広田弘毅はどんな人?生涯・年表まとめ【内閣時代の政策や座右の銘、死刑判決の理由を紹介】

広田弘毅は大正・明治期の外交官であり、二・二六事件等が勃発し、軍部が暴走を始めた時期に総理大臣になった人物です。広田は元々は優秀な外交官で、満州事変以降の困難な情勢で外務大臣を務め、中国やアメリカと協調路線を重視した外交政策を展開しました。

広田は総理大臣在任中に、軍部に屈服する形で様々な要求を呑みました。戦後に連合国により行われた東京裁判では、「文官(軍人以外の国家機関に勤務する者)として唯一絞首刑の判決」を受けます。広田の刑は重すぎるとして、全国から数十万という署名が集まるものの、刑は執行されます。このような背景から、広田の事を「悲劇の宰相」と呼ぶ事もあるのです。

首相在任時の広田(1936年頃)

広田を悲劇の宰相と呼ぶ一方で、総理大臣時代に広田は軍部の暴走に追従したのは事実であり、後に起こる日中戦争では積極的に戦争に加担する場面もありました。近年に至るまで広田の戦争責任については様々な議論が交わされています。私達も「何故戦争が起きたのか」「その背景には何があったのか」を考える必要があるでしょう。

今回は日本の近現代史をこよなく愛し、歴代総理大臣を丸暗記した筆者が、「悲劇の宰相」広田弘毅の実像について解説していきます。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

広田弘毅とはどんな人物か

名前広田弘毅
誕生日1878年2月14日
没日1948年12月23日
生地福岡県鍛冶町(現福岡市中央区)
没地東京都豊島区巣鴨プリズン
配偶者静子
埋葬場所聖福寺(福岡市博多区)

広田弘毅の生涯をダイジェスト

1930年頃の広田

広田弘毅の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1878年 0歳 広田弘毅誕生
  • 1895年 17歳 外交官を志す
  • 1906年 28歳 外交官となり、翌年に北京に在勤
  • 1919年 41歳 アメリカの首都ワシントンD.Cに赴任
  • 1925年 47歳 日ソ基本条約締結に尽力
  • 1933年 55歳 斎藤実内閣の外務大臣となる
  • 1935年 57歳 自らの外交を共和外交と宣言
  • 1936年 58歳 二・二六事件後に内閣総理大臣になる
  • 1937年 59歳 近衛文麿内閣の外務大臣となる
  • 1945年 67歳 東京裁判でA級戦犯として起訴される
  • 1948年 死刑判決を受け、12月23日に絞首刑(享年70歳)

広田弘毅内閣が行った政策「軍部大臣現役武官制の復活」

軍部大臣現役武官制の復活は日本の軍国化に大きな影響を与えた

広田弘毅内閣は二・二六事件後の1936年3月9日に発足。5月には陸軍の要望に追従する形で軍部大臣現役武官制を復活させます。これは「陸軍大臣・海軍大臣は現役の中将か大将しかなれない」という制度です。

当時の総理大臣は閣僚の罷免権がありませんでした。仮に軍部大臣が辞任し、新たな大臣を軍部が出さない場合は内閣は発足出来ません。また政策に批判的な大臣が内閣にいれば「閣内不一致」となり内閣は総辞職となります。

軍部大臣現役武官制は1900年の山縣有朋内閣で規定されたものの、軍部の力が強くなりすぎる為に1913年に「軍部大臣は予備役でも可」と修正されます。広田はこの制度を軍部に押し切られる形で復活させました。

この制度の復活により軍部は大幅な力を得ます。穏健派の陸軍軍人宇垣一成が総理大臣に任命された時、現役の陸軍の大将中将は陸軍大臣就任を辞退。内閣は発足出来ませんでした。

また1940年発足の米内光政内閣では、内閣の方針に反発した陸軍は陸軍大臣畑俊六を辞任させ、後任の大臣選出を拒否。結果的に内閣は倒閣しました。軍部大臣現役武官制は軍部の意向を反映させる道具となったのです。

東京裁判で死刑判決を受けた理由

東京裁判公判中の法廷内

戦後に連合国は「連合国が指定した戦争犯罪人」を裁く極東国際軍事裁判を開催。条例では「a.平和に対する罪・b.(通例の)戦争犯罪・c.人道に対する罪の3つの罪」が規定され、広田は「a.平和に対する罪」で起訴されました。

「a.平和に対する罪」の起訴者をA級戦犯とも呼びます。3つの罪は分類に過ぎないものの、「A級戦犯」が最も重いという誤解も広まってます。また平和に対する罪は事後法である等、東京裁判は大きな問題点がありました。

国際検察局は広田が軍部大臣現役武官制の復活させた事、後述する日中戦争の対応を問題視。「日本が膨張を遂げていく上での積極的な追随者」と判断します。広田は55の訴因で訴えられ、最終的に3つの訴因で有罪となります。

  • 侵略戦争の共同謀議
  • 満州事変以降の侵略戦争
  • 戦争法規遵守義務の無視

結果的に広田は死刑判決を受けました。なお広田よりも戦争責任が重いとされた近衛文麿は自殺し、松岡洋右は病死しています。彼らが存命であれば、広田は死刑になる事はなかったのではないかとも言われています。

広田弘毅の家族構成や子孫は?

広田と妻静子(1906年頃)

広田は1905年に地元の幼馴染の静子と結婚し、三男三女に恵まれます。静子は後述する右翼団体「玄洋社」の幹部だった月岡功太郎の次女でした。静子は東京裁判開廷前に自殺。自分の立場が裁判に不利になると考えたからです。

長男弘雄は銀行員として戦時中は中国で勤務。戦後に日仏会館常務理事を務めています。次男の忠雄は旧制高校に2浪。三男の正男と早稲田の予科を受けますが、正男のみ合格した為に自殺しました(後に補欠合格の通知が届きます)。

子孫として弘雄の長男である弘太郎氏がおり、度々取材に答えていました。広田の遺族は「家族が弁護や正当化すべきではない。評価は歴史がする」という広田の信条をもとに、広田の事を口に出す事はありませんでした。

広田弘毅の功績

功績1「石材屋の息子から総理大臣へ上り詰める」

廣田弘毅の生誕地

広田は石材屋の息子として誕生し、貧乏な幼少期を過ごしました。広田は懸命に勉強し、やがて総理大臣となりました。戦前の総理大臣の中で、広田程の境遇から総理大臣に上り詰めた人はいません。

初代の伊藤博文から18代目の寺内正毅までの総理大臣は皆、爵位を持っています。「平民宰相」と呼ばれた原敬も実は盛岡藩の家老の家柄。その後の総理大臣の多くも、幕臣や藩士の生まれである事がほとんどでした。

つまり戦前の総理大臣の多くは、爵位を持っていたり、ある程度身分の高い家柄出身である事が多く、本来の意味での「平民宰相」は広田だったのです。

広田は「石屋の倅から総理大臣へ」と立身出世した人物として語られます。不運だったのは軍部が暴走を始めた時代だった事。血縁関係に大物がいない広田は、軍部の意向に抗えずに様々な要求を呑んでいくのです。

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