ジル・ド・レとはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や逸話も紹介】

ジル・ド・レの生涯年表

1405年 – 0歳「有力貴族の子として生を受ける」

ジル・ド・レの居城だったシャントセの城の現在の姿

有力貴族ラヴァル家の子として生まれる

※便宜的に、ジルの生年は”1405年”として年表を執筆させていただきます。

ジル・ド・レは1405年頃に、シャントセの城で誕生したと言われています。父はブルターニュ地方の有力貴族の家系であるラヴァル家の生まれであり、母もブルターニュやアンジューに広い影響力を持つ家系の生まれという、サラブレッドとしての誕生でした。

そのような有力貴族の子として産まれたジルは、幼い頃から非常に高水準な教育を施され、有力貴族の子として恥じるところのない子供に成長していきます。

父の養子入りにより「レ」の名前を名乗る

ロワール川一帯の広大な領地を手にしたレ家は、後のジルの豊かさの源泉となる。

ジルが生まれてすぐの頃、父は遠縁であるレ家に養子入り。これによってラヴァル家として治めていた領地だけでなく、実質的にレ家の領地も手に入れたことで、ジルの生家の権威は拡大していくことになりました。

このような父の領土拡張政策により、ジルは後にロワール川とセーヴル・ナンテーズ川に跨るほどの広大な領地を受け継ぐことになり、結果的に非常に莫大な財を成すことに繋がりました。

1415年 – 10歳「父母の死により祖父に引き取られる」

両親の死により、ジルの人生の歯車はゆっくりと狂い始めていく。

立て続けに起こった父母の死

有力貴族の子として、様々な分野に才能を発揮していたジルでしたが、この年に彼を悲劇が襲います。

理由は不明ですが年の初めごろに母が死去。そしてその後を追うように、9月には父も狩猟中の事故で還らぬ人となってしまったのです。これによってジルは母方の祖父であるジャン・ド・クランに引き取られることになり、祖父によって教育を受けることになります。

しかし、ジルの父は自分にもしものことがあった時、「子供たちを母方の祖父には預けないように」という遺言を残していました。そしてその理由こそが、ジルの人生に暗雲をもたらすことになっていくのです。

祖父からの放任教育

貴族の子弟としてオールマイティーな教育を施していた両親とは違い、祖父の教育は軍事と領地経営方面に非常に偏っていました。一方で軍事や領地経営以外の部分については家庭教師すらつけられず、放任と甘やかしの中でジルは育てられることになったのです。

このジルの祖父――ジャン・ド・クランという人物は非常に悪名高い人物であり、強引な婚約や取引で周辺の領地を自分のものとする行為を度々繰り返していました。このような祖父の一面や教育方針は、まだ幼かったジルに大きく影響を与え、彼の後の暴力性として残ることになってしまいます。

1417年、1419年 – 12歳、14歳「政略的な二度の婚約」

祖父の領地拡大政策によって、ジルは10代前半の若さで政略結婚を打診されるようになる。

ジャンヌ・ペインル

領地の拡大に腐心していた祖父は、幼いジルをも領地拡大のための戦略の道具に使うことを決定します。これにより1417年、12歳のジルは、ペインル家の子女であるジャンヌ・ペインルとの婚約を祖父によって推し進められることになるのです。

とはいえ、当時のジャンヌ・ペインルはなんと4歳。この婚約はさすがに高等法院が許可を出さず、ジャンの目論見は失敗に終わることとなりました。

ベアトリス・ド・ロアン

一度目の婚約は失敗に終わりましたが、ジルが14歳になった1419年、祖父は再びベアトリス・ド・ロアンという有力貴族の子女とジルの婚約を、強引に推し進めようとします。

ベアトリスはブルターニュ公の姪に当たる人物であり、この婚約は成功寸前までこぎつけることになりますが、その直前にベアトリスは急逝。これにより縁談も無かったことになってしまい、ジャン・ド・クランの目論見は二度目も失敗ということになってしまいました。

1420年 – 15歳「カトリーヌ・ド・トアールとの結婚」

祖父の意向により遠縁の貴族と結婚。しかしその手段はあまりにもひどいものだった。

カトリーヌ・ド・トアールとの政略結婚

この年の11月22日、ジルは祖父によって半ば強引に、遠縁の貴族の子女であるカトリーヌ・ド・トアールと結婚させられることになりました。

当時の教会法の規定では近親婚となるために多くの手続きが必要となり、そもそもカトリーヌには別の婚約者がいる状況でしたが、ジャン・ド・クランは手続きを面倒がりつつもトアール家の領地を得ようと、なんとカトリーヌを誘拐。その上でジルと強引に既成事実を作らせ、それによって強制的な結婚を実現させたのです。

1424年 – 19歳「祖父のコネによって騎士として宮廷入り」

騎士として宮廷入りしたジルは、祖父のコネもありつつ地位を確立していく。

祖父に付随する形での宮廷入り

19歳になったジルは、アンジュー公からの信任が厚かった祖父のコネによって騎士として宮廷入りを果たすことになりました。

この当時はシャルル7世政権下の政争が激しい時期ではありましたが、この時のジルには祖父のコネと幸運が味方し、彼は1427年にシャルル7世の側近であるラ・トレモイユ侍従長の側近として抜擢を受けることになります。

これによって宮廷の中での地位を得たジルは、騎士としての栄光に向けて歩みだすことになるはずでした。

1429年3月 – 24歳「ジャンヌ・ダルクと駆けた百年戦争~出会い~」

ジャンヌ・ダルクが登場したことで、ジルの運命は栄光の方へと大きく動き出した。

ジャンヌ・ダルクの登場

1429年の3月。シャルル7世とジャンヌ・ダルクが謁見を果たすことになります。その席にはジルも同席していたことが記録され、おそらくはこの時が、ジャンヌとジルが初めて出会った時だったと言えるでしょう。

そしてこの出会いから約半年の間、ジルはジャンヌの率いる軍に同行し、祖父によって叩き込まれた軍事教育の成果をいかんなく発揮。「救国の英雄」として称えられるジル・ド・レの人生の光の部分は、この短い半年間に集約されています。

ラ・トレモイユ侍従長への誓い

ジャンヌとの出会いから1か月。ジルは自身の後ろ盾であるラ・トレモイユ侍従長と誓約を交わすことになります。

国王に対する敬愛の念と、終生トレモイユ侍従長に味方することを確約した誓いの言葉は、ジルの生涯に大きな影響を与えました。彼はその生涯にわたって、誓い通りにこの言葉を守り通そうとしていくことになるのです。

また、この時の誓いの中で、ジルはラ・トレモイユ侍従長からジャンヌ・ダルクの監視を命じられたとも言われていますが、詳細については今も分かっていないようです。

1429年4月 – 24歳「ジャンヌダルクと駆けた百年戦争~オルレアン包囲戦~」

激戦となったオルレアン包囲戦は、ジャンヌ・ダルクのカリスマ性によってフランス軍が勝利を収める。

オルレアン包囲戦

4月29日、大規模な補給部隊を率いたジャンヌ・ダルクがオルレアンに入城。その軍勢の中には、当然ジルの姿もありました。

そこから始まったオルレアンの戦いでは、ジャンヌのカリスマ性と増援の到着で士気の上がったフランス軍が次々と砦を奪取。オルレアンを包囲していたイングランド軍は瞬く間に瓦解し、5月8日に撤退。こうしてオルレアンは解放されることとなりました。

この時の戦いで、ジルは主に左翼方面で戦いに参加していたようですが、詳しい状況は記録に残っておらず不明なままとなっています。しかしこの戦いのジルについては「『まことに勇敢な戦士』という名声を得るにふさわしい勇猛ぶりを見せた」と記録されており、ジルがこの戦いで活躍をしたことは事実であると見られています。

イングランド軍を追撃

ジャルジョーで起こった追討戦も、ジャンヌのカリスマ性によってフランス軍が勝利を収める。

オルレアンで勝利を収めたフランス軍は、撤退したイングランド軍への追撃を計画。ジャルジョーの開放やパテーでのイングランド軍の殲滅を行いました。

この追撃軍にはジャンヌとジルも参加していたことが記録されていますが、二人がこの戦いでどのような戦果を上げたのかは不明瞭なままとなっているようです。

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