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川島芳子とはどんな人?生涯・年表まとめ【男性関係や生存説も紹介】

川島芳子とは20世紀初頭を生きた清朝の王族の女性です。本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)といい、日本名は川島芳子といいました。女性でありながら、男装をしていたため「男装の麗人」という本が出版されてから、当時のメディアに出演し大ブームを起こした人です。

男装した川島芳子

そんな女性ですが清朝の王女であること自身が利用し、また日本軍に利用され激動の人生を送っています。諜報活動に携わっていたために「東洋のマタ・ハリ」といわれていました。清朝の再興を夢見、女性であることを最大の武器にして活動していたのです。

最近も「李香蘭」の半生を送ったドラマがあり、その中で登場してたこともあり知名度が上がっているようです。そんな川島芳子を、その人生に魅せられて沢山調べた筆者がその生涯を掘り下げていきたいと思います。

川島芳子とはどんな人物か

名前川島芳子(愛新覺羅顯㺭)・東珍・吉雄・芳麿・良輔
誕生日1907年5月24日
没日1948年3月25日
生地北京(清王朝)
没地北平(中華人民共和国)
配偶者カンジュルジャップ(後離縁)
埋葬場所松本市蟻ケ崎の正鱗寺

川島芳子の生涯をハイライト

今から川島芳子の人生を簡単にダイジェストしていきたいと思います。内容は以下の通りになります。

川島芳子のプロマイド写真が流行したといいます
  • 1907年 粛親王善耆の第十四王女として清国の北京で生まれる
  • 1915年 父の顧問だった川島浪速の養女となる
  • 1925年 ピストルで自殺未遂を起こした後、断髪し男装を始める
  • 1927年 蒙古族のカンジュルジャップと結婚する
  • 1930年 離婚し上海駐在武官田中隆吉少佐と出会い諜報活動に手を染める
  • 1932年 上海日本人僧侶襲撃事件が起こり事件に携わる
  • 1933年 上海自警団の総司令となる
  • 1937年 天津で料亭「東興楼」の女将となる
  • 1945年 日本が敗戦し、中国国民党に逮捕される
  • 1948年 死刑判決が下され銃殺刑に処された

「男装の麗人」と呼ばれる女性

男装の麗人とマスコミでもてはやされました

川島芳子は清王朝の王女として生まれ、その後の養父の川島浪速も陸軍将校であったため、裕福な暮らしをしている女性でした。しかし17歳の時にピストルで自殺未遂を起こしており、その後に断髪をし、女性を捨てるという声明を新聞に出しています。一説によると、養父である川島浪速に肉体関係を迫られたからとも噂されています。

和装姿の川島芳子

この声明は当時日本で話題になり、マスコミに大きく取り上げられて「男装の麗人」と呼ばれるようになったといいます。芳子の端正な顔立ちや、清朝皇室出身という血筋といった属性は高い関心を呼び、芳子の真似をして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてきたりと、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとしてちょっとした社会現象を巻き起こしたそうです。

「東洋のマタハリ」と呼ばれた

交際していた日本人将校に協力し、スパイ活動を行ったといわれています

川島芳子は上海で田中隆吉少佐と交際するようになり、その縁で上海での諜報活動に参加するようになったといわれています。ただし芳子の活動は、東京裁判で田中が連合国側の証言に立ったうえで証言をされているために、近年はどこまで芳子が諜報活動に携わっていたのか疑問視されています。

田中が自己責任を他人に転嫁させている可能性も高く誇張も多くあるといわれていますが、派手好きで目立つのが好きな芳子が「東洋のマタ・ハリ」「東洋のジャンヌ・ダルク」とマスコミが騒ぐのを喜んでいた為、結果として敗戦後の裁判で不利になった部分は多いでしょう。田中が証言した芳子の証言は以下になります。

国民党に接近し情報を得る

孫科を失脚させたといわれています

芳子は国民党行政委員長だった孫科(孫文の息子)とダンスホールで接触して、国民党内部の情報を得ていたといいます。上海事変後に蒋介石から糾弾された孫科を、日本の欧州航路客船にしのびこませて広東に逃がしたりしたというのです。その件で、孫科は失脚することになったといわれています。

第一次上海事件を勃発させる

上海で僧侶が殺害される事件が起きました

田中隆吉少佐の証言によると関東軍参謀から依頼を受けて、第一次上海事件を勃発させた「上海日本人僧侶襲撃事件」を、田中が立案しこの時に実行犯を集めたのが川島芳子だと証言しています。

事件の詳細は上海にいた日本人の僧侶が、中国人とみられる集団に襲撃された事件です。この事件は上海に居留している日本人の怒りを買い、報復として抗日が盛んだった工場に乱入して乱闘騒ぎになりました。この騒ぎから上海の日本人を保護するために派遣された日本軍と中華民国国府軍が軍事衝突をし上海事件へと発展していきました。

田中は板垣征四郎大佐の命令で実行したと戦後の裁判で証言しています

この裏で1932年に関東軍上層部は、「満州独立に対する列国の視線をそらすため上海でことを起こせ」と指令をし、工作資金として2万円が渡したといいます。このお金を芳子に渡して、中国人を雇って日本人を襲撃させたと証言したのです。

ただし芳子が実行犯に加担したと証言をしているのは、田中少佐のみであるため近年は信憑性を問われています。しかし今となっては真実はどうであったかは分かりませんが、芳子は敗戦後の裁判で罪とされ処刑されることになりました。

天津から溥儀の皇后「婉容」を脱出させる

溥儀の皇后「婉容」

1931年に満州事変が起こると、愛新覚羅溥儀が関東軍の要請を受けて天津を脱出しています。その時に溥儀の行動の「婉容」を天津から連れ出したのが川島芳子といわれています。芳子は関東軍に依頼され婉容を天津から旅順へ護衛する任務に携わっています。芳子は得意の運転技術を活かして、車のトランクに皇后を乗せて連れ出したといいます。

川島芳子の最後の様子

裁判の様子(写真は溥儀が裁かれているところ)

川島芳子は1945年の日本敗戦後、北平で中国国民党軍に逮捕されました。「漢奸」(中国語で売国奴という意味)の容疑で訴追され、死刑判決が下されています。 当時の中国の背景は、国民党は芳子の諜報活動の詳細が明らかになる事で党内の醜聞が暴露されるのを恐れていたといいます。彼女の罪状は、

  • 被告は粛親王の娘で、長年日本に滞在し、川島芳子の日本名を持つ
  • 満州事変以来北京、天津、日本、満州の間を往来し、スパイ活動をした
  • 日本人村松梢風の「男装の麗人」には、被告の行動が具体的に証明されている

などでした。日本の小説「男装の麗人」までも証拠とされてしまったのです。これに対し、芳子は川島浪速に日本の戸籍謄本を送ってもらうようにお願いします。しかしこの時に、芳子が川島浪速と戸籍上養女にしておらず、日本国籍を有していないことが判明しました。結局1948年に北平第一監獄の刑場で芳子は銃殺刑に処されました。そのことを新聞で知った姪の川島廉子は、「芳子はかわいそう。たった1枚の紙(戸籍)があれば命が助 かったのに」と言ったと伝えられています。

川島芳子はどんな性格だったのか?

川島芳子はかなり癖のある性格でした

川島芳子は虚言癖があり、頭の回転が早い奔放で目立ちたがり屋な性格であったといわれています。

それだけでなく、芳子は非常に頭の回転が早い人だったと伝わっています。エピソードの一つに川島浪速の秘書の妻に、「あなたのお国は中国かしら?日本かしら?」と聞かれて少し考えて、「お母さんのお腹の中!」と答えたそうです。なかなかの名回答です。機転の速さが窺い知れます。

馬で通学する川島芳子

また、奔放で目立ちたがり屋な性格でもありました。松本高女に馬で通ったり、、授業を勝手に休んだり、校則を無視したりしていた事もあるそうです。結局学校も父の葬儀で中国に帰って、半年後に復学しようとすると校内の秩序を乱すと復学を断られ退学しています。

当時流行った川島芳子のプロマイド写真

そして女性であることを清算し男性として生きると宣言してから、多くのメディアに出演するようになると、「ボクが働いたより以上の、何十倍かの宣伝が行われているので、全く面はゆい次第だ」と語っていたといいます。目立つのが好きな芳子の性格が、最終的に自身の首を絞めることになりました。

そして芳子の性格で特徴的なのが、虚言癖があったといわれています。この件は、交友のあった李香蘭を含め、複数人が証言しています。周りの人の証言によると、「すぐわかるような嘘をつく」といわれていました。

川島芳子の料亭で出会ったという李香蘭

李香蘭は、福岡のホテルで芳子に会ったときに、「ボクはいま後世に残る国家的な大事業を計画しているんだ。川島芳子が蒋介石と手を握る。笹川良一と新しい政治団体を作った。松岡洋右や頭山満も協力してくれる。キミも入会したまえ」といい、多忙を理由に断ったそうです。余りに現実味に欠けた内容に驚くばかりですが、虚言癖が芳子にあることはみんな分かっていたそうです。

川島芳子と関係を持った男性達

川島芳子は女性の武器を最大に利用したといえます

川島芳子は美貌の持ち主であったこともあり、多くの男性と浮世を流しました。芳子は男性を利用し、そして利用された人生といえるでしょう。関東軍の将軍といわず、将校といわず多くの男性が虜になったといいますが、言いよる男性と誰でも寝たわけではなく興味がない男にはまったく眼もくれなかったといわれています。

カンジュルジャップ

カンジュルジャップと川島芳子の結婚式の写真

1927年に川島芳子は蒙古族の将軍、バプチャップの次男カンジュルジャップと結婚しています。結婚式は旅順のヤマトホテルで、仲人は関東軍参謀長の斎藤恒でした。しかし結婚生活は3年で終わっています。理由は芳子が自由奔放で家庭に入る性格ではなかったということと、兄嫁と折り合いが悪かったためといわれています。

夫は何もいわずに出て行った芳子が戻ってくるのを待ち続けたということですが、諦めて数年後に再婚し何人かの子供が生まれたといいます。芳子は何故か再婚相手を側室と思っていた節があるらしく、カンジュルジャップの再婚を祝福し、結婚式にも出席したという不思議な逸話が残っています。

田中隆吉

左が川島芳子で一番右が田中少佐

1930年ごろ上海で川島芳子と出会い、交際を始めたといわれています。そして芳子の語学力や頭脳と行動力を利用して諜報活動に協力させています。国民党へのスパイ活動を行わせていましたが、芳子が「男装の麗人」などともてはやされると、徐々にすれ違うようになっていったといいます。

そして二人は別れますが、田中の方が芳子に未練があり別れた後も恋文を送ったり、しつこく付きまとって芳子がうんざりしていたという話も伝わっています。

笹川良一

晩年の笹川良一

1937年頃に川島芳子は右翼団体・国粋大衆党総裁で、外務省・海軍と協力関係にあった笹川良一と交際していたといわれています。一時期暗殺の危険があった芳子を、笹川は匿ったといわれています。そのかわり芳子も、笹川の人脈をフルに利用し活動を行っていました。

川島芳子の評価

黒木メイサが演じる「川島芳子」

「東洋のマタ・ハリ」や「男装の麗人」といわれた川島芳子ですが日本でも中国でも人気があり、生存説が囁かれているほどだったといいます。現在までにも、日本でも2008年に「男装の麗人~川島芳子の生涯~」と半生を描いたドラマが作成されたり、中国でも「女スパイ川島芳子」という映画が出たり、関心を集めています。晩年の芳子の秘書だった小方八郎はこのようなに振り返っています。

芳子さんを理想の女性として祭りあげろとは申しません。しかし切れば赤い血の出る人間が、カラ元気でもつけなければ押しつぶされそうな権謀術数や冷酷な人間関係の中にあって、寂寥感をことさら押かくしながら陽気に人目をひいていたという点だけは理解してほしいと思います。

中国の映画「女スパイ川島芳子」

この他にも近しい人物は似たようなことを証言しており、「カラ元気」でも気丈に振る舞い、日本軍人達と渡り合ってきた「川島芳子」像にどこか両国とも惹かれるものを持つのかもしれません。

川島芳子の功績

功績1「満王朝再興の為に力を尽くしたこと」

新京の関東軍司令部

やはり川島芳子の功績といえば、関東軍と協力をして女だてらに清王朝復興に力を尽くしたことではないでしょうか。関東軍の高官と交際し「清王朝を復興」という、実父と養父の目標を実行に移す行動力は目を見張るものがあります。

満州事変を起こした際の関東軍責任者「石原莞爾」

一部では「芳子は関東軍に利用しつくした挙句に、見捨てられた」と評されることもありますが、これは一面は正しく、別の面では誤っているといわれます。少なくとも満州国建国まではお互いの利害が一致しており、関東軍は芳子を利用したし、芳子のほうも清王朝復興のために関東軍を利用したのです。しかし結局は関東軍の方が一枚上手だったといえるでしょう。

功績2「男装の麗人ブームという現象が起きたこと」

スタジオ収録時の川島芳子

川島芳子はしたたかに生き関東軍に「用無し」と見捨てられた後も、伊東阪二という相場師をスポンサーとして自伝を出版しています。伊東の人脈を利用して「婦人画報」から出版したのです。

その他にもラジオ番組に出演し、即興で歌ったらコロンビアレコードから声がかかり、「蒙古の歌」や「十五夜の娘」を発売しています。「キャラバンの鈴」という歌の作詞をしたりもしました。世間では、芳子にあこがれて髪を短くしたり男装する人までいたそうです。そういった新たな女性の心に新風を吹かせたことは大きな功績といえるのではないでしょうか。

川島芳子の名言

悲痛な川島芳子の叫びが胸を痛ませます

家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん

死刑執行後に、芳子の服のポケットから出てきたそうです。なんと悲しい内容でしょうか。最後の「冤罪があるけれども、誰に訴えろというのか」というのは、芳子の人生を考えらえさせられる言葉です。

李香蘭と川島芳子は「お兄ちゃん」「ヨコちゃん(香蘭の本命が山口淑子のため)」と呼ぶ仲でした

人に利用されてカスのように捨てられた人間の良い例がここにある。

なんとも悲しい言葉です。これは李香蘭に当てた手紙に書かれていた物です。この手紙の冒頭には「キミと会えるのもこれが最後かもしれない」と書かれています。この時には、既に何かを覚悟していたのではないかと思える内容です。

自身の人生が男性に振り回された人生だったと川島芳子は思っていたのでしょう

私は男が嫌いです。男は女をただ困らすばかりだから。

川島芳子の人生を見てみると、なんとも重い言葉です。女性ということを最大限に活かしてきた芳子でしたが、それ故にこそ出てきた言葉ではないかと想像できます。

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