功績2「中国や欧米諸国と協調的な外交を展開する」
広田は1933年に斎藤実内閣の外務大臣に就任。続く岡田啓介内閣でも留任しています。当時の広田の外交方針は「対米英協調・中国との融和」であり、自ら外交を「協和外交」と呼んでいます。
当時は満州事変により中国と日本の仲が悪くなった時代です。広田は中国に融和的な対応を取り、日本にいる中国の使節団を「公使から最上級の階級である大使」に引き上げる事を提案。各国もそれに倣いました。
広田の対応は、中国の国際的な地位を引き上げる事に貢献。蒋介石や汪兆銘からも歓迎されました。その他にも広田はソ連との交渉に長け鉄道問題や国境画定、紛争処理に功績を残しています。
広田が外務大臣を務めた時代は、満州事変や国際連盟脱退等の不安定な情勢下でありながら対外戦争はありませんでした。これは広田の功績と言って良いでしょう。
功績3「天皇を戦争責任から守るため、東京裁判では黙秘を貫いた 」
東京裁判において広田は一切の弁明をしませんでした。広田の弁護人も「軍部の方針に官僚は口を出さなかった」と主張するように伝えても、広田は沈黙を守り続けたのです。
これは自分が無罪や減刑を主張する事で、昭和天皇や他の人達に罪が及ぶ事を心配していたからです。広田はA級戦犯として起訴される前に検察に以下のように述べています。
自分の処罰を軽くするための弁明を行っているとは思わないでほしい。過ちだと判定される事柄については、私は責任を取る
結果的に広田は一切の弁明を行わずに絞首刑の判決を受けました。広田のおかげもあり、昭和天皇を始めとした多くの人達に戦争責任が追求される事はなかったのです。
広田弘毅の名言・座右の銘
外交に日曜なし
外交官時代に休日の過ごし方について聞かれた時の返答です。広田がまさに休日返上で外交に取り組んでいた事が分かります。
すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何も言うことは事実ない。自然に生きて自然に死ぬ
絞首刑前に広田が残した言葉です。広田は戦争責任を感じ、死ぬ事に対して達観していた事が分かります。その様子からも評論家の唐木順三から「態度が出来ている」と評されました。
物来順応
広田の座右の銘であり、意味は「向こうから来るままに応じること」です。これは受け身に生きるという意味ではなく、「今ある事に全力を注ぐ」「与えられた役割を全うする」等の能動的な生き方を表しています。
広田は文字や書画をお願いされた時に、よくこの座右の銘を書いていました。
広田弘毅の人物相関図
こちら広田弘毅内閣の閣僚達です。陸軍大臣の寺内寿一は広田に圧力をかけ、次々と軍部の要求を突きつけていくのです。
広田弘毅にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「令嬢の娘との縁談を断り、地元の幼馴染と結婚した」
広田は前述した通り、地元の幼馴染である静子と結婚しましたが、実は直前に見合いの打診がありました。相手はなんと三菱財閥・岩崎弥太郎の娘であり、もし縁談がまとまれば広田は出世コースに乗る事ができたのです。
出世ではなく幼馴染を大切にした事は、広田の優しさを証明するエピソードではないでしょうか?広田と静子は生涯仲が良かったと言われています。
ちなみに広田の上司にあたる幣原喜重郎は岩崎弥太郎の四女と結婚。当時の外務大臣である加藤高明もまた長女と結婚した事もあり、幣原はどんどん出世をします。広田は血縁ではなく、自らの努力でのし上がっていくのです。
都市伝説・武勇伝2「実は右翼団体「玄洋社」の社員だった?」
悲劇の宰相と呼ばれる広田ですが、実は右翼団体「玄洋社」の社員でした。玄洋社は頭山満を総裁とし、アジア主義(アジアの革命勢力を支援し、日本を盟主にして西洋列強に対抗する考え)を掲げる団体です。
玄洋社は日清戦争や日露戦争、太平洋戦争に至るまで情報収集や裏工作に関与する等、日本に大きな影響を与えてきました。有名な事件として玄洋社社員の来島常喜が、大隈に爆弾を投げつけた事件が挙げられます。
玄洋社という団体を連合国は警戒していたようで、広田の絞首刑判決に繋がったとも言われます。また昭和天皇も広田の事を「玄洋社出身の人物」と明確に述べており、批判的な評価をしていたそうです。
今も昔も右翼や左翼、様々な団体が存在しています。これらの団体は私達の知らないところで日本に様々な影響を与えているのです。
都市伝説・武勇伝3「死の間際にバンザイではなくマンザイと言った?」
広田の他にA級戦犯として処刑された人物として東條英機がいます。東條は死の間際に「天皇陛下万歳」と万歳三唱をしていますが、広田はそれを見て以下のように言ったという噂があります。
いま、「マンザイ」をやっていたのでしょう
万歳三唱する東條達を「漫才をしている」と述べたのであれば、痛烈な批判や皮肉とも取れる発言です。真意は分かっておらず、「バとマの聞き間違い」や「処刑される事への皮肉」「単なる冗談」等の説があります。
ただ処刑に立ち会った僧侶花山勝信によると、広田も三唱をして処刑に立った事は間違いないようです。その時に「バンザイ」と言ったのか、「マンザイ」と言ったのかは定かではありません。
果たして広田は何を思い、処刑台に立ったのでしょうか。