日蓮とはどんな人?生涯・年表まとめ【日蓮宗の歴史、性格や名言、波乱万丈の人生を紹介】

1271年 – 50歳「佐渡流罪」

佐渡国の守護代へ預けられる

現在の佐渡島の風景

処刑を免れた日蓮は幕府による処罰が議論されている間、相模の国依智(現在の神奈川県厚木市)の守護代・本間六郎左衛門尉重連に預けられました。本間は国依智と佐渡国を治めている守護代で、ここに預けられるということはいわゆる拘束を意味しているのです。

そして、日蓮が捕らえられている間、鎌倉では大きな火災が多発しました。幕府の高官たちはこれを日蓮の弟子たちの仕業だと決めつけ、この問題を理由に日蓮を佐渡流罪に処する決断を下すのです。これまで、佐渡へ流されて生きて帰ってきた人はいないため、実質上の死刑ということになりました。

佐渡の塚原三昧堂へ収容される

塚原三昧堂

佐渡流罪で日蓮に与えられた場所は塚原三昧堂という場所で、ここは守護代陣屋の裏にある死体捨て場のお堂として利用されていました。そこで、衣一枚、蓑一枚で寒い冬を過ごすことになるのです。また、食事も自分で探さなければならず、木の根が主な食料になりました。

1272年 – 51歳「さらに厳しい環境にある一の谷のお堂へ」

阿仏房が食料を恵んでくれるように

日蓮からの手紙に対する千日尼の返信の手紙

日蓮が三昧堂へ来てから三日目の夜に日蓮のことを噂で聞きつけていた念仏宗を支持する阿仏房という僧がやって来ました。日蓮の説法を聞くためだったのですが、他の宗派を侮辱するようなら成敗してしまおうと考えていたのです。

しかし、実際に日蓮の考えを聞いた阿仏房は大いに感心し、信者として生まれ変わることになるのでした。そして、阿仏房とその妻である千日尼は毎日日蓮のところへ食料を届けてくれるようになったのです。「千日尼」の名前は、日蓮のところへ千日近くも通い続けたことから、のちに日蓮が命名したのでした。

一の谷お堂へ

一の谷のお堂は塚原三昧堂よりも酷な環境だった

阿仏房のエピソードは守護代の本間重連にも届くことになり、本間の主君である大仏宣時の怒りを買うことになりました。一連の事実を聞いた大仏は日蓮を一の谷お堂へと移すことにしたのです。一の谷お堂は塚原三昧堂よりもさらに劣悪な環境下にありました。

1274年 – 53歳「赦免状が幕府から届き、鎌倉へ帰ることに」

「立正安国論」の予言が次々に当たったことから、幕府から赦免されることに

2度の元寇の際に執権を務めた北条時宗

佐渡島へ来てから3年後の1274年の春、幕府から日蓮に対して赦免状が出されました。その理由は「立正安国論」において予言されたことが次々に的中したためでした。日蓮が佐渡で過ごしている間も蒙古から6回ほど使者が送られて来ており、このままでは日本が本当に滅びると幕府の高官が危機感を感じるようになったのです。

侍所の別当・平左衛門尉頼綱との会見

平左衛門尉頼綱

日蓮を島流しにした張本人、侍所の別当・平左衛門尉頼綱と日蓮は会見をし、今後の日本について話し合いました。その際、日蓮は今年中にも蒙古がやってくるため、その前に使者を送って相手の言い分に耳を傾けるのが得策だということを述べたのです。

しかし、頼綱はその意見に激情した上に、幕府の重臣たちもほとんどが頼綱と同じ考えを持っているため、日蓮の考えは却下されたのです。

1274年 – 53歳「蒙古襲来「文永の役」「弘安の役」」

「文永の役」

文永の役 蒙古の毒矢や飛び矢が活躍した

鎌倉へ戻って来た日蓮は1274年5月より、身延山に身をひそめることになりました。そして、時を同じくして1274年の10月、ついに蒙古と高麗の連合軍が対馬と壱岐を占領し、北九州の博多湾に攻めて来たのです。しかし、幸運なことに10月20日の夜に台風が襲来し、蒙古・高麗の連合軍の船が壊滅状態となってしまうのでした。

「弘安の役」

弘安の役 蒙古は大群でやってくるも、台風によって沈められる

蒙古は前回の戦を反省し、1281年に再び日本を攻めて来ました。蒙古・高麗の連合軍に加えて、南宋の軍も引き連れ、総勢14万人の大群が北九州を襲ったのです。しかし、この際も台風の季節であったため、船の大半が沈んでしまうという結果に陥るのでした。しかし、鎌倉幕府はこの蒙古襲来を境に徐々に勢力を弱めていくことになったのです。

1282年 – 61歳「身延山を下り、武蔵国・千束郷池上の里へ」

8年を身延山で過ごす

現在の身延山久遠寺

日蓮は鎌倉へと帰還した後、8年間を身延山で過ごしました。しかし、晩年は消化器系の病気を患い、病床につくことが増えるようになりました。そのため、身延山を下り、過ごしやすい平地で過ごすことを決意するのでした。

日蓮は甲州路を旅し、武蔵国千束郷・池上の里へ向かいました。池上の里では領主・池上宗仲の館にかくまってもらい、そのまま病床に伏す事になったのです。

1282年 – 61歳「池上宗仲の屋敷で入滅、死因は胃腸系の病気とされる」

自ら死期を悟り、静かに入滅

身延山久遠寺にある日蓮の墓

死期が迫って来た日蓮の枕元には6老僧(日昭、日朗、日持、日頂、日興、日向)が取り囲むように見守り続けました。10月12日には自らが書いた大曼荼羅を枕元に掛けさせ、北のほうを向いて正座し、自らの死を受け入れるような所作を施したそうです。そして、10月13日の朝8時(辰の刻)に日蓮は静かに入滅するのでした。

日蓮の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

日蓮文集

日蓮が布教したかった教えとは何なのかを解説した一冊です。「立正安国論」をはじめとする日蓮の主要書や多くの書簡などに一つ一つ説明を施し、日蓮の考えと人間性豊かな人となりに焦点を当ててその生涯を描いています。

日蓮 その生涯と思想

日蓮が生きた時代は強者が弱者を取り込む混沌の時代でした。この状況を打破しようと法華経に帰依し、自ら危険を犯しながらも日蓮宗を日本各地へと広めていった日蓮の生き様を描いています。武力に変わる仏法をもって世の道理にしなければならないと説いた日蓮の行動力に感服します。

おすすめ映画

日蓮

鎌倉幕府からの多くの弾圧を受けながらも、日蓮宗の布教に自らの生涯を捧げた日蓮の生き様を中村登監督、永田雅一製作の協力タッグで描いています。キャストには萬屋錦之介、田村高廣、丹波哲郎、野際陽子、松方弘樹など豪華な俳優陣を迎えています。

日蓮についてのまとめ

今回は日蓮について紹介しました。

日蓮は様々な迫害に遭いながらも、人々の幸福のために「南無妙法蓮華経」を世の中に広めていこうという思いで、生涯をかけて日蓮宗を世間に広めていったのでした。そして、その精神は21世紀になった現在でも多くの信者に受け継がれているのではないでしょうか。

この記事をきっかけにさらに日蓮に興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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