川島芳子にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「李香蘭と親しい間柄だった」
まだデビュー前の李香蘭こと山口淑子が、父に連れられて川島芳子が開く「東興楼」に食事にいったのがきっかけで二人は出会いました。芳子は山口淑子が自身と同じ発音の名前であることに興味を持ち、その後も時々店に呼んで、2人でおしゃべりをしていたそうです。
しかし、このころの芳子は自暴自棄的のすさんだ生活をしていて日本人にも中国人にも評判が悪く、山口淑子は店に出入りしていることを養父の潘淑華に知られ、大目玉をくらったそうです。それからなんとなく気まずくなって疎遠になっていたそうですが、偶然福岡で再会をしています。その時に芳子は李香蘭に手紙を渡しています。
そこには「ヨコちゃん、久しぶりにあえて嬉しかったよ。キミと会うのもこれが最後かもしれん。振り返ってみるとボクの人生は何だったのだろう。人間は世間でもてはやされているうちがハナだぞ。利用しようとする奴がやたらとむらがってくる。」と書かれていたそうです。後年「こんなに人間臭い芳子さんを見たのは初めてだった」と山口淑子は話していたといいます。
都市伝説・武勇伝2「川島芳子は実は生きている?」
実は川島芳子が処刑されたときの人物は替え玉で、生きていたという説があります。理由は処刑の時に不審な点がいくつか見られたためです。
- 漢奸の処刑は通常公開処刑だが、芳子の処刑は非公開で行われたこと
- 公開された写真が顔の識別が不可能だったこと
などが挙げられてます。長らく生存説はまことしやかに囁かれ、日本でも何度も検証されました。具体的には、長春にいる女性が芳子ではないかといわれ、日中で合同で調査をしたりしています。
しかし、実妹が処刑された写真を「姉芳子で間違えない」と証言したことと、近年台湾で公開された処刑関係文書で、「代理人を立てる暇はなかった」「死亡検視が3回も行われている」などから、「噂はまったくのデマだ」と結論付けられています。
川島芳子の年表
1907年 – 0歳「粛親王の第14王女として誕生する」
1907年に清朝の皇族、粛親王の第14王女として誕生しました。名前は「愛新覺羅顯㺭」といいました。国父の粛親王は、中国で警察学校の総監督をしていた川島浪速と、親交を深めていたといいます。このことが後に、王女であった川島芳子が激動に運命づけられることとなりました。
1915年 – 8歳「川島浪速の養女となり日本に渡る」
8歳の時に川島浪速の養女となります。その時に当初は「川島良雄」と名乗らせたそうです。養父が男として育てたかったのかは不明ですが、結局「芳子」と命名しました。養女にする際に父の粛親王は川島浪速に、「君に玩具を進呈する」との手紙を送っています。そして来日し、東京赤羽の豊島師範付属小学校に通うことになりました。
松本高等女学校に転校する
時期ははっきり分かりませんが、父が長野県松本市に転居したため、松本高等女学校に聴講生として編入しています。学校では馬で通学したという逸話が残っていたり、何かと目立つ存在でした。しかし父の粛親王の葬儀の際に、半年間葬儀のために休学したために、復学が許されず退学することとなりました。
1924年 – 17歳「女性を捨て、男性として生きると宣言する」
17歳の時に突如断髪を行い「女を清算し、男として生きる」と表明しました。何故決意したかは不明ですが、一説には養父の川島浪速に肉体関係を迫られたとも、当時交際中の男性とトラブルがあったともいわれています。男装はメディアにも取り上げられ、「男装の麗人と持て囃されることとなりました。芳子の真似をする女性が続出する社会現象となりました。
1927年 – 20歳「蒙古族カンジュルジャップと結婚する」
1927年に蒙古族の将軍の息子、カンジュルジャップと結婚しています。結婚式は旅順のヤマトホテルで行われました。しかし自由奔放な性格のために、結婚生活に馴染めずに3年で家を出ていってしまっています。家を出た後は上海に移り住みました。
徐々に諜報活動に身を染めるようになる
1930年に上海のダンスホールで関東軍の田中隆吉少佐と出会い、ほどなく男女の関係になったといいます。そして田中の依頼で諜報活動を行うようになり、国民党の孫科(孫文の息子)と接触して情報を得たりしたといいます。
また1932年に「満州事変」が起こると、天津から愛新覚羅溥儀の皇后「婉容」の脱出を手助けしたとされています。同年に起きた「上海日本人僧侶事件」の実行犯を集めたのも川島芳子とわれます。ただし、最近は証言しているのが田中少佐の証言のみなので、信憑性を問われてもいます。どこまでが真実かは分かりませんが、芳子が関東軍に絡んでたのは確かでしょう。
1932年 – 25歳「小説『男装の麗人』が発表される」
この年に「満州国」が建国され、新京に置かれた宮廷での女官長に任命されますが、実際就任されることはありませんでした。そして、この年に村松梢風の小説である「男装の麗人」が発売されました。発表によって、「日本軍に協力する清国の王女」というイメージが定着して、一躍時の人となりました。
熱河省の自警団の総司令に就任する
1933年には、熱河省の自警団の総司令に任命されています。このニュースは、日本・満州でもてはやされて「日本のマタ・ハリ」「日本のジャンヌ・ダルク」といわれるようになります。断髪式の時の人気もあり、再度マスコミが加熱します。この時期はラジオ番組に出演したり、レコードを発売したり手記を出版したりしました。