広田弘毅はどんな人?生涯・年表まとめ【内閣時代の政策や座右の銘、死刑判決の理由を紹介】

広田弘毅の年表

1878年 – 0歳「広田弘毅誕生」

広田弘毅像

石材屋の息子として生まれる

広田弘毅は1878年に石材屋を営む徳平とタケの息子として生まれます。幼少期の名前は丈太郎でした。教科書を買えない程貧しかったという話もありますが、真相は不明です。

玄洋社との繋がり

都市伝説・武勇伝2の項目でも解説しましたが、広田はアジア主義を掲げる右翼団体「玄洋社」と深い繋がりがありました。幼少期から玄洋社の経営する柔道場で鍛錬を積み、玄洋社社員の語る理想や構想を耳にしています。

父の徳平は、玄洋社の社員の来島恒喜に立派なお墓を建てています。来島恒喜は大隈重信の政策に立腹して爆弾を投げ込んだ人物でした。広田の外交政策には、玄洋社の思想も影響を受けていたとされます。

1895年 – 17歳「外交官を志す」

日清戦争の様子

三国干渉への衝撃

広田は家計への負担を考え、学費のかからない陸軍士官学校に進学する予定でした。しかし1895年に起きた三国干渉に衝撃を受け外交官を目指します。当時の日本は日清戦争で勝利して、清国と下関条約を締結していました。

三国干渉とは「遼東半島を清国に返還するようにロシア・ドイツ・フランスが日本に行った勧告」です。日本は武力で清国に勝利したものの、まだ列強には及ばない立場であり、日本は泣く泣く遼東半島を手放します。

もし日本が列強と根回しをしていれば、三国干渉もなかったかもしれません。広田はこの時、外交の重要性を学んだのです。

弘毅と名乗る

やがて柔道場を卒業する頃、広田は丈太郎から弘毅へと名を変えます。「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力を表しており、論語の一文から採ったものでした。その後の広田は仲間と上京し、勉学の日々を送ります。

1906年 – 28歳「憧れの外交官となる」

後に総理大臣となる吉田茂

外交官試験に2度目で合格する

上京後の広田は旧制一高、東京帝国大学と優秀な成績を収めます。学費は玄洋社の初代社長である平岡浩太郎が提供し、後に総裁となる頭山満から様々な人物を紹介される等、多くの人達に期待されていました。

1905年に一度外交官試験を受けるものの、その時は落第し、翌年に首席で合格。広田が外交官を目指して11年が経過していました。ちなみに同期には後に総理大臣となる吉田茂がいます。

吉田は後に広田内閣の外務大臣に推薦されたり(軍部の反対で失敗)、広田が戦犯として逮捕された時にマッカーサーに詰め寄る等、生涯を通じて関わりがありました。

1907〜1930年 – 29〜52歳「外交官として各国を飛び回る」

ソ連の国旗

中国やロンドン、アメリカに赴任する

1907年には北京に在勤し、翌年にはロンドンに行く等、忙しい日々を送ります。1913年に起きた第一次世界大戦では、大隈重信が中国に対して「対華21ヶ条要求」を叩きつけるものの、内容に対しては反対を述べています。

1919年にはアメリカの首都であるワシントンD.C.に赴任。当時の大使は幣原喜重郎でしたが、相性は良くなかったそうです。幣原は出世を続け、1924年の加藤高明内閣で外務大臣となり「協調的な幣原外交」を進めています。

日ソ基本条約締結に尽力する

1923年には広田は欧米局長という地位につき、幣原外交に則った外交政策を進めます。国交を断絶していたソ連との国交回復に尽力。1925年に日ソ基本条約の締結を達成したのです。

その後の広田は1926年にはオランダ公使、1930年には駐ソビエト連邦特命全権大使に就任しました。なおこの就任は幣原と折り合いがつかなかった事による左遷とも言われています。

1931〜1933年 – 53〜55歳「満州事変の勃発と外務大臣就任」

満州事変の様子

満州事変勃発

1931年9月18日に石原莞爾ら関東軍が柳条湖事件を発端に満州を占領し、満州事変が勃発。若槻禮次郎内閣は不拡大方針を取り、幣原喜重郎は各国の大使に「政府は満州から軍を直ちに撤兵させる」と通達するよう要請します。

ただ広田は幅広い人脈から「兵はすぐに撤退しない」とに考え、ソ連に「やむを得ない事態で軍は満州を占領している」と報告。結果的に関東軍は満州から撤退せず、各国の大使は信頼を失う中で広田のみが信頼を保ちました。

斎藤実内閣の外務大臣となる

1933年3月には日本は満州事変の是非を巡り国際連盟を脱退する等、世界から孤立していきます。そんな状況下で広田は同年9月に斎藤実内閣の外務大臣に就任しました。

広田は「対米英協調・中華民国との融和」というバランス感覚の必要な外交政策を取ります。更に外務省内の派閥争いを解決するべく、確執により退官していた有田八郎等をベルギーに派遣する等、大胆な人事改革を行っています。

1934〜1936年 – 56〜58歳「岡田内閣の外務大臣を務めつつ、徐々に軍部の圧力に屈する」

続く岡田内閣でも広田は外務大臣を務めた

岡田内閣の外務大臣となる

1934年7月には岡田啓介内閣が発足し、広田は引き続き外務大臣を務めます。広田はソ連を相手に複雑な外交をこなしつつ、1935年1月の議会では自らの外交を「協和外交」と表現。議会でこのように述べました。

私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります

更に広田は中華民国の使節を公使から大使に昇格に引き上げます。しかしこれは軍の許可なく行われたものであり、軍はそれに反発。「梅津・何応欽協定」「土肥原・秦徳純協定」等の協定を外務省の許可なく結ぶのです。

広田外交の挫折

5月に広田は中国政府との提携を具体化する為の構想を練ります。中国側は「日中関係の平和的解決・対等の交際・排日の取締」という内容を日本に提示。しかし広田は納得せず、1936年1月に広田三原則を定義します。

内容は以下の通りです。

  • 排日言動の徹底的取締り
  • 満州国独立の黙認および満州国と華北との経済的文化的な融通提携
  • 赤化勢力の脅威に対する共同防共

広田三原則は対中国外交の大枠になるものの、日本側の一方的な要求の意味合いが強く、中国側からは失望されます。軍の一方的な協定や、広田三原則の影響もあり、「協和外交」に陰りが見えてきたのです。

1936年 – 58歳「内閣総理大臣に就任」

外務大臣のころの広田

広田内閣の発足

2月26日に二・二六事件が勃発し、岡田内閣が退陣すると広田に組閣大命が下ります。昭和天皇は「広田は血縁関係に大物がおらず、軍部を抑えられない」と不安視していたようです。昭和天皇は広田に以下の4か条を伝えます。

第一に憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。
第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。
第三に財界に急激な変動を与えることのないように。
第四に名門を崩すことのないように

一から三までの注意は歴代の総理大臣に伝えており、そこまで重要ではありません。ただ「名門を崩すことのないように」という注意は広田のみに伝えられたものです。

これは広田の出自ではなく、問題になっていた「貴族院という特権身分への改革に慎重になるように」という意味だとされますが、真相は不明です。陸軍などの様々
な横槍が入りつつ、3月9日に広田内閣は発足しました。

1936〜1937年 – 58〜59歳「軍部の圧力に屈する」

広田弘毅内閣

様々な要求を呑む

広田は就任直後に二・二六事件を起こした陸軍将校に大規模な粛清人事を断行するものの、結局は軍部に屈していきました。5月には「軍部大臣現役武官制」が復活した他、8月に「国策の基準」を決定します。

国策の基準は陸軍の要求する「大陸進出」や海軍の要求する「東南アジアへの進出」を承認するものでした。また華北地方を中国から切り離す「華北分離政策」を行い、中国だけでなくアメリカ等からも対立を深めます。

11月にはソ連に対抗する為、ドイツと「日独防共協定」を締結。後にアメリカとの仲が決定的に悪くなる「日独伊三国同盟」の元になります。広田内閣は翌年1月に総辞職しますが、日本の軍国化へのレールを敷いたのです。

一方でこんな政策もあった

軍部の要求を広く受け入れた広田内閣ですが、一方で国民の生活に直結するような以下の政策も行われました。

  • 義務教育の期間を6年から8年に延長
  • 母子保護法の制定
  • 地方財政調整交付金制度の設立

更には科学技術や文化の発展に功績を与えた人物に対し、「文化勲章」を授与する事が決められたのも広田内閣の時代です。国民に寄り添った政策が行われた事も覚えていて欲しいですね。

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