「東インド会社ってなんのこと?」
「各国の東インド会社について詳しく知りたいなぁ」
「いろいろな国で東インド会社ができたけど、どんな順番で設立されたんだろう?」
この記事を見ているあなたは、このように思っているのではないでしょうか。
東インド会社とは、17世紀に各国で設立された貿易会社のことです。国がそれぞれ特色があるように、東インド会社も国によって特徴がありました。政府の影響を強く受けたり、植民地の統治機関になったりとバラエティ豊かです。
本記事では、そんな東インド会社について詳しく解説します。東インド会社とはそもそもどういったものなのかから設立の背景や、東インド会社の歴史を紹介します。
また、各国の東インド会社の特徴や影響、現代の状態についても解説しますので、ぜひ参考にしてください。
東インド会社
東インド会社とは17世紀初頭に設立された貿易会社
東インド会社とは、インドやアジア地域との貿易独占権を国から与えられた民営会社です。重商主義(貿易により国を豊かにすることを目的とした思想)国家の経済活動において重要な役割を果たし、各国で同様の名前の会社が設立されました。
東インド会社の特徴
社名の東インドは現代のインドではない
社名にインドと入っているのを見ると、インドと貿易をしていたように思えます。しかし、実は社名の東インドは、インドだけを指しません。
当時、東インドというのはインドから東の地域を表す言葉でした。そのため、想像よりもずっと広い範囲(アジアも含まれる)で貿易をしていたのです。
現代の一般的な会社とは違う
東インド会社は、現代のように出資者からお金を募り、得た利益を分配するといった一般的な企業ではありません。それらの機能を備えつつもさまざまな権限を国から与えられた、準国家組織とも言えます。それぞれの国ごとに詳細は異なりますが、東インド会社は次のような権限を持っていました。
- 東インドとの貿易を独占する権利
- 東インドで要塞を建設する権利
- 兵士を雇用する権利
- 総督を任命する権利
- 貿易先の支配者と条約を結ぶ権利
兵士を雇う権利も、外国で要塞を建設する権利も、現代の一民営企業では考えられないですよね。そのような権利を東インド会社は許されていました。
東インド会社はいくつもある?設立の目的とは
東インド会社は、東方と交易するのを目的に設立された会社です。
東インド会社が設立された17世紀は、コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマによって世界地理についての知識が大きく広がった時代です。これにより今まで不明確だった
- 西ヨーロッパから東方への具体的な航路
- 交易によって生み出される富についての情報
が手に入るようになりました。
当時、東インドへの航路「喜望峰」はポルトガル王国によって規制されていましたが、それをかいくぐって各国は交易をするようになります。しかし、東インドへの航海には個人ではまかないきれないほど莫大な資金が必要だったため、誰もが交易をできたわけではありません。しかも、利益が入るのは半年後です。
しかし、諦めるには誰にとっても魅力的すぎる事業でした。そこで生まれたのが東インド会社です。金融業者とお金に余裕のある商人が創設し、資金の問題を解決することに成功したのです。
こういった流れが国力のある各国で起こり、同時代に東インド会社という名前の組織があちこちに生まれました。ただし、国によって特色がある会社で、中には国が設立・運営した会社もあります。
東インド会社と日本の関係
東インド会社と日本の関係は取引先です。複数ある東インド会社の中で、特に日本と関わりがあったのがオランダとイギリスでした。
先に日本を訪れたのはオランダ東インド会社です。1609年、日本に初めてやってきたオランダ東インド会社は、徳川家康の許可を得て長崎県の平戸に商館を開設しました。少し遅れて1613年にはイギリスがやってきて、平戸に同じく商館を立てます。
しかし、1623年の「アンボイナ事件」でイギリスはアジアから撤退し日本との交易も取りやめました。さらに1637年の島原の乱が起こると江戸幕府はキリスト教を布教しにきたポルトガル人たちを追放してしまいます。
結果、西ヨーロッパの列強はオランダだけが残り、200年に渡って日本と交易します。
オランダ東インド会社は多様な貿易品(薬・砂糖・香辛料・ガラス・織物・書物・地球儀など)を日本にもたらしました。また、オランダ東インド会社から伝えられる海外情勢は、鎖国をしていた江戸幕府にとって貴重な情報源でもありました。
これらのものを提供したオランダ東インド会社に対し、日本は金や銀、銅、陶磁器、漆器などを輸出しました。特に銀は質が良く、貨幣の材料として広く使用されます。また、伊万里焼きなどの芸術性が高く評価され、ヨーロッパの芸術に少なくない影響を与えました。
植民地の行政を担った「イギリス東インド会社」
イギリス東インド会社は、アジア各地との貿易を目的に設立された民営会社です。エリザベス1世からアジア貿易の独占権を与えられ、世界で最も早く東インド会社として貿易を開始しました。ここでよく勘違いされるのですが、イギリス東インド会社は国営ではなく、民営会社です。
会社を設立したのはロンドンの商人たちで、エリザベス1世はそれを許可し貿易独占権を与えただけです。あくまでも、貿易をしたかったのは商人たちで国王や政府には、自ら貿易会社を作ろうという意志はありません。
イギリス東インド会社の特徴
東インド会社は国ごとに特徴があります。イギリス東インド会社は次の2点の特徴がありました。
- 1航海ごとに資金を集めた
- 民営の貿易会社からインドの行政組織へと変化した
イギリスの東インド会社は、1回の航海ごとに資金を集めていました。この方式は、簡単に言うと航海の予定が決まってからお金を集める仕組みです。そのため、航海に出るのに時間がかかりました。
なぜこのような方式にしたのかと言うと、すでにロンドン商人たちが地中海での東方貿易のための会社を設立しており、それを参考にしたからです。この仕組みは企業の存続という点では不十分な体制であり、1602年設立のオランダ東インド会社との貿易競争での敗因となりました。
貿易競争での負けは、2つ目の特徴である「貿易会社から行政組織への変化」に繋がります。
オランダとの貿易競争に負けてしまったイギリスは、インドとの貿易に集中することにしました。初めはあくまで貿易のみでしたが、フランス東インド会社が貿易競争に加わると戦争が勃発し、軍事的に強化されます。
戦争に勝利するとイギリス東インド会社は政府の管理下におかれ、インドの統治組織へと変質したのです。
イギリス東インド会社がイギリスに与えた影響
オランダとの貿易競争に破れてしまったイギリス東インド会社ですが、航海自体は成功をおさめました。この成功は、イギリスの社会と経済に大きな影響を与えます。
経済面では、インド産の布地が流行りイギリスに産業革命をもたらしました。また、航海のための資金を募る株式の取引も行われるようになります。
社会面ではネイボッブと呼ばれる新たな層が出現します。ネイボッブとは、18〜19世紀にかけてインドで大金持ちになって帰国したイギリス人のことで、一言で表すと成金のことです。この先駆けとなったトマス・ピットはダイヤモンドの採掘で大金を稼ぎ、イギリス各地で土地を買いました。
さらに、トマスはお金の力で何度も国会議員となります。そしてトマスと同じように、インドで大金持ちになった人々も続きました。もちろん、このような方法で国会議員となったトマスら成金の評判は芳しくありませんでした。
このように、イギリス東インド会社は良くも悪くもイギリス全体に影響を与えました。
世界初の株式会社「オランダ東インド会社」
オランダ東インド会社の特徴
オランダ東インド会社は1602年に設立された貿易会社です。イギリスに遅れをとりましたが、アジアとの貿易競争に勝利し、日本と最後まで交流を持ちました。オランダ東インド会社はイギリスと同じく、国の政府から貿易の独占権を認められた会社です。この会社の特徴は3つあります。
- 世界初の株式会社
- 正式な本社を持たない
- 取締役が牛耳っていた
まず「世界初の株式会社」というのは、イギリスと違いオランダ東インド会社は1回の航海ごとに資金調達・精算が行われるのではなく、恒常的に資金を得ていました。航海の出資金についても、オランダ東インド会社はイギリスの約10倍の資本金で始まっており、スタートから差をつけています。
というのも、すでに東方への航海に成功した実績があったため、出資者にとっては安心してお金を出せる投資先だったのです。
また株主は負担に対するリスクに定めのない無限責任ではなく、出資した分だけの責任を持つ有限責任になっています。さらに出資者は直接会社に出資し、株式の譲渡は自由となっており、現代の株式会社と同じ性質をすでに持っていました。
次に「正式に本社がない」というのは、オランダ東インド会社は複数の貿易会社(アムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ゼーラント、ロッテルダム)で構成されている会社でした。そのため正式な本社はなかったのです。
しかし、出資額が最も多いアムステルダムの支社を本社として利用していたようです。
最後に「取締役が牛耳っていた」というのは、オランダ東インド会社は大口の出資者76名が重役として活動しており、取締役はその中から17人を選んでいました。選ばれた17人は取締役会を構成し、会社全体の方針を決定しました。
彼らには、イギリス東インド会社と同様に
- 現地国との条約締結
- 戦争の遂行
- 要塞の建築
- 貨幣の鋳造
の権限が与えられていました。
設立の背景
オランダ東インド会社も国ではなく商人たちによって設立されました。当時のオランダには、すでに東方と貿易する会社が複数存在しており、互いに競争をしていました。
しかし、複数の会社が東南アジアとの貿易を本格化させたため、香辛料の需要が高まってしまいます。結果、東南アジア現地の香辛料は購入価格が急激に高くなりました。さらに、オランダ国内で会社同士が価格競争を行い、香辛料の価格が下落していました。
苦労の割りに利益が上がらなくなってしまったんですね。こうなると貿易の魅力はどんどん落ちてしまい、経済に悪い影響が出てしまいます。このままでは外国との経済競争で生き残れないかもしれない、という不安が生まれました。
さらに、1600年にはイギリスで東インド会社が誕生し、不安がよりいっそう高まります。このような背景があって政治家オルデンバルネフェルは、商人たちとの交渉の末、複数の貿易会社を1つにまとめた「オランダ東インド会社」を設立させたのです。
茶をイングランドに密輸した「デンマーク東インド会社」
デンマーク東インド会社は、インド貿易を目的に1616年にクリスチャン4世によって設立されました。デンマーク東インド会社の特徴は2つです。
- 2度解散し、再建した
- 茶をイギリスよりも多く輸入し、密輸して利益を得ていた
デンマーク東インド会社は2度解散し、再建しました。1度目はデンマークの戦争参加によって解散し、2度目についてはわかっていません。1670年に再建し、アジア会社として清と広東を相手に貿易を行いました。
また全盛期にはイギリス東インド会社よりも大量の茶を輸入し、約90%をイングランドに密輸して巨大な利益を得ていました。
国の影響が強かった「フランス東インド会社」
フランス東インド会社は、隣国のオランダとイギリスの後を追う形で1604年にアンリ4世によって設立されました。しかし、貿易競争に負けてしまい、1664年まで放置されます。そんなフランス東インド会社の特徴は2つです。
- 貿易対象は世界各地
- ほぼ国営の貿易会社
他の東インド会社が主にインドやアジアを相手に貿易をしたのに対して、フランスは世界各地と取引をしました。
またイギリスやオランダと違い、フランスは国によって設立された国営の貿易会社でした。フランス東インド会社は、他国と比べて再建と解散を多く繰り返しているのですが、国の影響を強く受けていたため、ほとんどが国に振り回される形でした。
小規模経営だった「スウェーデン東インド会社」
スウェーデン東インド会社は、1731年に民間の会社によって設立された貿易会社です。主に中国との貿易を目的とした会社で、特徴は次の2点です。
- 植民地戦争に巻き込まれなかった
- 貿易範囲は小規模だった
当時、スウェーデンは植民地を保有しておらず、イギリスやフランスと違いヨーロッパの植民地戦争にほとんど巻き込まれませんでした。むしろ、中立の立場を取っていたスウェーデンに取って植民地戦争は、経済発展に良い影響を与えます。
代わりに他国と比べると小規模な会社で、軍事力も備わっていませんでした。貿易範囲も狭く、主に中国やイギリスと取引をしていました。しかし、たとえ小規模であってもスウェーデン東インド会社の活動はスウェーデンの経済を支え、学芸や文化の発展を促しました。
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