1719年 – フランス 国営貿易会社を統合し、インド会社として再スタート
1669年から、インド貿易を軌道にのせたフランス東インド会社ですが、本国では1680年からインド貿易は赤字続きでした。そのため1684年に会社は解散しました。
しかし、1685年にコルベールの息子セニュレー伯爵によって会社は再建。新東インド会社が誕生します。今回、国王らは出資せず、大臣や商人が主体となって資金を出しました。
国王らの出資がなかったことにより、以前の東インド会社と違い国王の指図を受けなくなったため事業は繁栄しますが、1693年の英仏植民地戦争により、拠点のポンディシェリをオランダ軍に占領されてしまいます。
その後、経営危機から立ち直ることができず、東インド会社は足らなくなった資金を国王に出してもらおうと請願しましたが、結果的に2回目の解散をすることになってしまいます。
2回目の解散を迎えたフランス東インド会社ですが、1719年になると名前を変えて再建されます。
ルイ15世が即位し、幼い王に変わってオルレアン公が政務を執り行うようになりました。オルレアン公は経済学者のジョン・ローの大規模開発を政策に取り入れ、1719年にフランスが展開していた全ての国営貿易会社を統合し、インド会社としました。
しかし、インド会社の株式と王立銀行の銀行券を統合したことにより、急速な投機を招いてバブル経済が発生。1720年にバブルが弾けて株価が急落すると恐慌が起こり、経済は混乱状態に陥りました。
結果的に、インド会社を設立したジョン・ローは財務大臣から失脚し、インド会社は王立銀行から切り離されました。そして1731年、インド会社はアフリカとルイジアナの貿易を中止し、東方貿易に専念することを決定します。インド会社は、再び東インド会社としてスタートを切りました。
1731年 – スウェーデン東インド会社設立
スウェーデン東インド会社は1731年に中国との貿易を目的として設立されました。本拠地はイェーテボリにあり、スコットランド人やネーデルラント人など外国人が組織の中心となりました。
同じ時代の東インド会社と比べると小規模で、交易線は数隻しかなく、さらに軍事力も持ちませんでした。
貿易競争が盛んでしたが、スウェーデンは植民地を持たなかったため中立国として活動していました。そのため、戦争が起これば商品を売り、その利益を得ることでスウェーデンの経済発展を促しました。
1760年 – 戦争により壊滅的打撃を受けるフランス東インド会社
再始動したフランス東インド会社ですが、インドの状況は会社にとって好ましいものではありませんでした。
インドではカーナティック戦争が始まっており、総督のジョゼフがカーナティック同盟を結んで南インドを傘下に加え、イギリス勢力を圧倒していました。しかし、アジアでの出費を嫌った政府がジョゼフを本国へと召還してしまい、戦局は一気に劣勢へと傾いてしまいます。
結果的にフランス商館のあったシリアム港はコンバウン朝によって占領されてしまい、救援に向かったフランス船2隻が奪われ、フランス兵200名が捕虜となってしまいました。
さらにヨーロッパで戦争が始まると、インドでもイギリスとの戦闘が再び始まり、プラッシーの戦いで大敗してしまいます。
ついにインドでの本拠地ポンディシェリをイギリス軍に奪われ、1763年のパリ条約でインド植民地のほとんどを失いました。しかし、かろうじて南インドのポンディシェリとシャンデルナの非軍事的な拠点を占有することは許されました。
ですが、会社の船舶は大半がイギリスに拿捕されてしまい、会社は破滅的な打撃を受けてしまいます。
〜1772年 – 統治組織へ変わっていくイギリス東インド会社
1639年から1750年にかけて、イギリスはインドで勢力を着々と拡大していきました。なかでもベンガルは、会社が求めていた産物が集まる重要な拠点となります。
この頃のイギリス東インド会社はあくまでインド貿易の独占が目的でした。しかし、インドの情勢により変質を余儀なくされます。当時のインドでは、ムガル帝国の皇帝が亡くなりあちこちの地方で王朝が建国されました。
さらに、フランス東インド会社が登場し、ポンディシェリを支配してしまいます。
また1757年、イギリスやフランス、オランダの争いや活動を快く思っていなかったベンガル太守がイギリスの要塞へ攻撃を行いました。これにより、プラッシーの戦いが勃発します。
プラッシーの戦いでベンガル太守は殺害され、新たにミール・ジャアファルが太守に就任しました。ミールはイギリスと密約を結んでおり、前太守を裏切ってイギリスに差し出したのです。結果、イギリス東インド会社は、ベンガルの政治に大きな影響力を持つに至りました。
その後1765年、イギリス東インド会社はインド連合軍との戦い(ブクサールの戦い)に勝利します。その戦いの講和条約アラーハーバード条約で、イギリスはインド3州(ベンガル・オリッサ・ビハール)の州財務長官の職務と権限を得ました。
これによりイギリス東インド会社は税収を得られるようになりました。しかし、その後イギリス東インド会社の財政は、配当金の引き上げや主力製品の売れ残りなどにより支出が収入を上回り大赤字になってしまいます。また、貿易のみをしていたイギリス東インド会社は行政に関する知識がまったくないという問題までありました。
これを見かねたイギリス政府は1772年にウォーレン・へースティングを初代ベンガル総督に就任させ、同時に東インド会社を政府の管理下におき、行政業務を義務付けます。
総督に就任したへースティングは、インドの習慣や制度をできる限り崩さないうえで、イギリスの法律をインド人の生活や社会、国家の問題に適用することをインド統治の方針にしました。そして次の3つの改革を行います。
- 法体系の整備
- 徴税制度の整備
- 軍備の増強
この3つの改革により、東インド会社軍はみるみる大きくなっていき、1789年には10万の陸軍を所有してなお増え続けました。
1795年 – フランス 革命戦争により解散
会社の船舶をイギリスに拿捕されてしまい、解散の危機に立たされたフランス東インド会社ですが、銀行家のジャック・ネッケルにより再建資金が集められました。しかし、当時広まっていた自由貿易論社の批判により、会社が持っていた貿易独占権は停止されてしまいます。
これにより、インド貿易は誰もが自由に行えるようになりました。会社と国家の関係も整理され、会社は所有していたすべての植民地や不動産、船隊、船員などを国王に譲渡し、国は会社の債務を引き受け、東インド会社へ年利1200万リーブルを支払うことになりました。
結果、東インド会社は貿易会社ではなくなり、船団をアジアへ派遣する窓口となります。莫大な負債を清算し、東インド会社の歴史は終焉を迎えるはずでした。
しかし、1785年財務総監カロンヌが王室の財政赤字を補うために新インド会社を設立し、事業を再建させました。
旧会社の特権をそのまま引き継いだ新インド会社の事業は成功していました。
しかし、1790年に憲法制定国民議会(フランス革命初期に三部会から離脱した平民議員を中心としてできた議会)で東インド会社の持つ特権が議題に上がり、新インド会社の持つ特権は、商業の発展を妨げているという理由により廃止されます。
その後、貿易拠点は残っていましたが、1792年に始まったフランス革命戦争により、インドの拠点がイギリス軍に占領されてしまいます。加えて、海上をイギリスによって封鎖されてしまったため、フランスの貿易活動は停止しました。
そのような状況のなか、新インド会社の清算は進み、1875年5月に開かれた最後の株主総会で残っていた資産を分配して会社の歴史に幕を閉じました。