川島芳子の最後の様子
川島芳子は1945年の日本敗戦後、北平で中国国民党軍に逮捕されました。「漢奸」(中国語で売国奴という意味)の容疑で訴追され、死刑判決が下されています。 当時の中国の背景は、国民党は芳子の諜報活動の詳細が明らかになる事で党内の醜聞が暴露されるのを恐れていたといいます。彼女の罪状は、
- 被告は粛親王の娘で、長年日本に滞在し、川島芳子の日本名を持つ
- 満州事変以来北京、天津、日本、満州の間を往来し、スパイ活動をした
- 日本人村松梢風の「男装の麗人」には、被告の行動が具体的に証明されている
などでした。日本の小説「男装の麗人」までも証拠とされてしまったのです。これに対し、芳子は川島浪速に日本の戸籍謄本を送ってもらうようにお願いします。しかしこの時に、芳子が川島浪速と戸籍上養女にしておらず、日本国籍を有していないことが判明しました。結局1948年に北平第一監獄の刑場で芳子は銃殺刑に処されました。そのことを新聞で知った姪の川島廉子は、「芳子はかわいそう。たった1枚の紙(戸籍)があれば命が助 かったのに」と言ったと伝えられています。
川島芳子はどんな性格だったのか?
川島芳子は虚言癖があり、頭の回転が早い奔放で目立ちたがり屋な性格であったといわれています。
それだけでなく、芳子は非常に頭の回転が早い人だったと伝わっています。エピソードの一つに川島浪速の秘書の妻に、「あなたのお国は中国かしら?日本かしら?」と聞かれて少し考えて、「お母さんのお腹の中!」と答えたそうです。なかなかの名回答です。機転の速さが窺い知れます。
また、奔放で目立ちたがり屋な性格でもありました。松本高女に馬で通ったり、、授業を勝手に休んだり、校則を無視したりしていた事もあるそうです。結局学校も父の葬儀で中国に帰って、半年後に復学しようとすると校内の秩序を乱すと復学を断られ退学しています。
そして女性であることを清算し男性として生きると宣言してから、多くのメディアに出演するようになると、「ボクが働いたより以上の、何十倍かの宣伝が行われているので、全く面はゆい次第だ」と語っていたといいます。目立つのが好きな芳子の性格が、最終的に自身の首を絞めることになりました。
そして芳子の性格で特徴的なのが、虚言癖があったといわれています。この件は、交友のあった李香蘭を含め、複数人が証言しています。周りの人の証言によると、「すぐわかるような嘘をつく」といわれていました。
李香蘭は、福岡のホテルで芳子に会ったときに、「ボクはいま後世に残る国家的な大事業を計画しているんだ。川島芳子が蒋介石と手を握る。笹川良一と新しい政治団体を作った。松岡洋右や頭山満も協力してくれる。キミも入会したまえ」といい、多忙を理由に断ったそうです。余りに現実味に欠けた内容に驚くばかりですが、虚言癖が芳子にあることはみんな分かっていたそうです。
川島芳子と関係を持った男性達
川島芳子は美貌の持ち主であったこともあり、多くの男性と浮世を流しました。芳子は男性を利用し、そして利用された人生といえるでしょう。関東軍の将軍といわず、将校といわず多くの男性が虜になったといいますが、言いよる男性と誰でも寝たわけではなく興味がない男にはまったく眼もくれなかったといわれています。
カンジュルジャップ
1927年に川島芳子は蒙古族の将軍、バプチャップの次男カンジュルジャップと結婚しています。結婚式は旅順のヤマトホテルで、仲人は関東軍参謀長の斎藤恒でした。しかし結婚生活は3年で終わっています。理由は芳子が自由奔放で家庭に入る性格ではなかったということと、兄嫁と折り合いが悪かったためといわれています。
夫は何もいわずに出て行った芳子が戻ってくるのを待ち続けたということですが、諦めて数年後に再婚し何人かの子供が生まれたといいます。芳子は何故か再婚相手を側室と思っていた節があるらしく、カンジュルジャップの再婚を祝福し、結婚式にも出席したという不思議な逸話が残っています。
田中隆吉
1930年ごろ上海で川島芳子と出会い、交際を始めたといわれています。そして芳子の語学力や頭脳と行動力を利用して諜報活動に協力させています。国民党へのスパイ活動を行わせていましたが、芳子が「男装の麗人」などともてはやされると、徐々にすれ違うようになっていったといいます。
そして二人は別れますが、田中の方が芳子に未練があり別れた後も恋文を送ったり、しつこく付きまとって芳子がうんざりしていたという話も伝わっています。
笹川良一
1937年頃に川島芳子は右翼団体・国粋大衆党総裁で、外務省・海軍と協力関係にあった笹川良一と交際していたといわれています。一時期暗殺の危険があった芳子を、笹川は匿ったといわれています。そのかわり芳子も、笹川の人脈をフルに利用し活動を行っていました。