川島芳子とは20世紀初頭を生きた清朝の王族の女性です。本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)といい、日本名は川島芳子といいました。女性でありながら、男装をしていたため「男装の麗人」という本が出版されてから、当時のメディアに出演し大ブームを起こした人です。
そんな女性ですが清朝の王女であること自身が利用し、また日本軍に利用され激動の人生を送っています。諜報活動に携わっていたために「東洋のマタ・ハリ」といわれていました。清朝の再興を夢見、女性であることを最大の武器にして活動していたのです。
最近も「李香蘭」の半生を送ったドラマがあり、その中で登場してたこともあり知名度が上がっているようです。そんな川島芳子を、その人生に魅せられて沢山調べた筆者がその生涯を掘り下げていきたいと思います。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
川島芳子とはどんな人物か
名前 | 川島芳子(愛新覺羅顯㺭)・東珍・吉雄・芳麿・良輔 |
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誕生日 | 1907年5月24日 |
没日 | 1948年3月25日 |
生地 | 北京(清王朝) |
没地 | 北平(中華人民共和国) |
配偶者 | カンジュルジャップ(後離縁) |
埋葬場所 | 松本市蟻ケ崎の正鱗寺 |
川島芳子の生涯をハイライト
今から川島芳子の人生を簡単にダイジェストしていきたいと思います。内容は以下の通りになります。
- 1907年 粛親王善耆の第十四王女として清国の北京で生まれる
- 1915年 父の顧問だった川島浪速の養女となる
- 1925年 ピストルで自殺未遂を起こした後、断髪し男装を始める
- 1927年 蒙古族のカンジュルジャップと結婚する
- 1930年 離婚し上海駐在武官田中隆吉少佐と出会い諜報活動に手を染める
- 1932年 上海日本人僧侶襲撃事件が起こり事件に携わる
- 1933年 上海自警団の総司令となる
- 1937年 天津で料亭「東興楼」の女将となる
- 1945年 日本が敗戦し、中国国民党に逮捕される
- 1948年 死刑判決が下され銃殺刑に処された
「男装の麗人」と呼ばれる女性
川島芳子は清王朝の王女として生まれ、その後の養父の川島浪速も陸軍将校であったため、裕福な暮らしをしている女性でした。しかし17歳の時にピストルで自殺未遂を起こしており、その後に断髪をし、女性を捨てるという声明を新聞に出しています。一説によると、養父である川島浪速に肉体関係を迫られたからとも噂されています。
この声明は当時日本で話題になり、マスコミに大きく取り上げられて「男装の麗人」と呼ばれるようになったといいます。芳子の端正な顔立ちや、清朝皇室出身という血筋といった属性は高い関心を呼び、芳子の真似をして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてきたりと、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとしてちょっとした社会現象を巻き起こしたそうです。
「東洋のマタハリ」と呼ばれた
川島芳子は上海で田中隆吉少佐と交際するようになり、その縁で上海での諜報活動に参加するようになったといわれています。ただし芳子の活動は、東京裁判で田中が連合国側の証言に立ったうえで証言をされているために、近年はどこまで芳子が諜報活動に携わっていたのか疑問視されています。
田中が自己責任を他人に転嫁させている可能性も高く誇張も多くあるといわれていますが、派手好きで目立つのが好きな芳子が「東洋のマタ・ハリ」「東洋のジャンヌ・ダルク」とマスコミが騒ぐのを喜んでいた為、結果として敗戦後の裁判で不利になった部分は多いでしょう。田中が証言した芳子の証言は以下になります。
国民党に接近し情報を得る
芳子は国民党行政委員長だった孫科(孫文の息子)とダンスホールで接触して、国民党内部の情報を得ていたといいます。上海事変後に蒋介石から糾弾された孫科を、日本の欧州航路客船にしのびこませて広東に逃がしたりしたというのです。その件で、孫科は失脚することになったといわれています。
第一次上海事件を勃発させる
田中隆吉少佐の証言によると関東軍参謀から依頼を受けて、第一次上海事件を勃発させた「上海日本人僧侶襲撃事件」を、田中が立案しこの時に実行犯を集めたのが川島芳子だと証言しています。
事件の詳細は上海にいた日本人の僧侶が、中国人とみられる集団に襲撃された事件です。この事件は上海に居留している日本人の怒りを買い、報復として抗日が盛んだった工場に乱入して乱闘騒ぎになりました。この騒ぎから上海の日本人を保護するために派遣された日本軍と中華民国国府軍が軍事衝突をし上海事件へと発展していきました。
この裏で1932年に関東軍上層部は、「満州独立に対する列国の視線をそらすため上海でことを起こせ」と指令をし、工作資金として2万円が渡したといいます。このお金を芳子に渡して、中国人を雇って日本人を襲撃させたと証言したのです。
ただし芳子が実行犯に加担したと証言をしているのは、田中少佐のみであるため近年は信憑性を問われています。しかし今となっては真実はどうであったかは分かりませんが、芳子は敗戦後の裁判で罪とされ処刑されることになりました。
天津から溥儀の皇后「婉容」を脱出させる
1931年に満州事変が起こると、愛新覚羅溥儀が関東軍の要請を受けて天津を脱出しています。その時に溥儀の行動の「婉容」を天津から連れ出したのが川島芳子といわれています。芳子は関東軍に依頼され婉容を天津から旅順へ護衛する任務に携わっています。芳子は得意の運転技術を活かして、車のトランクに皇后を乗せて連れ出したといいます。