1200〜1202年 – 63〜65歳「比企能員の変」
比企能員との対立
1200年4月には時政は源氏以外で初めて国司になる等、他の有力御家人から抜きん出た存在になります。しかしこの頃には「頼家の外祖父である北条氏」と「頼家の妻の実家である比企氏」の対立が鮮明化していました。
比企能員の変
1203年7月に頼家が病に倒れると、幕府宿老達は頼家の家督譲与を頼家の許可なく決定。内容は「弟の実朝」と「息子の一幡」に二分するというもので、頼家と比企氏に対する挑発でした。
比企能員は頼家に「北条時政追討」の許可を得ますが、たまたま障子の向こうにいた政子がこれを聞き、計画が時政に漏洩したのです。時政は政所別当の大江広元に相談した上で、御家人に比企能員追討の命令を下しました。
9月には比企能員は時政邸に招かれ、その場で殺害。報を聞いた比企一族は一幡の小御所に立て籠もるものの、滅ぼされます。一幡も義時の手勢により殺害されました。
比企一族滅亡後、頼家は将軍職を廃された上で幽閉され、翌年には殺害されています。なお、比企能員が「北条時政追討」を得た事自体がでっち上げであるという説も提唱されています。
1203〜1205年 – 66〜68歳「初代執権に就任」
初代執権に就任
頼家の代わりに将軍に擁立されたのは、弟の実朝でした。1203年に時政は執権に就任し、幕府の実質的な最高権力者となったのです。ただこの頃から時政は、他の御家人の恨みを買うような行動が目立ち始めます。
畠山重忠の乱
時政には「牧の方」と言う後妻がいた事は先程述べました。時政は娘婿に平賀朝雅を迎えています。1204年11月の宴会の席で、朝雅と武蔵国の畠山重保と言う有力御家人が口論となった事がありました。
1205年6月に朝雅は「重保から悪口を受けた」と牧の方に讒言。牧の方はこれを畠山重忠・重保の謀叛として、粛清する事を時政に提案します。時政は牧の方の意見に従い、畠山重忠を滅ぼしました。
なお討伐隊に命じられたのは義時であり、義時は時政に逆らえずに乱に加担。後に父と子で対立する原因になったとされますが、これらは全て吾妻鏡に書かれている事であり、義時を正当化する為の脚色だと言われています。
1205年 – 68歳「牧の方事件により失脚」
実朝暗殺計画
畠山重忠は人望のあった人物であり、時政の横暴に反感を持つ御家人が増えていきました。牧の方の要望は更にエスカレートし、娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立する事を時政に提案。時政もそれを受け入れました。
閏7月19日には実朝の暗殺計画が本格的に始動するものの、強硬な行動に政子・義時が反発。2人は実朝を義時邸に迎え入れると共に、多くの御家人が政子・義時に味方をしました。時政の計画は完全に失敗したのです。
翌日には時政と牧の方は出家し、21日には伊豆から追放され、伊豆国の北条へ隠居させられます。更に9月には平賀朝雅も暗殺されました。
1205〜1215年 – 66〜78歳「伊豆の地で死去」
二度と表舞台には復帰せず
その後時政は二度と表舞台には復帰せず、そもそも鎌倉に入る事すら出来なかったと言われます。10年に及ぶ隠居生活の中で、暗殺される事はなく生涯を終えたのは義時や政子の情けだったのかもしれません。
なお、時政失脚後は義時が2代目執権となり、鎌倉幕府での地固めを絶対的なものにしていきます。
生き残った牧の方
ちなみに平賀朝雅が暗殺された後、時政と牧の方の娘は公家の藤原国通と再婚。牧の方はその娘夫婦のもとで贅沢に暮らしたとされます。
1227年には時政の13回忌が行われ、牧の方が一族を引き連れて諸寺詣をする様子を藤原定家が見ており、批判的な内容を明月記に残しています。ある意味で牧の方は誰よりも強くてしたたかだったのかもしれませんね。