東インド会社とは?イギリスやオランダなど会社設立の歴史や特徴を詳しく解説

各国の東インド会社の歴史

1600年 – イギリス東インド会社設立

世界に先駆けて東インド会社を設立したイギリス。しかし東方への航海の実績がなく、仕組みも不十分でオランダよりも資金が集まらなかった

世界各国の中で最初に東インド会社を設立したのはイギリスでした。東方との香辛料貿易を目的に設立された会社ですが、貿易自体は設立以前にも行われていました。

イギリス東インド会社の設立の背景は、すでに存在していたレヴァント会社が東方と直接貿易をするためです。当時、レヴァント会社は東方との貿易を間接的に、独占的に行っていました。しかし、1595年にオランダがジャワ島への船団派遣を成功したため、東方貿易の独占を奪われる恐れがありました。

ただ、1社だけでは航海技術・資金の面でリスクが高かったため、レヴァント会社は航海ごとに資金を出資する形で東インド会社を設立しました。

1602年 – オランダ東インド会社設立と貿易競争

東インド会社発足前に、アジアへの貿易を成功させていたためイギリスようも多くの資金が集まった

イギリス東インド会社の設立やスペインとの対立もあり、諸外国との経済競争を生き残るうえで不安が増えました。この危機に対抗するため、オランダの政治家オルデンバルネフェルトは複数の商社をまとめ、オランダ連合東インド会社を発足。

これにより、イギリスとオランダの間で貿易競争が発生しました。設立したばかりのオランダ東インド会社はインドネシアにおける香辛料貿易を目的に、マラッカを拠点にしていたポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦います。

オランダは順調にアジアの貿易拠点を増やしていきました。さらにイギリスとの貿易競争に集中するため、1612年にスペインとの間で休戦協定を締結し、イギリスと対立する意思を明確にします。

しかし、次第にオランダはイギリスと対立する余裕がないことに気づいて1619年にイギリスと休戦協定を締結しました。これで貿易争いは終わったように思えましたが、休戦協定を結んだのは本国です。

オランダ東インド会社はこの条約に納得しておらず、取り決めを無視して取引を行いました。

1616年 – デンマーク東インド会社設立

インド貿易を目的に設立されたが、1回目の航海では多くの犠牲が出た

デンマーク東インド会社は1616年に、クリスチャン4世により設立されました。インドとの貿易を目的にギデ提督の指揮で最初の航海に出ますが、セイロン島へ到達するのに2年かかってしまいます。しかも乗組員の半分以上を失ってしまい、多くの犠牲が出ました。

1620年にようやくセイロン島へ到着しましたが、島の大部分はポルトガルに支配されていました。しかし、幸いなことにキャンディ王国との条約締結に成功し、島の東海岸にあるトリンコマリーを植民地として得られました。

デンマーク東インド会社はキャンディ王国の助けを借りて砦の建設に成功します。

1623年 – アンボイナ事件が起こる

オランダとの貿易競争に負け、インド中心の貿易に舵を切った

オランダとの対立は終わったかに思われましたが、国同士のやりとりは成功しても、現場の会社員たち、特にオランダは納得していませんでした。そうして1623年、アンボイナ事件が起こります。

モルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社の商館を、オランダが襲撃し、商館員が全員殺されてしまったのです。

この事件によりイギリスの香辛料貿易は頓挫し、アンボイナ島はオランダの手に渡ります。イギリスは東南アジアから撤退し、インドやイランへ活動の中心を移すこととなりました。

アンボイナ島におけるイギリスとオランダの領土を描いた銅版画

一方オランダは、貿易先を拡大していきます。ジャワ島のマタラム王国や中国、さらに日本と取引することに成功し、オランダの貿易は順調そのものでした。特にオランダは欧州諸国で唯一、鎖国中の日本との交易ができ、そこから得る利益は会社全体の7割に達しました。

1657年になると、イギリス東インド会社は出資の方式を変えました。というのも、1回の航海ごとに出資者を募り、売り上げすべてを出資者に返却する方式では、継続的に経営を行っているオランダ東インド会社に対抗できなくなってきていたからです。

そこでイギリス東インド会社は、2つの方式をもうけます。1つ目は航海で得た利潤のみを株主に分配する方式にしました。2つ目は株主が会社経営に参画できる総会方式を採用しました。現代の株主総会の原型ができた瞬間です。

1650年 – デンマーク東インド会社の最盛期と解散

貿易先はインド北西部からインドネシアにまで広がった。

イギリスとオランダの貿易競争に決着がついた頃、デンマーク東インド会社は最盛期を迎えていました。

1624年から1636年の間に、デンマーク東インド会社の貿易先が広がります。インド北西部のスーラトから東のベンガル、インドネシアのジャワ、ボルネオ島にまで拡大し、商館は南インドのマチリーパトナムやスーラ、インド北東のバーレーシュワル、ジャワ島に建てられました。

全盛期ではイギリス東インド会社よりも大量の茶を輸入し、その90%をイギリスに密輸して巨大な利益を得ていました。

順調に利益を上げていたデンマーク東インド会社ですが、ヨーロッパの戦争にデンマークが参加すると会社は消滅してしまいます。インドとの貿易は1643年から25年間停止し、1669年に再開しました。しかし、デンマークの拠点はトランケバルを残して、すべての拠点を失ってしまいました。

1664年 – フランス東インド会社設立

1604年に設立されたが、うまく行かず本格的な活動は1664年からだった

フランス東インド会社は1604年にアンリ4世によって設立されました。インド貿易でオランダとイギリスの独占に対抗するための組織でしたが、貿易競争に負けて設立早々に機能を停止します。

フランス東インド会社が本格的に始動したのは1664年のことです。貿易により国を豊かにする思想に傾倒していた財務総監コルベールにより再組織されました。ルイ14世からも認可を受け、国営の貿易会社となったフランス東インド会社は植民地経営と商業利権の獲得を目指して世界各地に手を伸ばし始めます。

1665年、準備を整えたフランスは1回目の航海に出ました。初の航海は比較的小規模なもので、300トンの商船が3隻と軍艦からなる船団でした。しかし、フランス初の航海は失敗に終わります。

当時は海上貿易の主導権を巡って第二次英蘭戦争が勃発していました。海上での戦闘が起こっており、フランスは運悪くそのあおりを受けてしまい帰り道でイギリスに船を1隻沈められてしまいました。

この出来事はフランス国内で報道され、会社の信用は落ちてしまいます。失敗してしまったため資金が集まらず、3回目の航海を迎える頃には資金難に陥ってしまいました。

インド貿易の拠点となったポンディシェリ港

1669年、フランス東インド会社はインド貿易に舵を切ります。インド貿易は順調に進んでいきます。そして、1672年にフランス東インド会社は、インド藩王からインド東海岸のポンディシェリを与えられます。これにより、フランスはインド貿易の拠点を得ることに成功しました。

1670〜1779年頃 – デンマーク東インド第二会社とアジア会社の設立と解散

東インド会社からアジア会社に名前を変え、中国を中心に貿易した

1度解散したデンマーク東インド会社ですが、1670年に再び設立されました。しかし、1729年に解散し、1730年にアジア会社として再建され、清と広東で貿易を開始します。

また1732年に与えられた勅許により、アジア会社は喜望峰より東の地域で、デンマークの全貿易を40年間独占することが認められました。

1750年までの20年間で27隻の船が送られ、22隻がコペンハーゲン(デンマークの首都)に戻る旅を生き延びます。しかし40年後の1772年に会社は独占権を失い、1779年にデンマーク領インドは直轄植民地となりました。

1 2 3 4 5

コメントを残す