俳諧師に興味を抱いていました。その墓参りをするべく、伊那の美篶という街を目指して、木曽、飯田の峠を越えての旅を敢行したのです。途中で肺炎を起こし、命の危険にも晒されましたが、無事に其中庵に戻ることになりました。
2度目の旅は良寛、芭蕉、西行などの墓を訪ねる旅で、1935年12月に出発し、良寛ゆかりの倉敷の円通寺、西行がまつられる大阪の弘川寺、甲州路・信濃路を抜けて柏原の一茶の遺跡、新潟の良寛遺跡を巡りました。最後は仙台から松尾芭蕉の「奥の細道」を逆行して平泉へと赴いたのです。
風来居に住処を変更
山頭火は旅から戻ってくると、山口市内にある湯田温泉の一角、「風来居」という4畳一間の家屋に1913年11月に引越しをすることになりました。日中戦争が始まり、周囲の情勢が変わって来たことも影響したのでしょうか。
しかし、街の中にある風来居は山頭火にとってはあまり居心地の良い場所ではなかったようで、日記には「市井にうづもれても市塵に染まず親しんで狎れず、愛して媚びず、敬うておもねらず」という言葉が残っています。
1939年 – 57歳「井上井月の墓を再度訪問、そして、最期の地『一草庵』へ」
風来居時代の唯一の旅、井上井月墓参
山頭火は風来居に住居を移してから、井上井月の墓を5年ぶりに再訪することになります。1939年3月に出発し、広島、大阪、滋賀、名古屋、知多半島を周り、鳳来寺を参拝、その後信州へと向かい、再び伊那の地を踏むことになりました。
1940年5月3日、無事に井上井月の墓参りを遂行、自らと同じように乞食のように生き、俳句を詠んでいた井上井月に思いを馳せ、帰路につくのでした。
死場所を求めて「一草庵」へ
風来居へと戻って来た山頭火は街中の騒々しさに悩まされるようになります。そして、死場所を求めて再び旅に出ることにしたのです。「人間の死所を得ることは難いかな、私は希ふ、獣のやうに、鳥のやうに、せめて虫のやうにでも死にたい、私が旅するのは死場所を探すのだ」と記録に書き残して出発することにしました。
山頭火は四国八十八ヶ所のコースを辿り、その途中で愛媛・松山へとたどり着くことになりました。その地にあったのが山頭火終焉の地となる「一草庵」だったのです。
1940年 – 58歳「自身の句集『草木塔』を発表し、最期は脳溢血にて帰らぬ人に」
一代句集「草木塔」を出版
一草庵に住処を移した山頭火は、自らの人生の総決算として句集「草木塔」を出版することを決意しました。それまでに小句集を7冊(『鉢の子』、『草木塔』、『山行水行』、『雑草風景』、『柿の葉』、『孤寒』、『鴉』)、世に送り出していましたが、これをひとまとめにして一代句集「草木塔」と名付け、東京にある八雲出版から刊行したのです。
酒を飲んだまま、何の前触れも無く事切れる
最後の最後まで、山頭火の日記には生気あふれる文章が刻まれていましたが、死期はだんだんと迫って来ていたのです。1940年10月10日、一草庵にて友人たちと句会をする予定でしたが、山頭火はその前の晩に酒を飲み、そのままいびきをかいて寝たままの状態でした。
友人たちは句会が終わると、すぐに撤収しましたが、高橋一洵という俳人だけはずっと寝ている山頭火が気にかかり、夜遅くに一草庵へと引き返したのです。そこで瀕死の状態に陥っている山頭火を発見したため、医者を呼びましたが、間に合わず、そのまま山頭火は帰らぬ人となってしまったのです。死因は後日、脳溢血ということがわかったのでした。
すごいすごい
すごい