北条時政の年表
1138年 – 0歳「北条時政誕生」
謎に包まれた前半生
時政は1138年に誕生した事は判明しているものの、その前半生は謎に包まれています。前述した通り、桓武平氏の子孫と言う点も疑問視する声もあり、地方の小規模な豪族に過ぎなかったのかもしれません。
ただ壇ノ浦の戦いで京都に赴いた時には、後白河法皇に対して「守護と地頭」を認めさせる手腕を発揮する等、京都に強いパイプを持っていた事も伺わせます。
一説では北条氏の先祖は京を拠点にした一族で、時政の祖父・時家の頃から伊豆に移り住んだのではないかと言われています。系譜がはっきりするのも祖父の代からなので、辻褄も合いますね。
いずれにせよ時政が歴史の表舞台に出てくるのは、頼朝が伊豆国に配流されてからになります。
1160〜1177年 – 23〜40歳「頼朝の配流と政子の婚姻・そして挙兵」
頼朝の監視役となる
1159年12月に平治の乱が起こり、頼朝は伊豆国へ配流となります。頼朝は流人ですが源氏の御曹司なので、それなりの扱いと監視役が付く事になり、在庁官人だった時政がその役に任命されました。
政子が頼朝と結婚する
頼朝配流から15年以上が経過した頃、事態は大きく動きます。時政が京都で政務を担当していた頃に娘の政子と頼朝が恋仲となったのです。時政は最初は反対するものの、最終的に結婚を認めます。それは1177年の事でした。
なお「源平盛衰記」によれば、時政は政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させますが、政子は山木の邸を抜け出し、頼朝の元へ走ったとされます。しかし山木が目代になったのは1179年であり、創作の可能性が高いです。
1180〜84年 – 43〜47歳「頼朝の挙兵と亀の前事件」
頼朝の挙兵に付き従う
1180年4月に以仁王が打倒平家の令旨を出すと、頼朝と時政は8月に挙兵します。翌月の「石橋山の戦い」では大敗し頼朝と一旦離れるものの、甲斐国で挙兵した武田信義ら甲斐源氏と合流して仲間に加える事に成功しています。
10月には時政は武田らと「鉢田の戦い」に参戦。駿河国目代橘遠茂・長田入道らとの戦いに勝利しています。これ以降の時政は、東国の武士団の多くが頼朝に付き従った為に目立たない存在となりました。
亀の前事件で激怒し伊豆へ戻る
1182年頃の頼朝は政子を差し置いて愛妾・亀の前を寵愛していました。時政の後妻となっていた牧の方が政子にその事を告げ口すると、政子は激怒して亀の前の住んでいた邸宅を破壊させています。
邸宅の破壊に関与したのは、牧の方の父・牧宗親でした。頼朝は宗親を叱責し、宗親の髻を切って辱めています。舅である宗親への態度に激怒した時政は一族を連れて伊豆に戻っています(義時のみ頼朝のもとに残る)。
時政と頼朝がどのような経緯を経て和解したかは吾妻鏡が欠落している為に不明です。1183〜84年頃の時政はほとんど表舞台に出てきておらず、謎に包まれています。
1185〜1199年 – 48〜62歳「鎌倉幕府の成立」
京都守護として大活躍
1185年の段階では時政と頼朝は和解しており、時政は「守護・地頭の設置」を後白河法皇に認めさせる為、入京しています。時政は京都の治安維持の役目も担い、概ね好評だったようです。
僅か4ヶ月程の入京でしたが、鎌倉幕府における畿内の支配体制を再構築する等の功績を残しました。鎌倉に戻った後の時政は再び表舞台には出ず、奥州合戦の成功を祈り願成就院を建立する等、大人しいものでした。
伊豆での地固めを行う?
鎌倉幕府成立後も時政はあまり表舞台に出てきません。ただ1193年に時政が関与した疑いのある「曽我兄弟の仇討ち」により、工藤祐経が殺害されると状況が変わってきます。
祐経は伊豆国の有力者で、時政は祐経亡き後の伊豆の地固めに成功。1194年には遠江国の守護となり、こちらでも足場を固めました。1199年に頼朝が謎の死を遂げた後は、有力御家人として頭角を表していくのです。
1199〜1200年 – 62〜63歳「鎌梶原景時の変に関与?」
十三人の合議制
頼朝亡き後は2代目将軍の頼家に変わり、十三人の有力御家人による合議制による集団指導体制が始まります。ただこれらは凄惨な勢力争いに変わり、最初に犠牲になったのは御家人統制を担当していた梶原景時でした。
梶原景時の変
梶原景時は立場的に御家人から恨みを買いやすい立場でした。1199年11月に景時は御家人66名による連判状により幕府から追放され、翌月に駿河国清見関にて在地武士により一族もろとも滅ぼされます(梶原景時の変)。
梶原景時の変についても時政が関与していた疑いがあります。
- 景時失脚の原因となる讒言を密告したのは、時政の娘である阿波局
- 景時が滅ぼされた駿河国の守護は時政で、在野武士に顔が効く
梶原景時の変は、北条氏による有力御家人の排除の始まりと言えるものでした。