川島芳子とはどんな人?生涯・年表まとめ【男性関係や生存説も紹介】

川島芳子の評価

黒木メイサが演じる「川島芳子」

「東洋のマタ・ハリ」や「男装の麗人」といわれた川島芳子ですが日本でも中国でも人気があり、生存説が囁かれているほどだったといいます。現在までにも、日本でも2008年に「男装の麗人~川島芳子の生涯~」と半生を描いたドラマが作成されたり、中国でも「女スパイ川島芳子」という映画が出たり、関心を集めています。晩年の芳子の秘書だった小方八郎はこのようなに振り返っています。

芳子さんを理想の女性として祭りあげろとは申しません。しかし切れば赤い血の出る人間が、カラ元気でもつけなければ押しつぶされそうな権謀術数や冷酷な人間関係の中にあって、寂寥感をことさら押かくしながら陽気に人目をひいていたという点だけは理解してほしいと思います。

中国の映画「女スパイ川島芳子」

この他にも近しい人物は似たようなことを証言しており、「カラ元気」でも気丈に振る舞い、日本軍人達と渡り合ってきた「川島芳子」像にどこか両国とも惹かれるものを持つのかもしれません。

川島芳子の功績

功績1「満王朝再興の為に力を尽くしたこと」

新京の関東軍司令部

やはり川島芳子の功績といえば、関東軍と協力をして女だてらに清王朝復興に力を尽くしたことではないでしょうか。関東軍の高官と交際し「清王朝を復興」という、実父と養父の目標を実行に移す行動力は目を見張るものがあります。

満州事変を起こした際の関東軍責任者「石原莞爾」

一部では「芳子は関東軍に利用しつくした挙句に、見捨てられた」と評されることもありますが、これは一面は正しく、別の面では誤っているといわれます。少なくとも満州国建国まではお互いの利害が一致しており、関東軍は芳子を利用したし、芳子のほうも清王朝復興のために関東軍を利用したのです。しかし結局は関東軍の方が一枚上手だったといえるでしょう。

功績2「男装の麗人ブームという現象が起きたこと」

スタジオ収録時の川島芳子

川島芳子はしたたかに生き関東軍に「用無し」と見捨てられた後も、伊東阪二という相場師をスポンサーとして自伝を出版しています。伊東の人脈を利用して「婦人画報」から出版したのです。

その他にもラジオ番組に出演し、即興で歌ったらコロンビアレコードから声がかかり、「蒙古の歌」や「十五夜の娘」を発売しています。「キャラバンの鈴」という歌の作詞をしたりもしました。世間では、芳子にあこがれて髪を短くしたり男装する人までいたそうです。そういった新たな女性の心に新風を吹かせたことは大きな功績といえるのではないでしょうか。

川島芳子の名言

悲痛な川島芳子の叫びが胸を痛ませます

家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん

死刑執行後に、芳子の服のポケットから出てきたそうです。なんと悲しい内容でしょうか。最後の「冤罪があるけれども、誰に訴えろというのか」というのは、芳子の人生を考えらえさせられる言葉です。

李香蘭と川島芳子は「お兄ちゃん」「ヨコちゃん(香蘭の本命が山口淑子のため)」と呼ぶ仲でした

人に利用されてカスのように捨てられた人間の良い例がここにある。

なんとも悲しい言葉です。これは李香蘭に当てた手紙に書かれていた物です。この手紙の冒頭には「キミと会えるのもこれが最後かもしれない」と書かれています。この時には、既に何かを覚悟していたのではないかと思える内容です。

自身の人生が男性に振り回された人生だったと川島芳子は思っていたのでしょう

私は男が嫌いです。男は女をただ困らすばかりだから。

川島芳子の人生を見てみると、なんとも重い言葉です。女性ということを最大限に活かしてきた芳子でしたが、それ故にこそ出てきた言葉ではないかと想像できます。

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