親孝行が十分できなかったと悔やむほどの家族思いな一面
日蓮は日蓮宗を広めるために波乱万丈の人生を送りましたが、その過密な生涯ゆえに満足に親孝行ができなかったことを悔やむ一面もあったそうです。出家を果たしてからはほとんど実家に帰ることがなかった日蓮は、父の死には立ち会えず、母も危篤状態の時にかろうじて間に合ったというくらいの疎遠さでした。
晩年、佐渡流罪を赦免されて、身延山へこもるようになってからは亡くなった両親の追慕に涙していたというエピソードも残っています。「その恩徳を思えば、父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩なり。その中、悲母の大恩ことに報じがたし」との言葉も残しました。
日蓮の名前の由来
日蓮の名前の由来には比叡山の修行から帰って来た時に経験した不思議な出来事が関係しています。比叡山で12年間の修行を終えて帰って来た日蓮は、清澄寺のお堂にこもって、7日間飲まず食わずで過ごします。断食期間を終えて、早朝に外へ出て合掌したところ、ちょうど登って来た朝日に包み込まれるように照らされたのです。
この時に、のちの本門の題目となる「南無妙法蓮華経」が日蓮の口から自然とこぼれたのでした。この経験を元に、出家時の法名が「蓮長」だった日蓮は、太陽の「日」と合わせて、「日蓮」と名乗るようになったのです。
日蓮の功績
功績1「日蓮宗(法華宗)の開祖」
日蓮は1253年4月28日に日蓮宗を開宗しました。12年間の比叡山での修行を終え、仏教の教えを徹底的に勉強した結果、「法華経」こそ現世の人々を救うお釈迦様の真の教えであると悟り、「南無妙法蓮華経(法華経を心の拠り所として帰依します)」というお題目を唱えたことが日蓮宗の始まりとなったのです。
日蓮宗の布教活動をした当初こそ、世間に受け入れられるまでに多くの苦労と多大な時間がかかりましたが、その甲斐もあり、現在に至るまで750年以上も続く主要な宗教として世の中に浸透していくのでした。
功績2「立正安国論の中で、元寇(蒙古襲来)を予言」
日蓮は1260年に完成させた「立正安国論」の中で、「近いうちに外国からの攻撃を受けることになるでしょう」との予言をしたためました。その予言は8年後の1268年に「蒙古襲来」という形で実現します。
1271年には改めて筆を入れた「立正安国論」を鎌倉幕府へ提出し、蒙古に誠意をもって対応しないと日本が苦しむことになるとの意見を述べますが、この時も受け入れられません。そして、1274年に「文永の役」、1281年に「弘安の役」という2回の強烈な侵攻を受けることになり、日蓮の予想はまたも的中することになるのでした。
功績3「弟子の育成に力を入れ、死後も宗派が派生して拡大」
晩年、日蓮は「立正安国論」を受け入れない幕府を残念に思いながら、身延山へこもる事になります。身延山では8年間を過ごす事になりましたが、その間、国の将来を見据えて、弟子の育成に力を入れました。「南無妙法蓮華経」をより多くの弟子や信徒に広める事を最後の仕事としたのです。
この教育活動のおかげで、日蓮の教えが全国へと広がり、その後現在に至るまで700年以上も続く、日本を代表する宗教へと発展していくのでした。特に6老僧と呼ばれる人物達からは日蓮宗から派生した宗教も誕生し、その宗派によっても日蓮の教義が拡大していく事になったのです。
日蓮の名言
「身つよき人も、心かひなければ多くの能も無用なり。」
意味:どれだけ才能がある人も、人々の幸福のために使わなければ、その能力も意味がない。
「うれしきにもなみだ、つらきにもなみだなり。涙は善悪に通ずるものなり。」
意味:嬉しい時にも涙し、辛い時にも涙をする。善い事にも悪い事にも涙はつきものだ。
「我等が心の内に父をあなずり、母ををろかにする人は、地獄其人の心の内に候。」
意味:自分に命を授け、育ててくれた両親をおろそかにする人間は、その心の中に地獄が存在している。
日蓮にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「草庵焼き討ち、流罪、襲撃事件、斬首の危機などを乗り越える」
日蓮はその生涯の間で、何度も命の危険に晒されました。一番最初は松葉谷の草庵焼き討ちです。日蓮が「立正安国論」を幕府に提出したという噂を聞きつけ、日蓮の教えに反対する大勢の暴徒達が草庵を襲いに来たのです。幸い、タイミングよく日蓮の元に幼馴染が駆けつけ、難を逃れる事になりましたが、一年後に鎌倉へ戻った際には伊東への流罪を言い渡される事になります。
そして、母の危篤見舞いのために実家へ戻った時には、その地主である東条景信の一団に襲撃されました。この時、日蓮は怪我を負う程度で済みましたが、弟子と応援に駆けつけた工藤吉隆は殺されてしまったのです。
1268年の蒙古襲来に対する幕府の対応に対し、意見した時にも幕府の反感を買い、竜の口刑場で斬首の危機に遭います。斬首は神の御加護によって逃れる事になりましたが、その後、佐渡島への流罪が確定しました。当時の日本ではこれは事実上の死刑宣告に当たったのです。
しかし、日蓮はこれらすべての困難を乗り越えて、晩年は身延山で静かに暮らす事になるのでした。日蓮が死に直面するような事件をすべて回避できたのは、日頃の神に対する信仰心のおかげだったのではないでしょうか。
都市伝説・武勇伝2「室町時代には京都の民衆の7割が日蓮の教えを信仰」
日蓮が1282年に入滅した後も、日蓮宗は身延山久遠寺を総本山として、弟子達の手によって全国各地に広められていきました。日蓮は生前から京都での布教を夢見ていましたが、それを日像上人が成し遂げる事になります。日像上人は3度の追放と赦免を繰り返して、ようやく、後醍醐天皇によって京都市にある妙願寺を日蓮宗の勅願寺にするという綸旨を賜る事になるのでした。
そして、室町時代には京都の民衆の7割以上が日蓮宗を信仰するようになり、さらに全国へと日蓮の教えが広がっていく事になりました。
都市伝説・武勇伝3「宮沢賢治は日蓮の言葉をモットーとしていた」
宮沢賢治は日蓮の言葉「われ身命を愛せず、ただ無上道をおしむ」をモットーとして生き抜いたとされています。この言葉は法華経の中に書かれているもので、「法華経を信じたものは迫害される、しかし、自分の命よりも無上道を守り、法華経の教えで人々を救って生きるのです」という意味が込められています。
ちなみに、法華経を信じたもののうち、中国の天台大師・智顗(ちぎ)や日本の天台大師・最澄などは危険な目に一度も晒されていないため、迫害された日蓮だけが本物の行者であると日蓮は主張しています。